22
聖樹の都イルミア。
遥か過去に存在していたとされる伝説の都。
幾人もの冒険家、探検家がその発見に心血を注ぎ、志半ばで諦めざるを得なかった夢の正体。
そこは荒廃と停滞が澱のように積もっていた。
人も野生の獣すらも命が存在しないまま何年も、何十年も、何百年も、時だけが過ぎて行ったように感じられた。
とてつもなく広い空間だった。
見上げればどうしてか空があり、はるか遠くには切り立った断崖が、そして巨大な瀑布が静止しているように見えた。
この世界はいったいどこまで続いているんだろう。
あの扉を潜った先は自分たちがいた場所とはまったくの別世界だと言われても納得してしまう。
それというのも視界を支配する巨大な樹。
天の果てにまで届こうとするほどに巨大な樹。
いかに伝説とされていようとも、いかに幻とされていようとも。それは結局、他所から語られる話でつまるところ、伝聞という形でしかない。
ただし、その樹は枯れ落ちていた。衰え病んで萎えた老人のような有様で、さらに至る所が炭化し崩れてしまいそうだった。
してみると、空から降る薄灰色の光は大樹の燃え滓のようなものなのか。
どんな素晴らしく見ごたえのある名画でもどんなに耳に心地よい御伽噺でも、実物を目にしてしまえばそれらが陳腐になり下がるほど、その樹の巨大さは圧倒的に本物だった。
そこに感動がない、といったら嘘になる。
けれどそれは、あの時にいた仲間たちと一緒に味わいたかった。
繋いだ小さな手を握ると守らなくてはならない小さな身体が身じろぎした。
黄金色の冷たい光を左目に宿したハルの傍にいるのは小さなレーヤダーナだけ。ラニーは茫洋とした瞳でどこを見ているのか分からない。気をしっかりもたなくてはめげそうになる。
ハルは目線を下げた。
時運たちは今、勝手に動く床に乗って都市の中心へと向かっているようだった。
音もなく快適といえば快適だが周囲の環境はそうではない。
周りにいるのは銃で武装し、しかも一人の非情な男によって心も体も支配された集団で、さらにその男は他人を害することに何の躊躇いも持たない類の野蛮な人間だ。不用意な発言一つでどうなるかも分からない。
自分については今はまだ利用価値があると思われているから大丈夫かもしれないが、レーヤダーナに関しては単純に命令を聞かせるためだけの人質でしかないはずだ。
命令を聞いている限り、この子は無事だと思うのは甘い考えだろう。彼らは猟兵。いざとなればどんな手段に出るか……。
一瞬だけ逃避したくなって都市へと視線を写す。
聖樹の都というだけあって都市の至る場所に巨大な木々が生えていた。それらはすべて枯れているか朽ちているか、大きな火が燃え移って炭化したか、かつては都市を結ぶ連絡橋やそのまま居住区としても機能していたように見える。
そしてそれらの樹には蝶の繭のような、あるいは卵の殻のような、奇妙な実のようななにかがぶら下がっていたり根本に寄生したりと不気味な様相を醸し出していた。
「巫女さま、なぁ巫女さま」
特徴的な喋り方。
おそらくはこの集団の中で唯一、ヘルダルフの支配を受けていない男、セヴェロが話しかけてきた。
「ここに辿り着いてから身体の変調や不可思議な事象を経験してはいないかな」
ガラス玉めいた目に浮かぶ好奇心。
少しだけ返答を躊躇ったハルだったが伝えても害されはしないだろう。むしろここで自分がするべきは彼らから自分たちが知らないだろう情報を少しでも引き出して後に繋げることだと考えた。
「……自分の煌力が増していることと、あとははっきり覚えていませんがしていませんが夢を見ました。その中で私は別人になってこの都市に訪れていて、大樹の巫女と呼ばれる方にお会いしました」
「本当に、本当に覚えていないのかな。もし嘘だとしたらその子どもがどうなるか、おお怖い怖い」
露骨な脅しにレーヤダーナと繋いだ手に力が入る。
嘘ではない。
彼らの言う所のヴィルヴィスらを煌力魔法で薙ぎ払った時、明らかに自分の力量を超える威力を出していた。
それに夢についても。カナタやザシャに伝えたのと凡そ変わりはない内容を話した。
「それにしても、大樹の巫女! 大樹の巫女か! これは私の研究とも合致する。実に興味深い内容だ。一介の少女が知るわけもない単語だからね。今の聖樹の民ですら知り得ないものだよ。しかしなぜ君がその大樹の巫女の視点ではなかったと気にならないかな、かな?」
