26
誰かに呼ばれた気がした。
ハルは振り返ったが誰もいない。
眼下に映る光景は変わらない荒涼とした街並みで、その上に突如として押し寄せてきたヴィルヴィスの遺骸が積み重ねられていた。
それは彼らの総数としては微々たるもので、今もどこからか湧いてきて大樹へ殺到し、上へ上へと逃れていくハルたちを見上げていた。
顔などないのに表情などないのに、声などないのに届く意志がある。
逃がさないと。
けれど不思議とハルは危険を覚えなかった。
逆にその姿になぜか胸が痛くなった。
彼等は突然、雲霞の如く、ヴィルヴィスらが襲い掛かってきた。初めて出会った時と同じように唐突な出現だった。
建物の影から、地面の下から、あるいは空から降ってきてハルたちを取り囲んだ。
そうして攻撃を仕掛けてきた。
数は力をそのまま体現するように。
イオニア猟兵団にヘルダルフに忠実な兵が揃っていてもそれに倍する以上の数で襲い掛かられては逃走する以外に選択肢はなかった。
大樹の近くにいるからか、ハルたちが襲われた時よりも強力な個体が襲い掛かってきたのだ。それもずらりと雁首並べて。
倒しても倒しても津波のように押し寄せてくる自然現象のような彼らに対抗出来る術は限られ、何人かの犠牲を払って大樹の中へと逃げ込んだ。
そこで落ち着く間もなく妙な、この都市に訪れる前に乗ったエレベーターのような装置で上へ上へと向かった。
幾つかの階層に別れていたようで居住区のような場所もあれば研究施設のような場所もあるようだった。
聖樹が巨大にすぎるので当然それだけではないのだろう。
全容を知るには丹念に調べていくしかないのだろうがあいにくとそんな時間は用意されていなかった。
低階層は恐らくはここで働いて人のための細々とした施設が入っていたようで、そこから先の階層は何を研究していたのか分からない。
セヴェロは舌なめずりをせんばかりに興奮していたが今は王様のご機嫌伺いの為にヘルダルフの望みを優先するようだった。
大樹の中にもヴィルヴィスは存在していた。
上層へ向かえば向かうほど数は少なくなっていったが下層や大樹の外の個体よりも巨大で強力なものになっていく。
そうして辿り着いたのは玉座の間だろうか。
広々とした空間。
玉座といっても壇上に豪奢な椅子があり、その玉座を彩るよう装飾が辺り一面にちりばめられているわけではない。
むしろ、ここを中心として嵐が起こったかのように荒れ果てていた。
自然に倒壊したのでは発生しえない人の手による破壊の傷跡が其処彼処にあり、さらには嵐に便乗してそこらを舐め回したように燻る大火の痕跡や不自然に切り取られたあのように綺麗に刳り抜かれて青々とした空を臨める巨大な穴。
ここで何かの戦いがあったことは明白だった。
どこかで見たような気がするとハルは思った。
不意にレーヤダーナが空から星の光を落とした光景を覆い出す。穴の断面は恐ろしいほどに綺麗でそれを思い起こさせる。
ハルはレイを見る。
今のところ、あの時のような異変の起こる予兆はない。
表情一つ変えていないし、あの眼鏡も頑丈で罅一つ入っていない。
ゆるゆるとだがハルと手を繋いで離そうというそぶりもない。
「備えろ」
ヘルダルフの声にはっと意識を戻す。
そこにはいる。
寒々しいまでに広い空間の奥の奥。
玉座の前に膝をつくようにして俯く巨大なヴィルヴィス。
その姿を目にした瞬間、突如としてハルの左眼に痛みが走る。
辺りを見回す。ヘルダルフらの姿はない。手を繋いだレーヤダーナだけがいた。
景色はがらりと変わり、広大な広間には大勢のヒトの姿があった。
彼らは薄絹のような衣を身に着けて、人と同じ言葉を話し、人と同じ振る舞いをし、人と同じ笑顔をしていた。
異なるのは身体のどこかに花のようなものが咲いていたことか。
目、頭部、腕に手の甲、肩や背中と咲いている場所は違っていたが、皆一様に美しい青色をしていた。
視点は独り歩きを始め、この青い花の中心を見つけ出す。
現れたのは一際綺麗な花を右目に咲かせた白金色の髪をした偉丈夫だった。浮かべた笑みは自信と誇りに、無数のヒトビトに向ける視線は慈愛に満ちて、彼がヒトビトにとっての王なのだと確信させる。
彼の傍らにこの群衆の中で一際異彩を放つ少女がいた。
身なりこそ彼らと同じく身綺麗にされていたが彼女だけは違う。ここにいる者は大なり小なり自らに咲いた花を自慢げに見せつけているのだがその少女にはどこにも花が咲いていなかった。
なによりも、その手足に繋がれた鎖を目にすれば彼女がどんな立場であるのかは一目瞭然だ。王の為、素晴らしい歌声で鳴くことを許された籠の中の鳥。
瞳は暗く沈んだ蒼。危険そうな雰囲気はなにもないのに一歩足を踏みだせば二度と這い上がれない沼底に引きずり込まれ溺死してしまいそうな得体の知れない磁力があった。
世界からはずれて生まれたくせに、それでも世界からはずれていると認められなくて、けれど世界を壊すことも出来ずに膝を抱えてうずくまるしかできない弱い人間。
だから、『ワタシ』は初めて会った彼女に親近感と共感、そしてなによりも嫌悪を覚えた。
足を踏み出そうとする。
引きずり込まれる?
