二十九戦目:うたかた
「グレイ、起きないわね。もう三日も経つのに……。大丈夫かな」
寝台に横になって眠り続けるグレイを見つめながら、エリィは心配そうにそう呟く。
レンドの街から逃げてきた者に事情を聞き出したロイが、瞬間移動魔法を使ってグレイを迎えに行き、連れ帰ってきてからすでに三日が経過していた。
グレイの元へと飛んだロイは驚きのあまり言葉を失った。すでに事切れている少女を抱きしめたまま、グレイが気を失っていたからだ。その顔はすさまじい形相だった。人が持つ負の感情がすべて表に現れたような、そんな表情を浮かべ、遺体に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
瞬間移動魔法は、唱える人間に身体の一部でも接してさえいれば、複数の人間も同時に飛ぶことができる。ロイはエリィの元へとグレイと、息をしていない少女を同時に運んだ。そしてグレイを空き小屋の寝台に寝かせると、レナを手厚く葬った。彼女は胸に矢が刺さったままであったので、それを引き抜き、エリィに手伝ってもらいながら血の付いていた服を取り替えると、厚手の布で丁寧に包みこみ、小屋のそばの土に深く埋めた。ロイが驚いたのは、彼女の顔が、何者かに殺されたであろうにもかかわらず、何とも安らかな表情を浮かべていたからであった。
レナを埋めた場所に大きな石を乗せ、近くに咲いていた紫の花を添えると、ロイとエリィはその前に立ち尽くしたままじっと彼女の冥福を祈った。
ロイとエリィは、レンドが襲われた当日、馬で半日かかる所まで移動して夕日を見ようとしていた。その場所は北の大陸の外れにあり、そのため帝国の兵が来ることもまずないと、ゆっくりとグレイの回復を待っている。そしてそのまま三日が過ぎていた。
雨はその間やむ様子もなく降り続き、閑散とした小屋の中に雨音が響き続いている。
ぎいっという音とともに、小屋の扉が開く。近くの森に食べ物をとりに行ったロイが、帰ってきたのだった。その手には食べられる野草が数多く握られていて、とりあえず食料に困ることはなさそうである。
体から水を滴らせながら震えるロイに、エリィは厚手の布を渡す。
「グレイは、変わらない?」
ロイは体を拭きながら寝ているグレイに視線を落とす。
ええ、と短く答えるエリィの表情は、とても暗い。グレイは三日間眠り続けたままで、時々エリィやロイが水を口に含ませている以外は、何も口にしていなかった。口に含ませているという水も、大量に含ませるとむせ返ってしまうため、少しずつ、唇や舌を湿らせる程度にしかならない。グレイの呼吸は少なく、ゆっくりで、そして深かった。
(何かで読んだ……。心が、死んでいるのか……?)
ある程度医学もかじっているロイでも、グレイが今眠り続けている理由が分からなかった。特に目立った外傷もなく、血は大量に浴びていたものの、グレイのものではなさそうだったので、皆目見当がつかない。
グレイはひたすらに何かから逃げていた。自分でも分からない、何かから。何かは分からないが、確かに何かが自分を追いかけている感覚はある。しかし振り返ることはできない。振り返って自分を追いかけるものの正体を見極めることは恐ろしく、考えただけでも体中に鳥肌がたつ。
膝まで伸びる草が生える草原を走り抜け、巨大な木々が並び立つ森の中を必死に駆けていた。相変わらず何かに追われ続けているが、不思議と息が切れることはなく、体が限界を迎えることはなかった。しかし悠久とも感じられる程の長い時間走り続け、精神的には限界だった。
ふと、前方に洞穴が見えた。あそこなら大丈夫だ。なぜかそうグレイは思った。一旦休もうと考えたのは、心底疲れたからだった。
洞穴の中は真っ暗で、少し気味悪さを覚えたが、思い切ってその中に飛び込む。とたんに、ふっと体が軽くなり、下から風を感じた。グレイの体は暗闇の中を落下して行った。深い、どこまでも深い闇はグレイを不気味に包み込んでいった。
(ああ、俺は死んだのか……。それともこれから死ぬのか……? でもそれも、けっこう悪くないかもしれない……)
長い時間落ち続けるなか、グレイはそんなことを考えていた。目の前で愛しい人をむざむざ死なせた自分には、生きている価値などない、そう真剣に思った。できればこのまま静かに、流れに身を任せながら死んでいきたかった。
——死んではいない——
グレイは反射的に目を開いた。気がつくと、暗闇の中に横たわっていた。周りは見渡す限りの暗黒で、そのなかには一筋の光すら見ることはできない。
「またあんたか……。いったい誰なんだ? いや、どうでもいいことだな……」
余計な情報が何も入ってこないこの世界は、今のグレイにとっては非常に居心地が良かった。
「何から逃げていたのか、自分で分かっていないのか? いや、知っているからこそ、逃げたのだろうな」
その声は、グレイの意思とは無関係に、直接脳に注ぎ込まれるようだった。グレイが耳を塞いでも、そのようなことは関係なく、するりと体中に侵入してくる。
「立って、振り返ってみろ。すぐそこまで来ている」
拒絶しようとしたが、なぜか体は立ち上がろうとしていた。そしてその声の言う通りに、振り向いてしまう。そしてグレイは、闇の中に何かが立っているのを見ることができた。
そこには、一人の剣を持った男が立っていた。辺りは暗闇だが、そこだけは妙に明るく、その姿形はおおよそ把握できる。
(あれは……、俺?)
