二十八戦目:慟哭は雨に濡れる
灰色の分厚い雲が、空を大蛇の様に動いていた。前日まで雲一つない快晴であったが、この日はいつ雨が降り出してもおかしくない天気である。
そんななか、脚に緊急連絡用の紙をくくりつけた、美しい白羽を持つ鳥が、連合国の本拠地であるバダラの街に向けて高速で空を切って移動していた。レンドの街が連合国に襲われたことを知らせるためである。特殊な訓練を受けた鳥は疾鳥と呼ばれ、北の大陸内での連絡のために使われている。この鳥はそのうちの一羽である。馬よりも速く、そして正確だった。
疾鳥は目的地を見つけたのか、ククッと短く鳴くと、急降下し始める。向かう先は、バダラの街の中にある大きな屋敷だった。
連合国では、権力が集中し過ぎてしまうのを防ぐため、城はなかった。そのせいで防御に不安が残るが、元々が三つの国から成り立っていたため、一つの国が力を持ちすぎないようにする意味も込められていたのだった。しかし実際には、長らく続く戦争の結果、一人の人物が権力を持つ、という仕組みになってしまっている。
疾鳥の文を受け取ると、若い兵士は屋敷内にある中庭を抜け、その奥にある会議室へと向かった。
あまりにも急いでいたため、許可を取るのも忘れて会議室に倒れ込む様に駆け込んだ。会議室で話し込んでいた者は全員、首をひねりながら何事かと目を見開く。
「どうした」
一番奥に座っていた男は腕を組んだまま、言葉とは裏腹に、さして気にした様子もなくそう言い放った。
「れ、レンドが襲われました! 加えて、敵の中に、あのバルドの姿があるとのことです!」
この報告に、十人の男が話し合っていた会議室の中は一時騒然となった。しかし、先ほどの男はそのなかで一人だけ動じていない。
「静まれ」
その言葉通り、会議室が冷や水をかけられたようにぴしゃりと静まった。
「ラッド様、しかし……」
先ほどまで騒いでいた男の一人がそういったが、ラッドと呼ばれた男が、鋭い目つきでそれを制止する。
「まったく予想していなかったわけではあるまい。むしろ、予想通りと言ってもいい」
そういうと、冷ややかな笑みを浮かべる。
「そのために兵をレンドに送っておいたのだろう。……しかしまあ、レンドは奪われてしまうだろうな。バルドが相手では、それも仕方がないと言えよう。あの者の強さは、我々の想像を遥かに超える。たかが数千、いや万の敵でも蹴散らしてしまうかもしれん。それほどに奴は、強い……。帝国は、今度こそ本気で攻めてくる気だな……」
再び口角を下へ戻すと、ラッドは傍らにいる兵士へと顔を向けた。
「魔鉱砲の完成まであとどのくらいだ?」
その声を受けた兵士は、ラッドとは目を合わせないように視線を下に落としながら答える。
「はっ。ほぼ完成しております。先日手に入れた風のオーブをはじめ、四大属性のオーブを使うことにより、飛躍的に破壊力を高めることに成功いたしました。あとは試し撃ちをしてみないことには何とも言えませんが……」
「試し撃ちは、なしだ。すぐにでも帝国の者共が攻めてくる。お前が前に言っていただろう。一発撃つと、次に撃てる様になるまでどれほどかかるか分からぬと」
それらの言葉が体の芯に突き刺さってきて、兵士は額に汗の粒をびっしりとため始めた。
「しかし、もし失敗した時は……」
ラッドはその冷徹な視線を浴びせかけ、そして、できるだけゆっくりと口を開いた。
「その時は、お前の首が飛ぶまでよ……。失敗は許さん。魔鉱砲は、我々連合国すべての希望を背負っているのだ。何としても完成させよ」
そしてラッドは、その場に集まっていた各隊の大隊長たちに、全面戦争の旨と、作戦を伝えると、解散させた。会議室中に、ぴりぴりとした空気だけが残っている。
