33
ひそひそとした言葉が入ってくる。
楽しそうではないし悲しそうでもないし、親しげでもないしかといって嫌いあっているわけでもないし、なんだろうなこれ。もっと人生経験積めば分かんのかな。
俺の乏しい人間観で例えるのならこれは多分、懐古ってやつが一番近いのかもしれない。
思いがけず出会った懐かしい顔に、お互いに手探りになっているような、なんかもどかしくてこそばゆい感じか。
戦場で敵として出会って、身体中が穴だらけになるんじゃないかって銃を打ちまくってなんで生きてんだこいつきめぇすげぇって思ってお互い死なずに停戦。その一年後ぐらいに場末の酒場でばったり出会った時みたいな感じといえば……いや分かりにくいかこれ。
その声達は、穏やかで落ち着いていたけど暖かみはなく、あるいは冷たかったかもしれないが、今の俺にとっては聞くだけで炎上しそうな心と身体を落ち着ける清涼剤みたいなもんでもあった。
聴覚が生きてるなんて幸運だ。
嗅覚と味覚は濁った鉄の臭いで埋め尽くされている。触覚。何かが俺の身体に触れていた。意識がはっきりする前に手足が狼藉者を成敗とばかりにその何かを投げ飛ばそうとし、赤茶けた視覚に映るその何かが見知ったガキんちょであることに気づき、こりゃいかんと抱え直した。
この世は全て我が僕と思ってそうな野良猫めいた抱え心地はレーヤダーナ・エリスに相違ない。
急に動いたからなのか、目の前が真っ暗になってひっくり返った。こりゃだめだ。血と力が足りん。
「あ、気づいた。てか、あんなだったのになんでそんな元気なの」
頑丈さは俺の取り柄だからなとかなんとか反論しようとした気がするけど口は動かず、喉の奥に絡んだ血反吐がごぼごぼと蠢くだけだった。
小うるさくて身体に良くない声には残念ながら聞き覚えがある。
「巫女さまー、そして巫女さまー。カナタが目を覚ましましたー。トドメさしていいですかー。ゲロインにされた恨みあるんでー」
おう、さしてみろや小娘が。そん時にゃあ腹の中身を口から吹き出してお前の顔面ゲロまみれにしてやんよ。
あ、でもトドメはちょっぴり待ってくれや。腹の中にはごろっとした種しか入ってないので、お前の顔面が破壊されることになろうだろうから。
「ぶっさいくな面を笑えばいいのか哀れんだらいいのか分かんないけどまあ、今のあたしがやりたいことは、ただ一つ」
そっと、柔らかかつとろけるようなと評判の俺の魅惑のほっぺたに遠慮という言葉を持たない山賊めいた指先がブスリと突き刺さった。
「……カッ!」
あまりの痛みに喉の奥に詰まった汚い血反吐が飛び出した。思ったよりも少なくて、おかげで窒息死しなかったのかもしれない。
「テ……メ……ぶっ……殺……」
「あーはいはい。とりあえず大人しくしときなさいって」
小娘、ラニーは抵抗できない俺のズタボロになった服をひん剥いて、なんだか得体のしれないドロリとした液体っぽい何かを手にまぶした。
何をするつもりだ。無抵抗なのをいいことに酷いことするつもりか。エロいことするつもりなのか。やめて。ここには子どももいるのよ。
「あ”ーーー」
俺の声とは思いたくないおっさんくさい声が出てきた。
なにこれなにこれ。新感触。塗られた部分の肌がそこだけ生まれ変わるようなむず痒くこそばゆい、どろどろに溶けた脳みそにぷるんぷるんした小指を突っ込まれてゆっくりゆったりかき混ぜられてるような、なんかやっちゃいけない薬を射たれた時みたいなアレ。
「ん、あんたもやる?」
おいよせ止めろ。ちっちゃい子に得体のしれない何かを渡すんじゃ……あ”、あ”、あ”~~。
そしてまたふっと意識が遠のいて、気づいた瞬間にはどれだけ時間が経っていたんだろう。
はっきりとした視界に映る、色んな場所を血で汚したハルの薄ら青い笑顔だった。
「ひどい顔になりましたね」
「お前もなー」
なんだかまた面倒をかけたみたいで正直すまんなと思う。