言われてみれば気になるにはけれどそれはそんなに重要なことなのか。
そもそも自分が彼らの言う巫女だなんて自覚もないのだ。
尋ねられたところでハルにしっかりとした返答が出来る筈もない。自分が体験した不可思議を感覚を言葉にしようとしても形にならずに詰まるだけだし、なにより思い出してきた夢についての全てを伝える気もなかった。
自分たちの前に立ちはだかる大きな黒い影とそれに立ち向かう赤い髪の人物。加えて自分も戦おうとしていたように思える。他にも誰かいたような気がするけれど。
「あなたは……彼の支配を受けていないんですか」
「そうだとも。ああ、そうだとも。私は聖樹の民ではないからね。彼の祈りは聖樹の民でないものに効果が薄いのは伝えていたね。強固な自我を持っていれば揺らぐことはあっても支配されることはそうそうないのさ。そういった意味では君のお仲間だった彼は自我を持っていると言えるだろう」
強固な自我。
それを基準にするのならば今の自分はどうだろう。カナタたちと出会う前の自分であれば母に託された願いがあった。
だからどんな困難を前にしても乗り越えてやるという気概が持てた。だけど今は、自分が何をしたいのか、自分に何が出来るのか、何をしていいのかはっきりとせずに曖昧なままに日々を過ごしている。
そしてそれが許される環境にいる。
そんな自分であればたやすく支配されるんじゃないか。
顔に疑問が出ていたのかもしれない。
「君は貴重な巫女さまだからねぇ。彼らのように人形同然になられて機能を喪失されては困るのだよ。生きている間に次が出てくるとも思えないからねぇ」
「あなたはどうして彼と一緒にいるんですか」
「うんうん。良い質問だ、良い質問だね。私はね。この世界の秘密を知りたいのだよ。聖樹という都市は現代でも及びもつかない超文明を持っていたのだよ。ほぼ無制限に遠く離れた人間と自由に会話出来る装置。ここに来る時に使ったようなまったく別の場所へと転移できるような扉。人の手の及ばない空を自由に飛ぶ人造の煌鉄の鳥。空のさらに果て、星々の世界にすら手を伸ばしていたとされている。いやーびっくりだ」
母が言っていたことがある。御伽噺の中でも古すぎて今や口にもされなくなった類の物だ。
知っていたしても本気で信じている者などいないとも教えられている。
煌力という便利な道具と力があるからこそ限界を知っている。それらを使っても似たようなことは出来ても限界値は遥か手前の水準で留まっているのがこの現代文明。
遠く離れた誰かと会話が出来ても距離の制限がある。まったく別の場所への移動なんて夢物語だ。空については女神の支配する領域で手を出すなんてとんでもない。星々の世界なんて何を言っているのか意味が分からない。
「君たちはこの世界について不思議に思ったことはないかな。君たちの持つ力の存在や女神が私たちに託したと教会が嘯いている煌遺器。なぜそんなものが存在するのか。今、私たちが当然の様に『ある』と認識しているこれらはいつからどうして存在しているのか。ちょっとした縁からそんな疑問を抱いてね。おかげで今やそれを知ることに躍起になっているというわけさ。聖樹の都のような古代の遺跡にはそれらを解き明かす欠片が眠っているのではないかと期待している。それが彼に協力している理由さ」
煌力や煌遺器について疑問に思ったことはない。あるものはある。なぜってそれが常識だから。
煌素についてもこの星が生み出す力と言うのは分かっている。それは石や木々などの自然物にも宿り、長い年月を経て人や獣を成長させてきたのだとも。
けれどそれがどうしてあるのかなんて考えもしなかった。
「それを公表して誰かと共同して研究しようとはしないんですか」
「はっはっは。面白い。面白いことを言う巫女さまだね。公表したところで一笑に付されるのがオチで、そもそも許されはしないだろう。なによりこれは私の知りたいことでどうして誰かと共同で知識を共有しなくてはならないのだね。こんな素敵な謎の答えを得るのは私一人だけでいいだろう」
「だからシュラール夫妻を殺害したのですか」
「勿論だ。私の楽しみを奪われては堪ったものではないからね」
……この人は。この人も、ヘルダルフと同じ類の人間だとハルは思った。
自分が良ければそれでいいという類の。
昔の私なんか及びもつかないほどに自分だけで世界が完結していた。
ああ、なんて気分が悪い。
「重要なのは種と実だ」
