二十六戦目:幸
ロイは上半身を持ち上げて大きなあくびを一つした。清々しい日の光が窓から射し込んでいたが、疲れていて、全身に重さを感じる。前日は有益な情報はなに一つ集まらず、ひたすらに一日中歩き続けたからだ。
彼が壁向かいにあるグレイの寝台がある方を見やると、すでにグレイは出かけたようだった。グレイにしては珍しく、布団がちゃんとたたまれていた。そしてその布団の上には、一枚の書き置きがある。
——先に出かけてくる——
そう一言だけ書かれていた書き置きを見て、ロイはため息混じりに笑みをこぼした。
(これ知ったら絶対エリィ怒るな……)
ロイは書き置きの本当の意味を理解していた。
実際ロイの予感は当たり、朝食を摂っている際にこの書き置きのことを伝えると、エリィは顔を真っ赤にして激怒した。
「ふんっ! こんなわざとらしい書き置き残しちゃってさ! どうせあの女の子のとこに行ったんだわ。どうせ無駄なのにさっ」
そう言い切るエリィに、少しロイは動揺した様子だ。
「どうして分かるの?」
「決まってるでしょ。オンナの勘よ。……もう! ふられちゃえばいいのよ……。あの、馬鹿グレイ!」
恐ろしい程のその剣幕に、ロイは口をつぐんだままだった。
「エリィ、もしかして……、怒ってる?」
ロイはおそるおそる口を開いた。
「だれが! 何でわたしが怒らなきゃいけないのよ!」
苦笑いを浮かべたまま、ロイはパンをかじった。
グレイが、レナが泊まっている宿に着いた頃には、昼近くになっていた。というのも、道に迷ったということもあるし、どうやって遊びに誘おうかと悩んでいたからであった。もともとは口の軽いグレイだが、初めて意識した女の子に対して、どう接すべきかどうか分からなくなっていたのである。結局彼の考えは、回りくどく誘うことはしない、というものにまとまった。
宿の中に一歩入ると、受付の前にちょっとした休憩所がある。椅子と卓があるだけだが、そこにレナがアラムと向かい合って座っていた。アラムはグレイに気がつき、やっと来たか、と言いたそうな表情を浮かべると、グレイに向かって話しかける。
「やあグレイ君、こんにちは」
グレイは恥ずかしそうに頭を下げた。
「どうも……」
グレイはそう言ったが、レナは俯いている。
「ちょっと便所に行ってくる。ああ、大きい方だから遅くなる。レナ、お前全然街を歩いてないだろ? 腹減ってるんだったら先にどこか行って飯食ってていいぞ。あとで、おいつくから」
そう言うと、アラムは足早に去って行った。
残されたグレイとレナの間に、気まずい沈黙が流れる。
「あの、さ、お腹……空いてない?」
やっと絞り出した言葉がそれだった。
レナはちらりともグレイの方を見ないまま、ふるふると首を横に振った。
しかし、その途端に、レナの腹が、ぐぐうっと音を立てて鳴った。たちまちレナの頬は紅潮し、恥ずかしそうにさらにうつむいた。レナは朝食もまだ食べていなかった。その姿があまりにもかわいらしくて、なぜかグレイも赤面してしまう。
「俺も腹減ってるからさ、その、ご飯、食べに行かない? この前おいしい料理を出してくれる店を教えてもらったんだ」
グレイの腹も、調子を合わせるように、ぐうっと鳴る。グレイもグレイで、朝早くから朝食も食べずに歩き回ったため、かなりお腹が空いていた。レナの表情がぴんと張りつめる。
「……じゃあ、待ってて……」
迷った末に、レナはそう小さく返事をした。彼女のなかでもうすうす、グレイのなかの何かを感じ取っていたからなのかもしれない。
そういうとレナは自分の部屋の方に一度戻って行き、大きな白い外套を頭からすっぽりかぶると、再びグレイの前に姿を現した。その姿は、肌をあまり露出しない北の人間のなかでもかなり目立つ出で立ちだ。かろうじて視界だけは確保されている。
「それ、どうしたの……?」
たまらずグレイはそう聞いたが、レナが何も言わなかったため、グレイはそれ以上追求しなかった。彼の頭に、前日のアラムの言葉が浮かんだ。レナは人と接するのを怖がっている。その言葉を思い出した。それならば自分はいいのだろうか。そんな言葉も思い浮かんだが、すぐにかき消し、市場の方へ向かうことにした。
「市場の方へ行かない? なんか美味しい食べ物があるんだってさ」
レナは小さく頷いた。
しかしいざ外に出ようとすると、レナは脚がすくんでしまうようで、なかなか外へと踏み出せなかった。
「どうしたの? 最初に会った日は外だったのに……」
覗き込むようにしてグレイは尋ねたが、レナは目線を合わせようとしない。
「あの時は、団長がいたから……」
そういうレナの声は、ひどく震えていた。