出来るのならばやってみればいい。こちらこそ引きずり込んでやる。
群衆を掻き分けて、王になど目もくれず、その少女に言ってやりたいことがあったから。
けれど押し止められる。
自分の手を引く誰かがいたから。
王と同じ、白金色の長くふんわりとした髪が視界の端で踊っていた。
髪と同じ色の瞳と美しい青い花を右目に咲かせた少女が行くなと告げていた。
■■■。
『ワタシ』の口がその名を告げた。
瞬間に、灰色の瞳が『私』を見上げているのに気が付いた。
控えめにゆるゆると手を引かれていた。
レーヤダーナ・エリス。旅の途中で出会ったとても幼く、とても不思議で、私をこの場に留めた神さまの生り損ないとされている子ども。
景色は変わらず荒れた広間。
数瞬の忘我の後に取り戻される自我。
ハルは頭を振って居座る虚ろからこちらへと戻ってこようとした。
夢というにはあまりにも生々しく痛々しい感情の揺り幅に、胸の奥で鼓動が苦鳴を漏らしている。
未だに自分が巫女だなんて自覚はないが、それでも自分に起きている異変異常は明らかで、流石にそれを否定するほど神経は捻れていない。それも、この聖樹へと近くなるごとに異変の頻度は高くなっている。
やはりあれは実際に起きたことなんだろうか。
白の魔女。時女神と同じ力を持った禍の魔女。自分は彼女と同じ色をした左眼を通じて過去を見ているのか。
「巫女さま。なあ巫女さま。何が見えたのかな」
ゾッとした。
人間の目で見られている感じがしない。
「何が見えたって…………」
ハル自身、何を見ているのか理解しているわけではないのだ。
「あなたは何かが見えているんですか」
「はは、ははは、はははは。私にはなにも見えはしないさ。君のような特別な、そうさ特別な目なんて持たないし。私に見えるのは今の目の前に広がる光景と、この目に焼き付いた過去と、だからこそ掴むと決めている未来だけだよ」
見えはしなくても、なにかを知っているのは間違いないはずだ。なぜって、何を見たのかと聞いてくるのではなく、何が見えたのかと断定していた。それもこの上ないタイミングで。
「それで、その黄金の眼で。古の魔女と同じ目で。時を従える星の瞳で。君は何を見たのかな」
巨大な虫の魔物の複眼に晒されたとしたらこんな気分になるのだろうか。
セヴェロが無表情で何もかもを見透かしたようにこちらを覗き見ている。
「そう怖がらないでくれたまえよ。傷ついてしまうじゃあないか。私は君たちに害を加えない。加えたところで益はないし、むしろ五体満足でいたくれた方が都合が良いのだよ私にとっては。古代の秘儀に秘法。その再現と検証のためには過去と同じ条件がより整っている方が好ましく望ましい」
「……あなたは、あなたは、誰ですか」
それは、何を口にしようか思い浮かばずに、けれど何かを口にしなければこの男の持つ不気味な何かに飲み込まれそうな気になったからこそ出た何の考えもなく、自身でも意味不明な問いかけに過ぎない。
セヴェロ・エイフレット。どこかの大学の元教授。イオニア猟兵団の聖樹探索に協力し、自身の知識欲を満たすためにザシャ・シュラールの両親を死に追いやった男。
この世界、女神のつくりたもうたこの世界に疑問を呈する男。
その男が嗤った。
口が裂けたと思った。錯覚だ。けれどハルはそう感じた。
貌の半分が真っ暗闇に溶けたと思った。それも錯覚だ。けれどハルにはそう見えた。
「君には、君には見えたかな。この聖樹がどんな結末を迎えたか」
「……いえ」
結末などではない。
おそらくは、結末に至るまでの些細な情景にすぎないだろう。
