三十二戦目:終焉への戦い
エリィの体を貫いた炎の矢は跡形もなく消え、エリィの体はその場に崩れ落ちた。体からは血はほとんど流れてはおらず、まるで眠っているかのように横たわっている。
グレイの胸の内の何かが、その瞬間に弾けた。
頭が割れるように痛む。子供の頃から今までに起きたこと、見たこと、見たもの、聞いたこと、触れたもの、それらすべての記憶、感覚がグレイの体中を満たしていく。
まぶたの裏に、小さな子供の姿のエリィとロイの顔がみえた。笑っている。無邪気にグレイに向かって手を振りながら走ってきている。グレイも笑顔を浮かべると、二人の元へ走りよっていく。彼らと手が重なるか重ならないかの距離になった瞬間、目の前の景色が真っ暗になった。エリィとロイの姿も、それに合わせるようにかき消えた。
そして再びぱっと目の前が明るくなった。今度は成長した、今と同じ姿のロイとエリィの姿がみえる。しかし、二人とも笑ってはいない。無言でうつむいたまま、二人ともグレイに背を向けて歩いて行こうとし始めた。
「待てよ、おい! 二人ともどこに行くんだよ! 俺も一緒に行く!」
グレイは二人を追いかけて走り出したが、なぜか二人との距離はまったく縮まず、むしろいっそう離れていった。二人とも普通の動作で歩いているとは思えない程の速さである。二人はやがて先の暗闇に飲み込まれるように消えて行った。
――殺してやる――
気がついたグレイが抱いた思いは、それだけだった。
殺す、という純粋な感情だけが、頭を、身体を駆け巡って行くのを感じた。熱い血が心臓から頭へ、指先へ、足先へと流れていく。
ふと、剣をみやると、何か黄色のふわふわした綿のようなものが張り付いてきているのが分かった。そしてそれらは数十、数百と増えていき、固まるように集まって剣の刃が見えなくなる程に埋め尽くしていった。
剣の刃がバチバチと音をたてながら黄色く光り輝き、薄暗いその場を眩しく照らし出した。一度激しく光ると、床の石畳がひび割れて宙に巻き上げられる。
(これが……、これが魔法なのか……! もの凄い力だ……!)
グレイにこれを理解する気はなかった。ただ、手に入れてしまったこの力を、目の前の敵にぶつけてやろうとだけ考えた。
「うおお!」
グレイは剣を振り上げながらオーランドに向かっていき、そしてありったけの力を込めて一直線に振り下ろす。今は、負ける気がしなかった。
オーランドも感じた。グレイの剣から発せられる、圧倒的な力を。
グレイとオーランドの剣が交差した瞬間、オーランドの水の魔法で作った剣は一瞬で蒸発し、微塵も元の形を残さないまま消え失せた。グレイの剣はそのままオーランドに向かっていき、彼の纏っている風の衣にぶつかった。先ほどまでと同じ、強烈な風がグレイの身体を襲い、グレイの頬に薄く切り込みがはいる。その切り口に深紅の血がうっすらとにじみ出る。
「何度やろうとも結果は同じだ! 貴様をつくったのは私だ! 貴様が私に敵うはずが……ない!」
オーランドは両手を前に突き出し、大気を震わせる程の声をグレイにぶつける。グレイの身体がじりじりと後ろに下がっていく。全身にこもる力を、毛程もゆるめることはできない。そんなことをすればたちまち身体は吹き飛ばされてしまうだろう。切り掛かっているのはグレイの方だが、実際にはグレイは自らの身体を護っている状況にあった。
「それでも……、それでもお前は……お前だけは! 許さない! 許せない!」
くいしばったグレイの口の端から血が垂れる。
「許さないだと……? うぬぼれるな! 貴様など、私がつくった人形に過ぎんのだ! 犬にも劣る人形の貴様が、飼い主に盾つくなど……!」
空気を、空間をもねじ曲げるような二人の力が、激しく火花を散らしながらぶつかり合う。
「確かに……! 俺は、お前につくられた命なのかもしれない! でも、そんな命でも、作られた命だろうとも、俺は、……俺は今生きている!」
一言しゃべる度に、グレイは自分の中で力が溢れ出てくるような気がしていた。断固たる意志の力が、魔法の力を増幅させているようである。