自分を客観的に見たことがないので、グレイは最初それが自分であることがわからなかった。しかし、直感的に理解した。自分の正面に立っているのが、まぎれもなく自分自身だということを。手にした剣からは血が延々と垂れ続け、その表情は目を見開いたまま硬直している。肩で息をしながら、その場から動くこともなく立ち続けているのだった。
「あれはお前の、恐怖だ」
「恐怖?」
‘自分’から一旦目をそらし、グレイはどこにいるのかも分からない相手に向かって聞き返す。
「今日、正確には三日前だが、お前は初めて人を斬った。その時、お前は何を感じた?」
どこからか声は鳴り響き、そしてその声はグレイの返答を待ち続けた。
「俺は……」
恐ろしかった。人を斬ったということそれ自体ももちろんそうだが、実際にはそれよりさらにもう一歩先に進んだことが恐ろしかった。一瞬でも、人を斬ることを楽しいと思った自分が居た。あの場では、怒りのままに何も考えずに斬っていた様に思っていたが、思い返すと違った。自分は、人を斬ることに喜びを感じていたのだ。それがたまらなく恐ろしかった。自分ではない自分がいたような、そんな感覚があった。
「そう、あれはそんなお前の恐怖の心の結晶だ……。お前はあの時、怒りのまま、復讐のために剣を振り回したな? それ自体は何も責められることじゃない。むしろそれは、お前が人間である証だ。良かったじゃないか。……重要なのは、それが人が争いをやめられない理由である、ということだ」
ぴくっとグレイの体が反応した。いつかバルドに質問した、なぜ人が戦争をするのか、その疑問の答えは、まさにそれだった。自分が体現してみせた。よく考えてみれば簡単なことだった。やられたから、やりかえす。ある程度知能を持った生物ならば、当然のことだ。だれにもその行為を非難することはできないはずだ。人を傷つけることは悪いことだ、そんな陳腐な理論を振りかざす者は、本当の『痛み』を知らない者、だからそれは、ぬくぬくと育った者のあまい考えに過ぎない。この戦争という時代ではそれは間違っている。その考えでは生きていけないのだ。
「そう。それでいい。お前は正しい」
その声がグレイの思考を後押ししていく。
人間という存在がある限り、戦争は無くならない。もしそれが真実ならば人間は、ヒトはいらないモノなのだろうか。だとすれば……。
グレイがいる空間には、光はおろか、風も、暖かさも冷たさも感じられなかった。ただ一つ感じられるのは、体中にまとわりつく気味悪さだけである。
しかしグレイは突然、レナが最期に言った言葉を思い出した。それは頭の中が一瞬で冴え渡るような衝撃と同時だった。
レナが言った、戦争がなければとは、自分に期待しているとは、一体どういう意味だったのだろうか。レナは自分に何を期待していたというのだろうか。戦争を止めること、そんなことはできるわけがない。北の大陸と南の大陸、そこに住むすべての人間を巻き込んだ戦争を、たった一人の人間がとめるなど、あまりにも非現実的すぎる。だとしたら何を……。それを知るためにも、いや、それを抜きにしても、もう一度会いたい、レナに。もう一度話したい、笑い合いたい。
「……女に、お前が愛した女に、もう一度会いたくはないか? 話したくないか? 触れたくないか?」
それは唐突で、そしてあまりにも、何よりも甘い誘惑だった。グレイは声の出所を探しながら何度も頭を振る。
「で、できるのか?」
突如その言葉を投げかけられたグレイの心の中は、溺れる者が手を差し伸べられた時の心情そのものだった。
「お前がそれを真に望むのならばな」
たっぷりと間をとり、充分にグレイの気持ちを煽った後、声が響き渡る。
「会いたい。……会いたい。……忘れていくんだ。悔しいけれど、あんなに悲しくて苦しかったのに、少し会わないだけで、忘れいってしまうんだ。声や表情、どんなこと話したとか、どんな風に笑ったか、どんどん忘れていってしまう……」
死ぬということは、忘れていくということ、それをグレイは理解した。先ほどまで居た『恐怖』は消えてしまっている。
「なるほど、分かった。ならばその願い、叶えてやる。目覚めた後、こう唱えろ。ガナモ・テナ・オーランド、とな。そこですべてが分かる。……さあ、この手をとれ。そうすれば目が覚める」
