一戦目:日常
鳥が弾かれたように飛び上がり、それに続いて木刀が宙を舞い、カランッと音をたてて土の上に落ちた。二人の青年の荒い息遣いがそこら中に響いている。
一人はしりもちをついていて、もう一人は木刀を喉に突きつけながらにこりと笑った。
「これで僕の五百戦五百勝だよ、グレイ」
そう言うと片方の青年はすっと木刀を喉元から下ろした。長い黒髪と、整った顔が印象的なその青年は、無駄な肉の無い、しなやかな腕を差し出す。
「マジかよ……。ロイ、お前ちょっと強すぎだよ! だいたい俺に五百回も勝つなんて、そんで頭も良いし、顔も悪くないときてる! まったくこの世は不公平だ……!」
グレイはぶつくさ言いながら自力で立ち上がると、近くに落ちている木刀を拾った。親友の手を取って経たなかったのは、先ほどの、そしてこれまでの敗戦がただ悔しいからである。言い終わった後も、負けたのが納得いかないのかぶつぶつと一方的な文句を続けている。グレイはロイとは違って、黒い髪はあまり長くないが、その髪は所々上にはねていて、そして彼のそのくりっとした茶色の瞳は、人なつっこさを感じさせる。
「ごめんごめん。でも、手を抜かれた方が嫌でしょ?」
ロイは長い黒髪をかきあげて爽やかに笑う。
「まあな。……なあ、そろそろいつもの場所に行こうぜ。もう夕方だし」
グレイは尻についた泥両手で払うと、ロイを誘った。夕日が地面に当たろうとしていて、もうすぐ夜がくる。
「ああ……、『英雄の丘』だね? うん、行こうか。グレイはあそこお気に入りだよね。僕もだけど」
ロイは額に少しだけ浮かび上がっている汗の粒を、笑顔のまま服の袖で拭った。
『英雄の丘』は小高い丘の上にある場所で、大きな石碑が立っている。そしてその石碑には、〈歴代の英雄ここに眠る〉と刻まれていて、英雄の丘はグレイたちの村の人々の憩いの場となっている。
草の上に寝転がると、紅くなった空を見上げながらグレイは口を開いた。少し強い風が寝転んでいる二人の上を通貨していき、彼らの鼻に、何とも言えない甘い匂いのする花の香りが、すうっと入ってくる。石碑の周りは赤や青、黄色や紫といった多種多様な花々が見事に咲き乱れており、見る者の心を癒す。
「なあロイ、こんなに綺麗な空があるのに、その下のどこかで戦争があって、人が死んでるんだよな……。そんなの信じられねえよ」
辺りでは様々な虫が鳴いていて、夏の到来を告げようとしている。
「そうだね……。でも僕たちももう十七歳だし、来年には兵役が待ってる。帝国の兵役は十八歳からになってるからね。この空の下で殺し合うのは、僕たちになるんだよ」
「わーってるよ! あーあ、なんで戦争なんてすんのかね? 俺は毎日可愛い子や揺れる乳が見れてたらなんにもいらねえのになー!」
それを聞くとロイは腹を抱えて笑い出した。本当に苦しそうに、ヒイヒイ言いながら地面を叩いている。ロイはグレイのこんな正直なところが好きなのである。自分があまり感情豊かな方ではないので、グレイのこういった点に憧れもしていた。
「そ、そうだね。みんなグレイみたいな人たちだったら争いなんて起こるわけがないよね!」
ゼイゼイと肩で息をしながらロイは口元に柔らかい笑みを浮かべる。グレイはグレイで、ロイの聞き上手なところや、優しいところが好きだった。十数年前、出会った頃から二人は親友になったのである。
「みんなこんな奴みたいなスケベだったら世界が崩壊しちゃうわよ」
二人が驚いてくるりと顔を後ろに向けると、鮮やかな青色の髪をした女の子が、うんざりした顔で立っていた。二人はゆっくり起きあがると、体についた草花を指でつまみながら取り除く。
「そうだね。確かに、みんなグレイみたいだったら困るよね」
ふふっと愛想笑いをすると、ロイはちらりと横目でグレイの方を見た。グレイはわなわなと震えている。
「おいロイ! お前エリィの話にのっかるんじゃねえよ! それとエリィ! そんな言い方はないだろ! 幼なじみだからって言って良いことと悪いことがあるだろうが!」