ヘルダルフが割り込んできた。
「セヴェロ、お前の好奇心が俺にとって利用価値がある限り同行を許すという契約は変わっていない。自分以外の誰にも古代の文明に触れさせたくないという身勝手な願いは知っている。だがそれも俺の願いが優先されている限りにおいてだ」
「おお、勿論。勿論知っているとも。実についてもこれから聞き出そうと思っていたのだよ」
種に実。母から聞いた大いなる実り。そしてラニーが持っていたペンダント。
大樹の巫女から手渡された種は巡り巡ってラニーへと辿り着いていた。
「それで巫女様。彼が執心している種と実についてはどうなのかな。手渡されたそれはどこに行ったのかな」
ラニーを見るがその首元にそれはなかった。倒れたカナタの指先に引っかかって気がするけれど。いずれにせよ、その所在を明らかにする必要はないだろう。
「知りませ……ッ!」
遮られた。
首を掴まれた。凄まじい力で持ち上げられる。
「嘘をついていないだろうな女」
「こらこら、こらこらヘルダルフ。それでは喉が絞められて返答なんて出来まいよ」
「どんな状態でも期待に答えるのが俺の女の役目だ」
「さっきも言ったけれど貴重な貴重な巫女さまだ。ひいては新たな聖樹の民の礎となる女性だ。丁重に扱いたまえよ」
セヴェロがとりなすと、ハルの意識が飛びかけたところで離される。
「大樹の実には食した者の本質をより一層顕在化するという能力と、多くの人が夢見る笑ってしまうような不死性を与えるという力があるらしくてね。まあ、彼の最大の目的は聖樹の加護を得るということにあるのだけれど」
「余計なことを言うな」
喉を押さえて激しくせき込む。
聖樹の加護。
それは、ラニーが暴走した時のようなアレか。
言葉通りの意味であればヘルダルフはその加護を受けていないらしい。
「彼も彼で必死なのだよ。最後に残った純血の聖樹の民なのになぜか加護を受けていない。残された民の期待を一身に背負っているのに加護を受けていない。だから彼は手段を選んでいられないのさ。どんな悪行も蛮行も目的を叶えるために必要だと判断したら躊躇わない」
銃声が聞こえた。
セヴェロの服に穴が開いた。少し動けば肉が抉られていただろう。
「口を閉じろ。何を発言しても許されると思うなよ」
「おぉ、おぉ、怖い怖い」
セヴェロは撃たれたというのにへらへらと笑う。
恐怖を感じる機能なんて物がそもそもないのかもしれない。
ヘルダルフが目的の為に手段を選ばない男なのはディルナの村を襲撃したり問答もせずにザシャを撃った件で知っている。
どうしたら、レーヤダーナを逃がせるか。
レーヤダーナが心配してなのか分からないが冷たい身体でぺたりと抱き着くように触れてきた。
「ほほう、麗しい様子じゃあないか。どうだね。どうだねヘルダルフ。この健気な構図に君は感じ入るものはないのかね」
「くだらない」
「君がそういった物を嫌悪しているのは知っているけれど。だからといって無意味な暴力は詰まらないだろう王様。少なくとも今はまだ五体満足の巫女がいないと実のある頂きの庭園にはたどり着けないかもしれないんだから。なにより君の妻となる女性じゃないか」
耳を疑った。
何を言っているのかと。
妻。誰が。女性。私しか。
血の巡りが悪くなったせいなのか、とりとめのない思考がぐちゃぐちゃと頭の中に足跡をつけていく。
「おや。おやおや。理解が追い付いていないと言う顔をしているね。いいだろう。ここは言葉足らずの王様に代わってこの私が説明しようじゃないか。イルミアが女性主権の国だったのはザシャくんから聞いているかな。大樹の巫女を中心とした神権国家だったのだよ。しかしかといって男性の地位が低いわけでは決してなかった。それというのも巫女に守護者がついていたからだ。巫女には必ず女性が選ばれるように、守護者には必ず男性が選ばれていたというわけだ。この守護者の役割だがね。有事の際に一族の先頭に立って先陣を切ることは勿論それに先だって巫女から大樹の実を賜る栄誉を授かっていたのだよ」
そうだった。そうだった気がする。あの時も立ち向かってきたのは男だった。
自分が倒れた神殿めいた場所のレリーフを思い出す。
その中の一枚には外敵に立ち向かう男の姿が彫られた物があったはず。
「聖樹と巫女があまりにも密接に関係している為か存在感はあまりないけれど、巫女を女王としたら彼らはその配偶者。つまり夫であり王様に当たるわけだ。巫女には守護者を選ぶ権利があったというけれど、そのあたりまでは分からないのだよ。はっきりすると私としても助かるがね」