そこから先は、何がある。何が起こった。気にかかる。とりわけ青い目をした少女は殊更に。
「残念だ。実に残念だ。出来うるのならば是非ともその結末を見届けてほしい。見届け、白き魔女を想って欲しい。そうすれば君は魔女として、巫女としてより高みに近づけるだろうから」
大袈裟な身ぶり手振りに芝居がかった喋り方。
……もしかしたらこの男はこの聖樹で何が起こってどうなったのかを知っているのではないか。
それはただの直感で、根拠と言えば如何にも何か知っていますよといいたげなもって回った言い回しと白の魔女がここを訪れたという言葉。あとは癪に障る含みを持たせた薄ら笑い程度しかない。
生き残った聖樹の民が何が起こったかを伝えている可能性だってある。
文字として書き留めたり、あるいはレリーフに描かれたいたように絵でもいい。
白の魔女が来て災厄をもたらしたとでも分かり易いように現代に残っていればセヴェロのように口の端に上らせることぐらい出来るだろう。
知っていてその程度のはずなのだ。
けれどこの男から感じるのは断片的な出来事ではなく、ここで起こった全てを知っているのだという不気味に過ぎる雰囲気で。
息苦しいのは気のせいではない。
気おされている。
特筆すべき容姿もしていないただの中年。
軽い煌力魔法でも浴びせればたちどころに昏倒してしまいそうなただのニンゲンのはず。
「ああ、幼子よ。そんなに強い瞳で見ないでくれたまえ。君にそんな瞳で見つめられると私の心は悲しみで張り裂けてしまいそうだ」
レーヤダーナ・エリスがセヴェロを見ている。
分厚いレンズに遮られた奥で、善意も悪意もない透き通った灰色の眼でセヴェロを見ていた。
思い出すのはいつかの災禍。
天から降り注ぐ光の流星雨。
「大丈夫だよ怖い瞳の少女。私は君の怒りを受けるには値しない矮小にして醜く爛れた腐った人間の一つにすぎないのだから」
レーヤダーナを引き寄せる。セヴェロに近寄らせてはいけない気がしたからだ。
「あなたは、なんですか」
今度は確たる自分の意志でもってそう聞いた。
「私はどこから来たのか。私とは何者か。私はどこへ行くのか」
教会における教理の一つで人が人として如何により良く生きていくかの指標ともなる言葉だ。
日曜学校程度で伝えられるようなもので多くの人が知っていて、そして忘れ去ってもいるようなありふれた言葉。
「ああ、ああ、安心なさい君たち。私は君たちが気に掛けるほどの価値もない、この世に何ら益するところのない愚人」
それはこの享楽的な男らしからぬ穏やさを含んだ声音で、だからこそ、本当の怖気という言葉はこういう時に感じるものかとハルは思ったのだ。
かつて目覚めた狂する白の魔女や、ここにいるレーヤダーナ・エリスのような人理を超える現象を引き起こす、いわば神のような存在に恐れを抱くのは人間が持つ当たり前の感情であり自然と備わった回路であり即ち安全装置だ。
けれど目の前の男は違う。
「愚人なのだよ私は。どこから来たのかなど覚えておらんし何者であるのかなど私だけが知っていればいい。どこへ行くのかなどとうに決めている。……ああ、そうだそうだ。そうだった。私はただひたすらに」
左目がうずく。魔女の黄金瞳がこの男の心底を見定めようしているのか。
目の前の男が真っ暗な黒い何かに溶けて崩れてぐずぐずと形を持たない何かに変わっていくように見えた。
「この世界が、だぁい嫌いなのだよ」
ひたすらに広がる黒い染みのような不定形の何かが、心からの情愛を込めて、囁くように、そう言った。