「人間は、お前の言う通り愚かな存在なのかもしれない……。だけど……、他の生き物にも優しくできる存在なのもまた人間だけだ! 自分のためだけに人間を殺そうとしている貴様こそ……!」
オーランドの身体を取り巻く風の衣がその勢いを弱めた。それとともに、グレイの剣に帯びた雷の力が輝きを増す。
遂に、グレイの剣がオーランドの防御を打ち破り、彼の肩から腹にかけて、深々と一閃の一撃を加えた。
オーランドは斬られた箇所を押さえることもせず、二度程後ろに跳び、グレイと距離をとった。ぽたぽたと、彼の傷口からは人間のそれと同じ色の血が流れていく。
「グッ……! これほどとはな……! だが、私は……それでも人間を……、邪悪を滅ぼしてみせる……!」
オーランドは玉座に立て掛けてあった黒い角笛を手に持つと、思い切り息を吸って、力の限り吹き鳴らした。決して美しいとは言えない低温の音色が、グレイたちがいる空間に鈍く響き渡る。
「何を……!」
グレイは反射的に叫ぶ。オーランドは体を揺らめかせながら口を開いた。
「待機……させておいた、ドラゴン百頭を……、解放した。奴らは、今数百万の人間が集まり殺し合っているヤッハド高原へと、向かった……。もちろん、その場に居る、すべての人間を皆殺しにするためだ……! もはや止められん。人間は、死ぬのだ……。しかし、私が死ねばジュラス様は復活なされない……。できればこの手は使いたくはなかった……!」
オーランドは顔をしかめる。
「どういうことだ……!」
「私はこの美しい世界を愛している。……嫌いなのは人間だけだ。しかし、ドラゴンを解放すれば、この世界は……、滅びるだろう……。蝶も、鳥も、自然も……、縛る鎖がなくなったドラゴンは……見境なくすべてを滅ぼす……!」
オーランドは一度咳き込むと、真っ赤な血を吐き出した。
オーランドは高笑いし始めた。グレイは目を吊り上げながらいきり立った。
「何が可笑しい!」
その声を受けても、オーランドは笑いをやめない。肩口から腹にかけてのグレイの一撃は、明らかに致命傷である。しかしオーランドはやめなかった。
「可笑しいさ……。まさか、人形ごときに私がな……。グレイ、お前は人間とほとんど変わりはない。捨てられていた赤子に私が少しばかり手を加えただけだ。……すべては、人間というものを侮った私の間違いだったということか……。しかし貴様には何も変えられん、……止められん……。人類は死に絶えるのだ……。ここまで数百年、私の、願いは……、ウナ、お前に……!」
そう言い残し、オーランドの姿は少しずつ薄くなっていき、床にまき散らされた血とともに、その場から跡形もなく消え失せた。
グレイの剣からは雷の光は消え、心に残ったのは虚しさだけだった。グレイの脚に巻き付いていた炎も消え失せ、腕輪も役目を終えたように粉々に砕け散った。心にも体にも、形容できない重さがのしかかる。
ゆっくりと、ぴくりとも動かないエリィと、その傍らにうずくまるロイの元へと歩く。グレイの足音が、もはや何の音もしなくなった周りに乾いて響く。
ロイはおそらく泣いてはいなかった。ただ、二度と動くことのないエリィの肩を抱きしめながら、自らの肩を激しく震わせていた。その胸中はまったく推し量れない。
「ロイ、とりあえずここから出よう。エリィもこのままじゃ……。それに、微力かもしれないけど、ヤッハド高原てところに行かなきゃ……」
言いかけてグレイはやめた。ロイのことだ、しばらくは何を言っても動かないだろう。グレイは、不思議と落ち着いていた。確かに悲しい。しかし、なぜかエリィが死んだということを冷静に受け止めてしまっていた。幼い頃からロイとともに、十数年も一緒に育ったはずなのに、死ぬ時はこんなにもあっけない。
自分のせいだ。グレイはそう思った。強く、そう思った。そんな自分に腹がたった。自分のせいで、再び大切な人が、死に飲み込まれた。いくらそう思っても、やはり死んだものは帰ってこない。死んだものは、生き返らないのだ。助けることができるのは、生きている者だけだ。仮に生き返らそうと思えば、オーランドのようにするしかない。しかしそれは同時に、人類の滅亡を意味する。