突然グレイの目の前に手が現れた。ぽうっと白く輝いており、その手には多くの皺が刻まれている。グレイは迷うことなくその手をとる。迷う理由など一つもない。これ以上悪く転ぶことなどありえない。その声を全面的に信じているかと問われれば、はっきりと断言はできない。しかし今は、希望で胸を満たしたかった。
グレイを光が包んでいく。
「忘れるな。ガナモ・テナ・オーランド、だ。友人たちと一緒に来るがいい。触れれば一緒に来れるからな」
遠くから、なぜか、どこか懐かしい声が聞こえていた。
「ロイ! グレイの目が……!」
うつらうつらとしていたロイに、エリィが声をかける。その目は少し潤んでいるようだった。グレイが寝込んでからすでに五日が経とうとしており、その間エリィはほとんど寝ずにグレイを看ていた。
「悪い、心配かけたな。……ここは?」
ロイは今までのことを簡単に説明すると、グレイを外に連れ出した。グレイの脚は寝ている間に少し弱ったようで、立ち上がろうとする際に二、三歩たたらを踏んだが、体勢を立て直すと、外へと出て行くロイを追った。
外はまだ雨が降り続いていたが、別段それを気にする様子もなく、二人は小屋の近く、土が盛り上がっている場所の前へと来た。その上には大きな石がどっかりと乗せられていて、説明しなくても、レナの墓だということはグレイには分かった。石の脇には綺麗な花が雨に打たれながらちょこんと座っている。
「ごめん。大したことはできなかった……」
声の調子を下げたロイの一言は、グレイにはありがたかった。心底すまなそうにしているロイに、ひたすら感謝した。
「いや……。立派なもんだ。ありがとな」
グレイは墓の前に膝をついた。雨に濡れた土から、さらに冷たさが這い上がってくる。
人の命は、こんなにもあっけないものなのかと、グレイは憤りを感じた。この下にレナは、もう動くことなく横たわっている。そしていつかはその体も朽ち果てていくのだろう。自分と会うことは、二度と、ない。
石を見つめながら、グレイは思う。この墓というものに、どれだけの価値があるというのだろうか。死者の魂を慰めるため、と故郷の老人たちは言っていたが、はなはだ疑問に思う。死者がこれを見て、喜んでいるとでも言うつもりなのだろうか。もはや見ることも話すこともできない、魂とやらが喜ぶと。
グレイは一度かぶりを振った。毛の先から雨粒が勢いよく飛び出していく。そしてゆっくりと目を閉じた。
しかし、喜んでいるのは死者ではない。むしろ生者だ。自分はここに横たわっている者と出逢い、そして別れた。墓というものはそれを示すためのものでしかない。そして墓に祈ることで、自分を慰めているにすぎない。
(だが……!)
グレイは目をぱっと見開いた。
自分は違う。まだ希望が残されている。もしかすると、会えるかもしれない。話せるかもしれない。触れて体温を感じることができるのかもしれない。レナに再び、命を吹き込めるかもしれない。その可能性があるのならば、やってみる価値はある。たとえそのために、自分の手足が無くなろうとも、後悔はしない。
グレイはすっくと立ち上がり、ロイに小屋へ戻ろうと促す。
ロイは、グレイがただならぬ表情を浮かべていることに気がついた。何か思い詰めているような、険しい表情だった。グレイと二十年近くも一緒に過ごしてきたロイが初めて見た顔つきだった。雨のせいではなく、背筋に悪寒を抱いてしまう。
「俺の最後のわがままに、付き合ってくれないか。これが済んだら、必ず村の人たちを救いにいくと誓う。だから、頼む……!」
小屋へ入ると、いきなりグレイはエリィとロイにこう言った。何のことかは分からなかったが、反対するということもなく、二人は首を縦に振った。
グレイは剣を腰に差し、エリィとロイも旅支度を整えた。二人はグレイに何も訊かなかった。訊かせない雰囲気をグレイが纏っていたからだった。
「手を乗せてくれ」
グレイはロイとエリィの前に腕を差し出す。二人は一瞬顔を見合わせたが、頷くと、その上に手を置いた。
(何が起こるかは分からないけど……、俺は……)
「ガナモ・テナ・オーランド……!」
ロイがオーランド、という言葉に反応する間もなく、三人は光に包まれ、小屋の中から煙のように消えた。