……冗談じゃありません。
「うん? 何か言ったかな?」
苦しくって声は出なかった。
だけど心の方は喚いている。
人を馬鹿にするのも大概にしろ。
好き勝手暴力を振ってあげくの果てには妻になるだと。
礎というのはそういう意味か。つまり、ヘルダルフに無理やり番わされて子を産む道具になれと言っているのだ。そうして築き上げる新しい聖樹の民の王国。王様はヘルダルフ。彼にとって都合の良い彼を良い気分にさせる為の王国。
ハルは母を失うまでは母に従って生きてきた。
魔女としての役割も、薬師としての技術と知識も母にそうして欲しいと頼まれたからやっていただけだ。
二人だけの狭い世界でずっと生きていくのだと思っていたし、そうなることに不都合もなかった。
けれど母を失って、流れるままに漂流していた自分を見つけたのはカナタとレーヤダーナだった。
必要とされるのが嬉しかった。懐いてくれるのが嬉しかった。
あの二人に関わって、ほんの少し世界が広がって少しずつ変わっていく。そんな自分は悪くないと感じていた。
母から託された願いはもう消えてしまって自分の中にあったはずの強い気持ちもなくなって。
気持ちを表すのが苦手なのは母といた時には知らなった自分で。
時にはそれで悩んだりもするけれど。
ラニーも言っていたじゃないか。
あたしはあたし以外の誰にも、何にだって自由にされたくはないと。それは私も同じだったはずだ。
私の命の使い方は誰にも侵させません。
いつかも言ったこの台詞。
今の自分の新しい望み。
自分を庇うように抱き着ているレーヤダーナと、この子をいつも心配そうに見守ってるカナタを思う。
二人ともう少しだけ一緒にいたい。そして出来れば見守らせてほしい。
そんな小さなものだ。
そこにヘルダルフたちは不要だ。彼らはいらない。つまりは邪魔だ。
「ああ、もしかして一緒にいた煌士くん。彼は君の恋人かなにかだったのかな。まあ、気の毒だったとは思うがね。なに、王様は粗暴だが大人しく従って不興を買わない限りは殴られたりしないさ。そうだろうヘルダルフ」
「俺を敬愛し、従順であり、全てを捧げ、身を投げ出せ。大人しくガキを産み、俺にとって都合の良い駒を増やせ。それがお前に与えられた役目だ巫女の娘。今後、お前に自由はなく意志は必要ない」
ヘルダルフを見上げる。
見下ろす男の目に宿っているのは冷徹な凶暴さだ。
それは男から向けられる好色な視線じゃない。物だ。どうすれば機能的に使えるかと値踏みするだけの冷たい視線。
冷徹な人間だというのは分かっている。
唯一熱が灯ったのは聖樹の加護を受けていないなんて話が出た時だけだ。
そんな男に自分の人生を左右される。
「冗談じゃありません」
母を失った私がなにをすべきか、なにをしていいのか、まだまだ手探りだけれど少なくともこんな男たちにいいように扱われるためじゃない。
どうしたらいいかもあやふやだけどそう決めた。そう決めたのならやり遂げるまで。ああ、これはカナタさんが思いそうな言葉の連なりですね。
そうだ。カナタだ。
あの一見いい加減そうに見えてその実、自分の領域を侵す奴らを許さない人がこのまま黙っているはずがない。どんな怪我をしていたとしても必ずやってくる。
ここには彼の宝物。もしかしたら命そのものかもしれないレーヤダーナ・エリスがいる。
「あなたたちは、奪われる側の気持ちを考えたことがありますか」
「おやおや。おやおやおやおや。いったい全体どうした意味なのか。巫女さまからのありがたいご託宣かな」
考えたこともないのだろう。
彼らは生まれてからずっと奪う側でしかなかったのだろう。
「その傲慢さが這い上がれない落とし穴に嵌る原因になるでしょうね」
「はっはっは。シュラール夫妻のようにかい。巫女さまも面白いことを言うねぇ!」
ハルの胸に火が灯る。
それは小さな意志で小さな種だ。
冷たい黄金の瞳に降り積もる灰雪めいた意志の力。
この場所でなかったらハルにしか意味のない決意だっただろう。
けれどここは聖樹の都。巫女を頂点としていた古の都。
枯れて焼け落ちたとはいえ聖樹の権能がすべて滅びたわけではない。それは聖樹の民への加護が消失したわけではないのが証明している。
ハルの意志が聖樹に届いた時、異変が起こった。
あなたたちが、破滅しますように。