「大分、状態はよくなったと思います。後遺症については分かりませんが、単純な打撲に捻挫に脱臼に骨折、筋と腱の断裂に各種臓器の破裂。ああ、どこがどう傷ついて、どう壊れていたのかを詳細にお話ししましょうか」
「いやいい……」
自分のどこの肉と骨が外に晒されて神経が削れていましたよなんて聞いて喜ぶような特殊性癖を持ち合わせていないのだ。
「よくまあぴんしゃんしてますね。どうしてそんなに頑丈なんですか。ほとんど死んでたじゃないですか」
「……」
目をそらした。後先考えない自滅めいた、感情に任せた生き死にの喧嘩に自覚はあったのだ。そして今になってもっとすっきりしたやり方はあったんじゃないかと思ったりもするのに後悔はないという厄介な類の。
「別にカナタさんがなにをするのもご自由にという感じですが、あなたはあの子に対して責任がおありでしょう。もう少し、回りを見て行動すべきじゃないんですか」
「すんませんでした。頭の中が真っ赤に湯だって正常じゃありませんでした」
正論すぎて平謝りしか出来ねぇ。
いくら頭の中が沸いてたからって正面からの全力の殴り合いとか脳みそが虫に食われていたんじゃないかって感じがする。
ただ言い方っていうのかな、ハルさんよ。それじゃあまるであのガキんちょが俺のガキみたいじゃないか。
「無事に終わったことだからいいですが」
ハルの視線の先にはラニーがレイに寄っ掛かって眠っていた。レイの方は押し潰されて寝苦しそうだった。
懐中時計を取り出して時間を確かめてみた。午前三時。ここのお天道さまがいつ頃寝起きしてるのか知んねぇけど、お子ちゃまはとっくにお寝むの時間だってのは間違っちゃいない。
立ち上がろうとするとふらついて、ハルに支えられた。
「お話ししたいことがあるようです」
そこでようやく俺がどこにいるのかに気がついた。
怖いほどの静けさに満たされて、けれど水の一滴すら反響するような広々とした空間。
頼りない翠緑色の淡い光が所々に灯り、巨大な樹の根が頭上の果てから延びている。
根の底。巫女さまの寝殿にして御寝所。その奥に、彼女は目覚めた時と同じ、陰を宿した微笑を浮かべ、俺を待っていた。
「約束を守ってくれたみたい」
「そういう契約だったからな」
深い底無し沼のような冷たくて怖い蒼色の瞳に見つめらる。
やばい。何がやばいって、色んなことが終わって気抜けたカナタくんだから、気張ってないと魂ごと持っていかれちゃいそうになる。
それをハルが阻止した。
具体的には首を曲げてはいけない方向に曲げさせられた。泣いちゃいそう。そしてこちらはこちらで冷たくて怖い金色の瞳が待っていた。俺の下の方も怖くて泣いちゃいそう。
「大丈夫。彼を奪ったりはしない」
「奪うだぁ……?」
「私とこの人の間にそういうのは一切ないですよ」
その通り。その通りだけど、なんか釈然としないぜ。
俺とハルは不可解だと首をかしげた。こいつも言ったが、俺とハルが男女のアレ的なアレをしたりアレになったりとか、アレ的なアレに遭遇したりとかは一切ない。小波一つ立たない湖面よりもない。
「そうじゃない……けど」
巫女さまの瞳が俺たちの後ろに向けられる。心なしかその視線が、柔らかいような気がせんこともない。
「あー……あんた起きたんだ」
締まりのない弛んだ面にだらしない涎の痕跡を乗っけてラニーがレイの手を引きながらのっそり起きだしたようだ。
あれか。多少なりともレイが警戒しなくなったのはラニーの中からヘルダルフ成分が抜けたせいかもしれん。面倒な中年の加齢臭が染み込んでたみたいな。
「巫女さまがたが見てんぞ」
「……はっ、すいませんでした巫女さま! そして巫女さま!」
どっちがどっちだよ。
シャキッと直立不動の姿勢となるラニーだった。こいつの中への巫女さまへの忠誠心的な物はそのままのようだった。
けれどレーヤダーナにそんな殊勝な心がけがあるはずもなく、いつかとおんなじような光景が繰り返された。