グレイの頭には、レナが死んだ時と同じような気持ちが芽生えた。大切な人が死んだという、たとえようもない胸の痛み。
しかし、レナが死んだ時とはまったく違う点が一つだけある。
エリィの死は、二人の男の心に、鋭く剣を突き刺したのだ。特に、ロイの心に。
うつむくグレイの視界の端に、オーランドが神の卵と呼んでいたものが映り込んだ。先ほどまでと同じように、淡い青の光を放っている。
(あんなものがある限り、またあいつと、オーランドと同じことを考えるものが出てくるかもしれない……。そうなる前に俺が……)
グレイは剣を構えた。破壊しなければ、また大きな災いが起るかもしれない。そしてその時は、防げるかどうか定かではない。
グレイは走り出した。と同時に、先ほどオーランドから受けたもの同じ威力の暴風が、グレイの体を横に弾き飛ばした。
突然のことに、グレイの視界は急激にせばまった。目の前が白んで霞み、同時にちかちかと光る。
グレイは背後を振り返った。しかし実際にはその時振り返る必要はまったくなかった。その場に居る生者は、グレイとその男だけだったのだから。
「ロイ……! お前……! 何のつもりだ……! こんな時にふざけてる場合じゃないだろ!」
グレイは親友を睨みつけた。
「ふざける? ……それは、君の方じゃないか、グレイ。君は、自分がしようとしていることが分かっていない……! 今、君がしようとしているのは、エリィを殺すに等しいことだ……!」
ロイもまた、忌々しそうにグレイに視線をぶつける。
「お前……本気、なのか……?」
グレイの表情はぐっと険しくなり、ますます表情も厳しくなった。
「グレイ、君なら分かるはずだ。分かっていたはずだ。……だって君は僕の……親友、なんだろ? ……なあグレイ、邪魔するなんて言わないでくれよ?」
さらにロイは続ける。表情を緩めながら。
「グレイだって会いたいだろう? エリィに……、あのレナって人にも……」
グレイの眼はカッと見開かれた。
「それは……、それは許されないことなんだよ! やってはならないことなんだ! 確かに俺だって会いたいさ! でも、人の命はそんなに簡単なものじゃない……!」
ロイの顔はきゅっと引き締まり、その場の空気もそれに呼応するように急激に張りつめた。明らかに、ロイがグレイに向けて殺気を放っている。
「今さら……! 今さら良い子ぶるなよ……! 元はと言えば君のせいじゃないか……。全部! 全部君のせいなんだ!」
その言葉にグレイは言葉を失った。何も言い返すことができなかった。たしかに自分のせいでエリィは死んだのだと、そう思っていたからだった。
「君が邪魔をするのなら……、僕は、君を殺す……! 友人としての最後の忠告だ、グレイ。そこをどきなよ……」
グレイは痛みをこらえ、ロイの前に立ちふさがる。そこを譲る気は毛頭ない。
小さくため息をつくと、ロイは手に持った短槍を構えた。その切っ先は、紛れもなくグレイに向けられている。グレイもまた、額に流れる冷たい汗を拭うことなく、ゆっくりと剣を構えた。その透明な刀身に映るのは、歪んだ表情のロイである。グレイは少し弾んでいた息を深呼吸しながら整えた。心臓が大きく高鳴るのを感じる。
「こうなる運命だったんだ、グレイ。僕たちは……。村を出たあの時から……」
一瞬の静寂の後、二人は申し合わせたように同時に身体を反応させた。
ロイが走り出した。グレイもまたロイに向かって走り出す。
先に仕掛けたのは間合いの広いロイである。短槍とはいえ、無論グレイの剣よりは広い範囲に攻撃ができる。左脚を踏み出しながら、まっすぐグレイに向かって突き出す。その細い体からは想像もつかぬ程素早い突きである。
グレイはそれを受け流すように剣を走らせる。ちりちりと火花が散り、グレイの鼻に焦げ臭い匂いが入り込む。