グレイは少しの間悩んだが、いきなりレナの左腕を掴んだ。
「ちょっと、何するのよ!」
レナはきっとグレイを睨みつける。しかしグレイは動じていない。
「いいからいいから。……ほら、震えも止まったでしょ」
その言葉は真実で、実際にレナの震えは止まっている。
「本当だ……。でも、どうして?」
「まあ、その……なんでだろうね? 大したことじゃないよ」
そう言うと、グレイは朗らかな笑顔をみせる。
「えっと、それでもし、君が気にしないんだったら、掴んだまま外に出かけたいんだけど……、どうかな?」
グレイは非常に緊張した面持ちだ。
「……ううん、でも、それって変じゃない? 変な目で見られるんじゃない?」
そういってレナは不安げな表情を浮かべる。レナは基本的に知らない者から見られることが好きではなかった。そのため、舞台の後などはぐったりとしてしまうほどだ。
再び悩んだ末に、グレイは黙ったまますっと右手を差し出した。グレイは体中が火照っている。なぜ自分がこんなにも積極的で、そして危険なことをしたのかは分からなかったが、してしまったものはしょうがない。黙ったまま、レナの返事を待った。
レナはその右手を見つめたまま動かなくなっていた。自分の心臓の音が聞こえる。それと同時に自分自身の声も。今、自分はこの手をとろうとしている。しかし、本当にこの手をとってしまっていいのか。たしかにさっきグレイに掴まれた時、体の震えは止まった。だがそれだけで、ただそれだけで、この目の前の男の子を信用してもいいのだろうか。昨日今日会ったような人に。
レナは一度かぶりを振る。
しかし、実際に自分はあの時、外へ出ることの恐怖を、忘れることができた。団長と一緒にいる時も、ずっと感じていた、表現することのできない不安感を忘れることができたのだ。一度、この手をとるのも、いいかもしれない。それが失敗だったら、その時はその時だ。
レナはゆっくりと自分の左手を伸ばし、グレイの手を、そっと握った。
冷たい、それがグレイが最初に思ったことだった。自分も馬鹿なことをしたものだと思っていたが、それも忘れた。そしてそれと同時に、暑さと緊張のために少し汗ばんだ手を、苦々しく思う。
レナの冷たく小さな手を、グレイはほんの少しだけ強く握る。離さない、離したくない、という意味を込めて。
そして、言葉も交わさないまま、外へと歩き始めた。レナも、素直にそれに従う。震えはもうまったくない。
二人は市場の方へ向かう。外はやはり貿易町ということで、人でごった返していた。歩きながら水を売る者、理由は分からないが走っている男、そしてそれを必死の形相で追いかけている女、生き生きと皆動き回っている。周りの建物には人が出たり入ったり、めまぐるしく動き回っている。
グレイは市場に行く途中ではほとんど話すことはできなかった。何を話せばいいのか、どう話せばいいのか、それがまったく分からなくなってしまったからだった。
レナのほうから話しかける、ということは当然なく、長い沈黙があった。
「その、また少し震えてるみたいだけど、大丈夫?」
グレイは少し心配した表情で話しかける。
「うん、いや、大丈夫……」
グレイから表情は伺えないが、少し無理をしているようだ。
「周りの目が気になるのならさ、今俺が握ってる、その手のことだけに集中してみて。多分、大丈夫だから……」
そういうとまた、グレイはレナの手を握る力を強めた。しかし痛くはないようにしっかりと加減はできている。周りに気が向かないようにした、彼なりの気遣いだった。それが分かったのか、レナも少しだけ、ほんの少しだけ、強く握りかえした。
市場につくと、なんともいい香りが二人の鼻を刺激した。昼時だからだろう、水夫や商人といった者たちが、楽しげに笑いながら、どかんと置かれた巨大な卓を囲み、豪快に飯を食らっている。皆顔には笑みを浮かべ、互いに話をして笑い合いながらなんとも旨そうに料理を口に運んでいる。
「いっぱい人がいるなあ……。そろそろこの辺で食べようか」
二人は屋台の前に設けられている卓に座った。するとすぐに少し太った中年女性が、笑みを浮かべながら二人の方に寄ってくる。
「いらっしゃい。注文は決まってるかい?」
それは聞く者も元気にさせてしまうような、張りのある声だった。
「えっと、イルミーっての、あります?」
少しどぎまぎしながらグレイはそう言う。
「お、あんたなかなか通だねえ、イルミーを知ってるなんて。二人分でいいのかい? そちらの彼女は?」
それを聞いてレナは慌てた様子だ。
「彼女なんかじゃ……! その、私もそれで……」