大樹の巫女さまにちょろりちょろりと近寄ってふんふん鼻を鳴らす。くさいのかもしれない。口に出さなかったところに俺の成長を感じる。
さらによじよじよじ登っていく。当の巫女さままでもが硬直していた。次いでぺろりと妙に赤い舌を首筋に一閃。首をゆるりと傾げ、追撃で彼女に咲いていた花一輪をぱくりしてもにゅもにゅ。
レーヤダーナ鑑別士一級の資格を持つ俺の目でも何を思っているか分からない。基本的に節穴だから。
「ちょ、おまー! ちょ、おまー! 大変な失礼をー!」
ラニーが急いでレイを引き剥がそうとしてるが意外にも非力かつ貧弱なあいつがしがみついて離れようとしない。
既視感。ハルと会った時とほとんど同じ展開。奇しくも同じ巫女と巫女。けれどあの時のハルは少なくとも魔女の黄金瞳を持っていなかった。
やっぱり臭いのか。くさフェチか。こいつにしか嗅ぎとれないような匂いが二人から香ってるのか。二人とも植物系だしな。
「君は……誰?」
と問われたところで返事は出来ない。
「そいつはしゃべれねえんだ。名前はレーヤダーナ・エリス。悪意を撒かない限り害はない。多分。今のところ」
「そう。そういう……」
巫女さまは纏わりつくレイをなんだか意味深な沈黙で迎えた。
あれか。やっぱり超常の者同士でなんか感じるところがあるのかね。
「少し、離れてほしい」
そう巫女さまはおっしゃるが、大人しいから目立たないものの、基本的には自重をしない子なので、自分から離れるはずもない。絵面としては綺麗な花に灰色の毛虫がくっつている感じだ。
「……あなたは、彼らのもとにいるべき」
そう言って器用に枝を操ってレイを引き剥がすとハルへぽんと預けた。
そして贈り物なのかどうなのか。レイの胸元に一際大きく綺麗な蒼い花を添えるとお子ちゃまの興味はそちらに移った。
「で、話ってなんだ」
「種を食べたと聞いた」
「ああ、まあ、勢いっつーか出来心っつーかやっちまったっつーか食っちまったっつーか一夜の過ちっつーか」
あれ、やっぱり食っちゃいけないものだったかな。今更になって焦ってきた。
こんな妄想すらしてしまう。
そう、腹の中で芽が出て根が全身に蔓延って身体中の養分を吸い付くされてジジイだかババアだか生きてんのか死んでのかも分からん萎びた物体になって夜な夜な誰かの生き血やら新鮮な肉やらを求めて数百年そのまま這いずり回ってそれでもまだ生きてるとか……。
「はーなんて幸薄い人生だ」
「人に幸薄そうな顔とか雰囲気とか言った罰じゃないですか」
そうかもしれんなぁ。人を呪わば穴二つ。言葉がそのまま反ってきた。種を食うなんて選択したのも自分なので、自業自得以外の何者でもない。自重する気はないけども。
「身体に異変は」
「ない」
「この人の頑丈さは人並み外れとかいう言葉じゃ表せません。半分は不死身なんじゃないかって思ってます。……本当に」
「精神に異常を来したりは」
「ない」
「この人の頭の中身ってそれなりに常人と一線を画してるのでまともに見えてまともじゃないってこともありますよ」
「魂への汚染は」
「いやなにそれ怖い」
「レイちゃん大事ってとこが変わってなければ本人は特に問題ないと思いそうですね」
ハルよ、ハルさんよ。いちいち変な口を挟んでくるんじゃあないよ、小姑か。
それはともかくとして、そういうことを聞いて来るってことはそういうことがあったんだろうなってとこは推測出来る。ちょっと、わりかし、かなり不安になって来た、かも。
「でも、種ですから。実を食べたわけではないので、大丈夫じゃあないですか。ですよね」
俺の顔面の不安筋肉を読み取ったのかハルが巫女さまに確かめた。
巫女さまは俺とハルを等分に見て、最後に抱きかかえられているレイを眇め見た。
「彼女が何のために種を持ち出したのかは分からないけど、その行動は、必ずより良い未来になるよう選べる選択肢の幅を広げるという結果に繋がるはず。だから安心していい」
は? より良い未来? 彼女?