(そろそろ、この長い戦争に決着をつけるとしようか、バルドよ……)
椅子に座り直すと、かつて戦場で一度だけ出会った、敵国の英雄の姿が、ラッドの頭の中にはっきりと浮かんでいた。
鐘の音が三回聞こえ、グレイは焦りながら大通りを走っていた。自分から言い出したことであるのに、遅刻してしまったことに、自分でもあきれかえっていた。しかし、それもまた、良い。レナの怒った顔も、可愛いだろうと思っていたからである。
やがて海が見えてくるとともに、巨大な船も目の前に広がった。そして悲鳴とともに、眼前に人の波が迫ってくる。すこし膝が揺れてしまう程の振動に、グレイもひどく驚いた。
まるで圧倒的な捕食者に脅える被食者のように、皆一様に恐怖の表情を浮かべ、ひたすらに港から離れる方向に走ってくる。グレイは彼らのその表情にも並々ならぬものを感じ取っていた。横に避けると、凄まじい速さで横を駆け抜けていく人々に目を凝らす。
港にはレナもいるはずだ。港で何があったのかは知らないが、この中にレナがいる可能性は充分にある。
数百人が駆け抜けていったが、レナの姿は見当たらない。見逃したはずはない。グレイは自分の眼に自信があったし、何よりもレナの目立つ容姿を見逃すはずがなかった。自分が本気で惚れた女性の姿を。
言いしれぬ不安を胸中にしまいこみ、再びグレイは港へ向かって走り出す。
近づくとともに、だんだん男のものと思われる低い怒号と、金属の音が聞こえてくる。
(喧嘩か……? いや、それにしては、さっきの人たちの様子は……)
眼の端に兵士たちの姿を捉えた時、グレイはすべてを悟ってしまった。何千人、さらにそれに加わってくる何千人もの敵に囲まれながら、暴風のように剣を振り回し、そしてそれに合わせる様に人が吹き飛んでいくのが見えたからだ。直感的に分かったのだ、その圧倒的な力を振りまいているのが、バルドだと。
もちろん、グレイはバルドが戦っている姿を見たことはない。しかしそれでも、あれはバルドなのだと、確信を持てた。
なぜバルドがここにいるのか、それも気にはなったが、もう一つの光景が、それらの疑問をはるか遠くへと吹き飛ばした。
視界の端に、少女が倒れているのが見えたからだ。バルドたちからはやや離れているが、その姿は、皮肉にもはっきりと誰のものか分かった。——レナだった。
なぜ倒れているのかや、なぜ兵士が戦っているのかなどは、どうでもいい。
ただ何も考えないまま、駆け寄っていた。もはや彼女以外何も見えなかった。そして、すべての音も遠ざかっていった。
かたわらにしゃがみ込むと、やはり見間違いではない。胸に矢が突き刺さったレナだった。目を閉じたまま、浅い呼吸が続いている。
分かっていた。わかってはいたが、しかしそれでも信じたくない事実がグレイの肩にのしかかる。
「レナ! レナ! しっかりしろ!」
肩をしっかりと抱き、グレイは必死に呼びかけてみる。レナの体にはまだ暖かみがある。助かるかもしれない。そんな希望が胸に火を灯した。
(エリィなら……!)
しかし、どうやってエリィに会えば良いのかまったく見当もつかない。今朝の書き置きのことを少し思い返したが、よく読むこともなく捨ててしまった。浮かれていた自分を心底恨めしいと思った。
「おい、向こうに敵の兵士がいるぞ! 殺せ!」
声をした方を振り向くと、帝国の兵士であろう者が十人、グレイの方へ迫ってきている。腰に剣を差しているため、連合国の兵士だと勘違いされたのだろう。
グレイは、丁寧にレナを地面におろすと、少しだけ待ってて、と付け加え、立ち上がると剣を抜いた。透明な刀身が、太陽の光を吸収し、それによって眩しく、熱く輝く。
(コイツらが、レナを……!)
