第三章
夏川瑞希は辟易していた。
「またくるわ」――。
一週間前に聞いた言葉が、何度も頭の中で再生される。その言葉通り、秋月紫苑は、毎日同じ時間に昇降口で夏川瑞希に声をかけた。
下校前には秋月紫苑に、毎休み時間には早瀬七海に、毎日毎日、休むことなくテニス部への猛歓迎を受けている。
『もう……いい加減にしてくれないかな……』
そう思い始めていた。
「夏川さん」
昇降口の前で、三年生が声をかけてきた。
『……今日は日直だったから、遅くなったのに……』
ずっと待っていたのだろうか。そこには、いつもと変わらない穏やかさで、紫苑がこちらに笑いかけていた。
「もう、いい加減にして下さい」
さっきまで思っていたことを、つい言葉にして出してしまった。
「私、何度こられたって、テニス部に入るつもりはないんですよ」
「どうして?」
「理由は関係ないって、何度も言いましたよね」
「ええ、聞いたわ」
「だから……もう、本当に、私のことは諦めて下さい。早瀬さんにもそう言ってくれませんか?」
「それは、嫌」
閉口してしまった。
穏やかそうに見えて、実は自分優位の人なんだなと思ったからだ。
『それなら、もういいや……』
瑞希は、無言で紫苑の隣をすり抜けて下駄箱へと向かう。人の話を聞こうとしない人を相手にしていても時間の無駄だと思ったからだ。しかし、瑞希は紫苑を通り過ぎることができなかった。
「あなた、苦しそうよ」
その発言に、瑞希は足を止めた。
「好きなんでしょ?」
「……」
「テニスが、好きなんでしょ?」
「……」
「どうして遠ざけようとするの? 好きなのに」
「……だから……」
突然に瑞希が振り返った。勢いあまって、その手が紫苑の肩をつかむ。
「関係ないって、言っているだろ! 何度も!」
瑞希のあまりの豹変ぶりに目を丸くした紫苑だったが、
「そうね。関係ないわね」
そう言うとにこりと笑った。
「ごめんね」
「いえ……。私こそ、すみません」
そこで、瑞希は紫苑の肩から手を離す。
「そうね、理由なんかどうだっていいのよね」
「え……?」
「夏川さんがどうしてテニスを辞めたのか……そんなこと、問題じゃないのよ。夏川さんはテニスを辞めたと言っていたけれど、テニスを嫌いで辞めたわけじゃない。そうでしょ?」
「……」
「ううん、違うわね。嫌いじゃないどころか、好きなのよね。今も」
「自信満々ですね。先輩と私、まだ会ってから一週間しか経ってませんよ? それも、放課後の短い間だけ。それで、いったい何がわかるって言うんですか」
「なんとなく。雰囲気、かなあ」
「……」
「でも、外れてはないと思うのだけれど」
「……どうして」
「だって、私もテニスが大好きだから」
昇降口に差し込む夕日が、さっきよりも伸びたように感じられた。
「私は、インターハイで優勝したい」
紫苑が、瑞希の目をまっすぐに見つめて言う。
「そのために、夏川さんの力が必要だと思っている。でも、夏川さんが本気でテニスをやりたくないと思っているなら、部活に入って欲しくないとも思っているの。私にとっては、優勝することよりも、みんなで楽しく部活をすることの方が重要だから」
あまりにもまっすぐに見つめてくるその視線から、瑞希は逃れることができなかった。
「私は……」
発した声の儚さに、瑞希は自分でも驚いた。
「夏川さんは、テニスが嫌いになったの?」
「……」
「テニスを辞めた理由を説明する必要なんかない。夏川さんの言う通り、それは私には関係のないことだから。でも、お願い。ひとつだけ教えて。夏川さんは、テニスが嫌いなの?」
「……う」
「……え?」
「……ちが、う……」
「……違う?」
「違う……。私は、違う! 私は、テニスが嫌いになんか、なってない!」
さっきまでの儚さが嘘のような大声に、これが本当に自分の口から出たものなのかと瑞希は驚いた。それと同時に、
「よかった!」
と、紫苑が満面の笑顔で言ったのだ。
「夏川さんがテニスを嫌いじゃなくて!」
そう言いながら、瑞希の手を紫苑は両手で握り締める。
「あ……」
まるで真夏の太陽のように眩しい紫苑の笑顔に、あてられてしまったのかもしれない。そうでなかったら、こんなことを口走ったりはしなかったろう。
「入ってもいいですよ。……テニス部」
ぼそりと、まるで独り言のようにつぶやかれた言葉を、紫苑は決して聞き逃したりはしなかった。
「本当に?」
瑞希の手を握る紫苑の手に力がこもる。まるで逃がすまいとするかのようだ。少しばかり後悔した瑞希だったが、一度口から出たものを撤回するのは自分の信念が許さない。こくりと、ひとつうなずくことでそれに答えた。
「ありがとう!」
両手を上げて喜ぶ紫苑を前に、
「ただし」
と、瑞希が力を込めて言った。
「条件があります」
「……条件?」
「はい。まずは、正規部員とはならないということです。私は、インターハイが終わるまでの臨時部員です。インターハイまでは練習にも参加するし、他の部員と同じように行動します。でも、インターハイが終了したら、テニス部とは一切の関わりを持たないつもりです」
「……わかったわ」
「それと、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「はい。これが、私にとっては一番重要です」
「なに?」
「私がダブルスを組む場合、私を前衛にして下さい」
「え……?」
「私は、後衛はやりません。シングルスでもダブルスでも好きに使って頂いて構いませんが、ダブルスの場合、私は前衛に徹します」
「え、ちょっと、待って……。そんなこと……」
「これが、入部する条件です」
夕日がさらに傾いた。
夕日に照らされた二人の表情はまちまちで、紫苑は当惑を湛え、瑞希は苦悶を抱えている。
この時、瑞希の提示した条件を紫苑は呑んだ。……それ以外に選択肢はなかった。
瑞希は、紫苑がうなずくのを見届けると、そのまま一礼をして帰って行った。
そんな瑞希の背を見つめながら、彼女を苦しめるものはいったい何なのか……紫苑は、しばらくの間それを考えていたのだった。