「はい、二つね。じゃあ、少し待っときなよ」
そう言い残して屋台の方に向かった女性を見送った後、グレイとレナは顔を見合わせた。グレイは笑いをこらえるような表情を作ったが、レナは無表情のままだった。
「そういえば、君って全然笑わないんだね。歌を歌った後もそうだし。そういえば、笑ったとこをみたことないな」
グレイは思い出したようにそう言ったが、レナはやはり表情を崩さない。
「別に、笑う理由がないのに笑うなんておかしいじゃない。楽しくもないのに笑うなんて、それこそ可笑しいことじゃない。あなたはいっつも笑っているような感じだけれど、そんなに楽しいの? 何が楽しいの?」
レナはさらっとそう言う。普通の人がその言葉を聞けば、何となくぶっきらぼうなものに聞こえ、不快な思いをするかもしれないが、当の本人はまったくそんな気持ちはなく、むしろ彼女が他人に興味を持つことは珍しいことだった。
「そりゃあ楽しいよ。俺はものすごく田舎で育ったし、こんなに人がいるとこなんてほとんど来たことがないしね。だからさ、人を見てると、何となく楽しい気分になるんだ。それに……」
言いかけて止めたグレイに、レナは疑問に思った。
「それに?」
「その、きみと一緒にいると、楽しいんだ、すごく……」
それを聞いてレナは少し怪しんだような表情を浮かべる。
「楽しい? 私といることが? 何にも話してないじゃない。それなのに楽しいなんて、おかしなことね」
グレイはその言葉に少し困ったが、先ほどの言葉は嘘ではない。正直な気持ちだった。特にこれといった話をしたわけではなく、とくに一緒に何かをしたわけでもない。しかし、レナと一緒にいることが楽しくて嬉しくてしかたがなかったのだ。
「あなた、変な人ね。親のしつけがなっていないんじゃない?」
皮肉が混じった言葉だったが、グレイは別段気にした様子もない。
「親は、いないよ。俺捨て子だったから……」
「え?」
レナは驚いた様子だ。
「俺、生まれてすぐ捨てられてたみたいなんだ。村の入り口に捨てられて、雷みたいに泣いてたって、俺を育ててくれたばあちゃんが言ってた」
グレイの表情にまったく影はない。
「はい、イルミー二つね。じゃあ、ごゆっくり」
会話を遮るかのように、女性が大きめの椀を二人の前にどんっと置いた。そして代金を受け取ると、女性は再び屋台の方に戻っていった。彼女なりに気をきかせたようだった。
イルミーは、木製の椀に白米をたっぷりと盛りつけ、その上に人差し指ほどの魚を、甘辛いタレと一緒にのせたものだ。そのタレの匂いがまた、食欲をそそる香りである。
「うまそうだな。じゃあ食べようか」
言うが早いか、グレイはそれらを箸でかき込んでいく。思った通りの、美味だった。
しかしレナは目の前のイルミーに口をつけようとしない。
「どうした? もしかして、魚、嫌い?」
グレイは少し表情を曇らせる。レナは首を横に振る。
「さっき、親はいない、って言ったよね? どうして、そんなに明るく振る舞えるの? 恨んだり、憎らしく思ったりしないの? ねえ、どうして?」
先ほどからずっと気になっていたことだった。目の前の少年は、表情のなかに暗さがまったく見えない。しかし自分は違う。親を恨んだ。この世界を恨んだ。しかし、この少年は違う。
グレイは椀を置いた。
「俺さ、正直、子供の頃は、なんで自分を捨てたんだって、親を恨んだよ。見たこともない親をさ。でもある時気づいたんだ。俺のばあちゃんは、誰よりも俺を愛してくれている。そりゃ怒られたり、たまには殴られたりもしたけどさ、それがすごく、嬉しかったんだ。……それに、俺には親友もいる。それが幸せなことなんだって、気づいたんだ。……てまあ、格好つけたこと言ったけど、俺は全然不幸じゃないってこと。ただ恨んでるだけじゃ、人生つまらないって気づいたんだ」
レナはただただ驚いた。自分とあまりにも考え方が違ったからだ。自分はそれまで、そのような風には考えたことがなかった。ただただ怯えていた。人に怯えていた。世界に脅えていた。そして恨んだ。幸福というものは幻想にすぎず、人々は皆空想の中で生きているにすぎないのだと、そう考えていた。
恥ずかしそうに笑うグレイを見つめ、必死に耐えてきた感情を、レナは吐き出そうとしていた。
「私でも、こんなわたしでも、幸せに……なれる?」
「ああ。絶対になれるよ。……いや、……なろう……!」
グレイはレナをしっかりと見つめ、少し小さな声で、しかしはっきりと言った。騒がしい中、レナの耳には、グレイの言葉以外は入らなかった。
レナの青い瞳から、涙が溢れ出た。五年ぶりの、五年分の涙だった。