状況から考えられるのは、一つだった。レナが自分の国の兵士にやられる可能性は万が一にもない。すると、目の前に立ちふさがっている男たちが、レナを傷つけたのだ。何の罪もないはずの、自分が愛した少女を。
許せなかった。目の前の男たちの誰がやったかなどは関係がない。ただゆるせなかった。自分が育った国の人間であるとか、もしかするとこれまでに会った誰かの親かもしれない、そのようなことは微塵も考えなかった。ただただ、怒りに身を任せた。人生で初めてのことだった。
剣を持って先頭を走ってきた男の水平斬りをしゃがんで躱すと、グレイは素早く体勢を立て直し、その無防備な腕に向かって下から切り裂いた。骨も、鉄製の小手も、まったく問題にならない。上腕から、両上肢が宙に吹き飛んだ。同時に、兵士の悲痛な叫び声と血がまき散らされる。
大量の血がグレイの体を覆う。まだ暖かみのある液だった。初めて人を斬った感触が、まだ手にずしりとしみ込んでいる。しかし、なんてことはなかった。レナを傷つけた者に、一筋の哀れみも抱かなかった。自業自得なのだと、自分を正当化していた。
その後も、グレイは相手を斬り続けた。何も考えず、無尽蔵に吐き出される怒りのままに剣を振り回すのは、自分でも信じられない程に心地よく、しかし苦痛でもあった。相手のことなどまったく考えず、ひたすらに切り捨てていく。ある者は腕を、またある者は脚を失い、その場に崩れ落ちていく。辺りは血の海となり、立っているのはグレイだけだった。血が大量に付着した剣と手と顔を、グレイは自分の服で拭う。
やってしまった。でも仕方がない。こいつらが悪いのだ。自分が剣を振るう意味も知らず、ただ命令されるがままに人を殺している、こいつらが悪いのだ。グレイは、自分の心が折れないよう、そう自分に言い聞かせた。自分は悪くない、と。
ふと我に返ったグレイは、レナに再び駆け寄る。しかし相変わらずの様子で、好転したわけではない。
「……レイ」
かすかにレナの唇が動いた。それと同時に、うっすらとその目も開けられる。
「ここにいる! 俺は、ここにいる!」
その言葉が聞こえたのか、レナは弱々しく微笑む。
「私、多分もう、だめだね……」
「そんなことはない! 絶対助かる、助けるから! あきらめないでくれ!」
身の内から絞り出す様に言った言葉は、レナに対してというより、自分に対しての言葉だった。事実、彼も意識していない、心の奥底で、もしかするとこのまま……という思いがあった。認めたくないその現実を、叶いそうもない希望を言葉にしてみせることで、どこかへ押しやろうとしている。
「……いいの。自分で、わかるんだ。……ねえ、最後に、お願い。私を、あの砂浜へ。私たちが初めて話した、あの砂浜へ、行きたいの……」
言い終わると二度咳き込み、レナは吐血した。そしてふっと微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
グレイはまさかと思ったが、しっかり見ていると呼吸は止まってはいない。胸にはまだ矢が刺さったままだが、幸か不幸か、大事な臓器からは外れ、それほど深くは刺さってはいないようである。しかし、依然として予断を許さない状況であるのには変わりない。彼女の命は、確実に尽きようとしている。
(今俺にできることは……)
どちらにせよ、周りはどこを見ても敵だらけであり、もしレナが助かる可能性があったとしても、今の状況のままではその見込みがなくなる。となれば、移動するしかない。グレイは、一度すべての雑念を捨て、自分の腕にある腕輪に集中した。
「アンテ……! 力を貸してくれ……!」
何も声は聞こえなかったが、腕輪は赤色の光を放ち、グレイの脚に炎が巻き付いた。その瞬間、グレイはレナの背中と膝裏に腕を滑り込ませ、丁寧に彼女を担いだ。
「レナ、少し揺れる。我慢してくれ」
耳元でそっとささやくと、グレイは脚に力をこめて、とんっと地面を蹴った。レナを抱えていても、グレイの体は軽く持ち上がり、そのまま帝国が使ってやってきた商船の甲板に飛び乗った。四方はすでに数万にも達するほどの兵士で埋め尽くされており、バルドに向かってではあるが、大量の矢も飛んでいたからだった。商船の上に体を乗せていたのもほんの一瞬で、再び力を込めると、何の迷いもなく海へと飛び降りた。グレイには、なぜだか自分が想像していた通りのことができる確信があった。