受け流されるや否やロイは後ろに飛び退き、距離をとろうとするが、その一瞬の隙を逃さずグレイも距離を詰めていく。だがロイの反応も非常に速やかだった。飛び退きながら魔法を唱え、床に手を置き、グレイの目の前に分厚い石の壁を作り上げた。
グレイはそれを飛んで越えると、そのまま落下していく力を使って、剣を振り下ろした。
ロイはそれを冷静に柄で受け止める。
二人とも互いに手の内を読み合っていた。物心ついた時からともに育ってきた友に、今は刃を、殺気を向けている。
ロイはグレイが着地をした瞬間、少し筋が緩んだのを見逃さなかった。柄の部分を使ってグレイの体を後方に弾き飛ばし、上半身をねじりながら横薙ぎの一撃を放った。槍の重さに遠心力が加わり、その一撃はぐんぐんと勢いを増しながら体勢を崩したグレイに襲いかかる。
躱すか受け止めるか、それは一瞬で選択を迫られる。
グレイは受け止めることを選択した。しかし、勢いのついた槍の一撃は簡単に止められるものではなかった。グレイは骨まで響くような衝撃に、二、三歩後ろによろめいた。
「逃がさない!」
ロイは手を上空に掲げ、空気中の水分を凍らせて氷の矢を作り出した。ガラスのように美しく、そして刃物のように研ぎすまされた矢が、グレイに向かって空気を切って飛ぶ。
矢はグレイの顔を皮一枚分横を通り過ぎた。グレイが首をひねっていなければ、氷は間違いなく顔面を貫いていた。
「グレイ! なぜだ! なぜ本気をださない……!」
ロイは怒りに身を震わせた。自分だからこそ分かる、目の前の男が本気を出していないことを。自分が認めている者に手を抜かれているという事実、それがたまらなく歯がゆかった。
「できるわけないだろ……! だってお前は、俺の……!」
グレイの悲痛な、純粋な叫びを、今度はロイは涼しい顔をして受け流した。
「うるさいな……。じゃあ僕の邪魔をするなよ……! ……でも、僕の今の力では、たしかに君にとっては役不足か……。悔しいが、これが今の僕の実力……」
そして何かを決心したように、ロイはゆっくりと瞼を閉じた。
そこからの光景は、グレイの思考を停止させた。
ロイが、ジュラスが封印されている石像に向かい、胸に手を当てたままぶつぶつと何かを唱え始めた。するとロイの身体には黒い光が覆いつくし、ロイの姿は黒く埋め尽くされた。
「我が名はロイ……。ジュラス、あなたに忠誠を誓う。我に力を……!」
強風がロイの身体から巻き起こり、グレイは目を開けていられず、たまらず目を細める。そしてその瞬間、グレイは、これまで感じたことのないような邪悪な力、気配を感じた。その中心にいるのは当然、ロイだ。
風の中心から、ロイの叫び声がきこえる。生き物の声ではないような、ひどく醜い、だがとても悲しげな叫び声だった。
そして激しい光のあと落雷のような音が鳴り響き、風が、やんだ。
「……ロイ……?」
やっと目が光に慣れてきたグレイが声を出す。同時に全身の毛が逆立った。
砂埃がやっとおさまり、その中からグレイが姿を現した。
しかしグレイは目を疑った。それは、ロイだったが、ロイではなかった。正確に言えば、グレイが知っていたロイとは違った。
短くなったはずのロイの黒髪は一瞬の間に再び背中のあたりまで伸び、腕や顔には深紅の模様が刻まれた。
「いい、気分だよ……、グレイ……。何て言うのか……、そう、身体の内から力が溢れ出すっていうのかな……。とにかく、いい気分だ……!」
ロイはいつもの整った顔立ちのまま、冷たく唇をつり上げた。
「どうしてそんなことができるんだ、って顔をしているね、グレイ。すべての答えは、あの本にある。オーランドが書き残したあの本にはすべてが記されていたんだよ。癪だが、僕にはこれしか道はなくなった。……あとは使えない魔法が一つ、あるだけ……」
グレイの額から、汗が流れて、一粒石床に落ちた。
「さあグレイ、最後の戦いだ……。」
グレイは、雑念を振り払うように二、三度首を振った。もう迷わない。ロイをとめる、ただそれだけが頭の中にあった。
「俺たち、もう戻れないんだな……。なら俺は、全力でお前をとめてやる……!」
グレイは一度深く息を吸い込み、再び剣を構えた。