その行いを誰がしたのかという答えに繋がらない。だってそうだろう。この種を残したのは白い魔女。あっちこっちで災厄を起こしてあげくに封印されたとされるとんでもない力を持った魔女。そして化け物だ。
俺が知ってるそれらの記号は全て紙や言葉の上での伝聞に過ぎない。その実像を、俺は何も知らない。
「白の魔女って、どんな奴だったんだ。友達だったんだろ。すげえ力持った悪い魔女ってしか知らねぇんだわ」
巫女さまが遠い目をする。そこに懐かしさはあっても嫌悪や忌避に恐怖はない。友達ってんだから当たり前かもしれんのだが。そもそも友達って括れる他人がいたのが驚きだ。
「人嫌い」
「あぁ…」
「厭世的」
「ほぉ」
「面倒くさがり」
「ん?」
「頑固」
「は?」
「一途」
「はぁ?」
「健気」
「ほぉん?」
「人が嫌いなくせに、どこかで他者を信じる、信じたいと。人は決して醜いだけの命ではないのだと。そうした星が真にあるのだと知っているから、祈って願って諦められないと胸に抱く様な、そんな子」
え、なにそれ。抱く印象が根は同じなのに方向が枝分かれしている。
もっとこう、毒々しいというか邪悪というか巨悪というか、高笑いしながら大破壊を齎す悪女的な鞭の似合う女王系、いつも冷笑を貼りつけて他人も自分も塵屑だと断じて憚らない破滅冷徹姫様系みたいな、とても分かり易い悪の縮図を想像してました。
白の魔女とは悪い奴という構図じゃあないってこと。いや、そんなの俺だってそういう面はあるだろうと思ってたけどね。単純な善悪で真っ二つに出来る奴はそうそういないわけだし。
「人並みに優しく、人並みに残酷で、つまりはどこにでもいるただの一人の人間だということ」
「それは本当か?」
「信じるのも信じないのもあなたの自由。これは私にとってのあの子だから」
そりゃあそうだ。さっきも思ったけど、人間は白黒二つだけじゃあなくて色んな面を持っている。一方では善良な事業家面して、確かにそいつに助けられた人も大勢いたが、一方では非道な人身売買に手を染めて、恨み辛みを買ってる奴だっているのだし。
少なくとも巫女さまにとっては友達と言えるような人間だったんだろう。
「で、種はどうなるんだ。なんかもう割と消化されてる感じなんだが」
「ハル。こっちへ」
巫女さまはハルを呼び寄せて耳元に口を寄せ、ひそひそと何か吹き込んだ。ハルが嫌そうな顔をしている。俺は別に嫌でないので気にはなるが聞きもしない。聞かせるべき時が来たら聞かせてくれんだろ。
ところで種はどうなんのとしつこく聞き出す。
「今、生きているのなら問題ない」
さようでございますか。心温まるご返答クソありがとうございます。正直、めっちゃ不安です。
「少し疲れた。終わらせるべきを終わらせる」
ああ、そうだった。そういう結末だった。
この巫女さまが意外にも馴染んでたんでずっと続けられるんじゃないかって思ってた。
だけど終わりは来る。元より彼女は言っていた。この大樹を終わらせるのだと。
「私は疲れた。ここに繋がれ続けるのは。それに、最後に夢を見れた。だから――」
巫女さまが顔を上げた。
決然と、凛然と。あるいは幽遠に。