体に少し負担はかかったものの、沈むはずの体は海の上にあり、波のせいかゆらゆらと体が揺れる以外は、何の問題もなく海の上に立っていた。しかし、当の本人であるグレイは、それを不思議と思う心の余裕もなく、西の海岸へ向かって全速力で海の上を駆け始める。
そこからは無我夢中だった。決してレナを抱えた腕を放さぬよう、そして彼女を、自分を勇気づけるための薄い言葉を発し続けながら、グレイは走った。一歩踏み出すごとに足下の海水はぱしゃっと鳴き、美しい音色を奏でているが、そのようなことにもまったく気づかぬ程必死に、グレイは駆けた。腕に抱く者の命が尽きる前に、彼女の願いを叶えてやりたかった。
グレイは風のような速さで走り続け、二人が砂浜に着くまでの時間は、ほんの少しのことだった。
「レナ、着いたよ。目をあけてくれ」
グレイはレナを抱いたまま声をかけた。レナの背中から、血がぽたぽたと砂浜に落ちていく。彼女の顔はほとんど真っ白に近かった。
レナはゆっくり目を開くと、海の方へと視線を向ける。
「きれい、だね……」
風が強く吹いてくるようになった。同時に雲行きも怪しくなる。
「ねえグレイ、私、グレイのこと、好きよ……。グレイは私のこと……」
「好きだよ! 好きに決まってるさ! 君だけが! 出会った時から……!」
グレイの目からは前が見えなくなる程の涙が溢れ出している。その雫が、暖かみを失っていくレナの頬に落ちて、その上を流れ落ちていく。
「あたたかいね……。嬉しい。多分最初で、最後だね。こんなこと言うのも、言われるのも……」
生気のない顔で、レナは一生懸命笑顔を浮かべる。
「最後なんかじゃない! 何度だって! 何回だって言うよ! だから……、頼むよ……!」
そうグレイが言った瞬間、レナは再び咳き込み血を吐き出した。彼女の口の端から、血が流れる。
「ねえ、なんだか不思議じゃない? ……戦争がなければ私たちは出会わなかったかもしれないし、……こうして別れることもなかったかも、しれない……」
聞き漏らしてしまうような微かな声を、レナは体中の力使って絞り出す。一言声を出す度に、体からはみるみる力が失われていく。グレイに伝えたいことはまだまだたくさんあったが、もはやそのすべてを伝えきることはできないことを、彼女が一番よく理解していた。
「もうしゃべらなくていい! 助かってから、元気になってから話せばいいよ。たくさん、たくさん話そう……!」
レナに少しでも長く生きていて欲しいがために言った言葉だったが、彼女はやめなかった。言い残したことを、伝えるために。
「でもね、やっぱり、戦争はない方が、いいよね。だって、私たちみたいになる人たちは、絶対減ると思うの。……皆好きな人と結ばれ合って、幸せに生きていく。……戦争がなければ、できると思うんだ……。だからグレイ、私、あなたに期待してるね」
何を言われたのか、レナの言葉の真意が、この時グレイには分からなかった。しかし、それでもゆっくりとグレイは頷く。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして、幾度となくしゃくり上げながら、彼は何度も頷いた。
「グレイ、またね……」
微笑を浮かべたレナのその最期は、実にあっさりとしたものだった。嫌だ嫌だとわめくグレイをよそに、彼女の体からは力がなくなり、首がごろっと横へと滑っていく。まだ暖かみのあった体は、急激に温度をなくし始め、グレイに非常な現実を突きつけた。——彼女は今、死んだのだと。
とてつもなく暗く深い絶望感が、体中を完全に包み込み、グレイはレナを抱いたまま膝をついた。
昨日約束したばかりだというのに、このざまだ。何が守るだ。何があっても? ……笑わせる。たったの一日も、そんな約束は守れなかった。まったく、どうしようもない男だ。救いようのない、愚図だ。哀れというのすら、おこがましい。
そんな思いがぐるぐるとグレイの頭のなかを駆け巡り、ついには何も考えられなくなった。しかし、涙は止まらない。
むっとした空気があたりに立ち籠め、ぽつぽつと雨が降ってきた。やがてそれは暴風とともに大雨となり、凄まじい音ともに辺り一帯に降り注いでいく。
そんななかで、グレイは大声をあげて泣き続けた。しかしその声は、激しく吹き荒れる風にかき消されていく。もう二度と動くことのない、初めて愛した女性を腕に抱きながら、グレイはひたすらに泣き続けた。
やむ気配のない、激しさを増す雨が、いやに心地よかった。