「何言ってるのよ、本当のことじゃない! バカなことばっかりやってるから村の女の子たちから嫌われるのよ! 少しはロイを見習いなさい!」
顔を真っ赤にしながらエリィは怒鳴った。髪が青いのでよけいにその美しい顔が際立ってみえる。グレイはあまり感じていなかったが、エリィはまぎれもなく美人であった。目は大きくぱっちりとしていて、それでいてその瞳は優しさを感じさせる。すれ違う者がいれば思わず見てしまうだろう。グレイたちの村で一番の器量良しと言われる存在であった。
「減るもんじゃねえし少しくらいいいだろ! そんなことだからおっぱいが大きくなんねえんだよ。ほーら、俺が大きくしてやろうか?」
グレイはエリィの前に立ちふさがると、腕を振り上げ、両腕をエリィの胸に向かって伸ばした。しかしそれはエリィに難なく受け止められ、グレイに防御する暇を与えず、エリィはすぐさま膝蹴りをグレイの股間に叩き込んだ。
鈍い音が辺りに広がり、グレイは膝をつくと、そのまま地面に突っ伏し、彼の意識は一瞬遙か彼方へと飛び去った。
ロイはそのやりとりをまばたきもせずに見続けて、自分の股間を押さえて苦虫を噛み潰したような顔をした後、グレイに向かって静かに手を合わせた。
(分かるよ、グレイ!)
グレイは悶絶しながら声にならない音を口から漏らしている。
「自業自得ね! いつまでもそんな手が通用すると思ってるの?」
「てめえエリィ……。なんつーことしやがるんだ! 使えなくなったらどうすんだよ!」
グレイは脂汗をぎっしりと顔中に浮かべていて、さらに地面をのたうち回ったせいで泥だらけになっている。
「誰も困らないわよ! 無様に転げ回っちゃって、カッコ悪い!」
エリィはそう言い残すと、くるりと向きを変えて村の方角へスタスタと丘を下りて行ってしまった。それに続いてロイも申し訳なさそうにしながらも帰ってしまったので、『英雄の丘』 でグレイは独りとり残された。
「女にこの痛さが分かってたまるかよ……。チクショオ!」
グレイが家に帰る頃にはもう辺りはかなり暗かったが、月が高々と夜空に上がっていたので歩きづらくはなかった。
何の変哲もない普通の一軒家の扉をゆっくりと開けると、グレイの眼には見慣れた光景と見慣れた人物が映った。祖母のマリアだ。
「ばーちゃん、帰ったよ」
「おや、遅かったねえ。あんた泥だらけじゃないか。ご飯食べる前にお風呂に入ってきなさい」
歳をとり、シワだらけとなった顔をさらにしわくちゃにして、朗らかに笑いながらマリアは言った。グレイも笑顔で返すと風呂場へ向かう。
マリアの料理の腕は村の中でも評判で、その日の夕食はシチューだった。マリア特製シチューは季節の野菜と鶏肉がたっぷり入っていて、深みがあってとても美味である。風呂からあがったグレイはシチューを何杯もおかわりした。食べ終わってマリアと少し雑談すると、グレイは部屋に戻って眠りについた。この日は昼間からロイと何度も木刀を合わせていたので、体はくたくただった。
夜が更け、グレイは独り夢の中にいた。暗く冷たいその夢は、グレイの背中をゾクリとさせる。グレイは底なしの闇に包まれ、ひたすらに前と思われる方向へ向かって歩き続けている。
「王都に行け」
突然闇のなかから低く太い男の声が聞こえた。
「は?」
グレイはキョロキョロと辺りを見回すが、何も見当たらない。
「王都へ行け」
静かに、しかしハッキリと声の主は言った。
「誰だよ? しかも王都だ? こんな居心地良い村出てくわけねえだろ」
物怖じしない態度のグレイは、声の主がどこにいるのかを探しながらもそう応えた。
「そうか……」
そう言い残すと声はスーっと消えていき、闇も晴れた。
グレイが目を覚ますともう朝になっていて、窓からは気持ちの良い、輝くような朝日が射し込んでいた。
「今日も良い日になりそうだなー!」
朝食をすませると、グレイはいつものように家を飛び出していった。本当に、いつもと変わらない朝だった。