クルムナ
旅というものに夢を持つものは多いかもしれない。
人生の大半を旅で過ごしてきた私にとっては、旅とは生きる上で必要な行為でしかない。
私たちジンナ族は流浪の民である。
先日、私に愛を告げた女は今、腸を空に向け横たわってる。
頭上では、卑しい禿鷹どもが、我先にと円を描き様子を伺っている。腹からあふれ出た血潮は春風に乗り、少し離れたところまで鉄臭さを運んだ。ここに私が立っているのは、紛れもなく神のご慈悲に授かった証である。これまで幾度となく、このような場面に遭遇してきたが今回はより一層後味が悪かった。あちこちの家屋は黒く燃え焦げ、数日前の賑やかさはもう無い。
私に微笑みかけてくれた住人たちは顔を歪め道に転がっていたり、焼け焦げ人間であったかも分らぬほどだった。私が呆然と立ち尽くしていると、焼け崩れた家の跡から赤子のような声が聞こえた。
駆け寄ると確かに声がする。私はまだ熱の燻る木々を退け、声の主を探す。手の痛みを感じる暇はなかった。まだ生き残った者がいるという期待が、私の体を突き動かした。
やっと肌が見えた時、私の光は消えた。声の元は赤子でもなければ生き残りでもなかった。焼かれた人間の腹が膨れ上がり傷口から空気が漏れる音であった。もし私がこの村に1日多く滞在していたならば、など考えても無意味だ。ここは安心に胸を撫でおろしておくべきか、それとも彼女の死を偲ぶべきなのか。私は塚をつくり、祈りを捧げることしかできなかった。彼女らに神の導きがあらんことを。
この地は現在、内戦の渦中にある。国のあちこちで火の手があがり、遠く離れた場所でも人の焦げた臭いが立ち込め、夥しい人間の悲鳴や怒号が飛び交うほどに内政は酷いものであった。何故このように至ったのかについては、私の知るところではない。だが、行く先々で皆、口を揃えて溢していた。
「ジンバル王子が王の逆鱗に触れたのだ」と。
ジンバルというのは聞くところによると、この国の王子の一人だという。よくある話だ。王の政権に業でも煮やしたのだろう。いつの世でも、主義主張は親子間でもすれ違うものだ。言わば、規模の大きな親子喧嘩である。そんな下らない喧嘩に、国民は巻き込まれるのだから堪ったものではない。
戦争の名を借りたそれは、遂には市民も兵として駆り出したとも聞く。徴兵制という名目で駒にならねばならぬこの理不尽さを、誰も訴えることは叶わない。街中では男の姿は少なく、女子供が目立つ。活気に満ちたように見えていても、目を凝らすとあちこちで人々の薄暗い顔が伺えた。先日の戦では1万もの民が命を落としたという。その数の中に、あの村の人々も含まれているのだろう。それを礎に、名誉ある死として高貴な輩は民衆に謳う。そんな代理喧嘩のどこに名誉などあるのか。しかし、こんな内情であるが故、国民はさぞ荒れ果てた様かというとそんな事はない。皆変わらず、自分の成すべきことを当たり前に熟してる。明日、滅びるとも知れない街を捨てる事なく唯ひたすらに生きているのだ。哀れというべきか、その心を褒め称えるべきなのか。私には、分からなかった。過酷を極める環境下でも、日常を生きていくことしかできない点では私も同じ穴の狢なのかもしれない。
続きは本で