十四戦目:炎
グレイとロイはこれまで一度たりとも本気の喧嘩をしたことがない。というのも、ロイがもともと温和しい性格であり、グレイと行動をするようになってから、さらに彼の心根が固定されたからである。
グレイはどちらかと言うと短気で喧嘩っ早い方だが、ロイがいつもひくために、彼とはケンカにはならないのである。しかし今回ばかりは話が違う。二人の心の奥底から湧き上がったどす黒い炎が、体中を埋め尽くすように表面に現れてきていた。
ひどく生ぬるい風が、向かい合う二人の間を通り抜けていく。二人とも、武器を構えたままピクリとも動かない。まばたきすらもできない、そんな空間ができていた。
「グレイ、いいのかい? この前君は僕に負けたばかりじゃないか。やめておいたほうがいいんじゃない?」
そう言うと、ロイは口だけで笑いをつくる。普段からは想像もつかないその顔に、エリィは思わず鳥肌が立った。
(いつものロイとはまるで違う。まるで、ロイじゃないみたい……)
「てめえ本気かよ!」
グレイは大声を出した。自分から誘ったものの、まさかいつも冷静なロイがすんなりとそれに乗ってくるとは思っていなかったため、心のなかは穏やかではなかった。
「いまさら!」
二人が少しずつ近づき、武器と武器がふれ合うほどの距離になった。すると不意に、グレイは不気味な気配を感じた。体がずっしりと重くなる感じがして、なにかヒトではないものの存在が肌で感じられ始めた。
グレイは辺りをきょろきょろと見渡した。敵意をむき出しにしている目の前のロイよりも、気味の悪い存在の方が気になったのである。
「よそ見かい? 余裕だね!」
ロイの槍の穂先がグレイの顔へと襲いかかる。グレイはそれをまさに間一髪でかわした。グレイの髪が数本、地面へとゆらめきながら落ちていった。
「ちょ、ちょっと待てロイ! 何か変な感じがする!」
グレイは後ろに跳んで距離をとった。
「つくづく、君は僕をみていないんだね……。グレイ、君はどこまで……!」
瞳に再び怒りの炎がやどり、ロイは槍を両手でギュッと握りしめた。
途端、ゴウッという音とともに、一陣の風がロイを襲い、ロイは横にすっ飛ばされた。
グレイは地面に倒れているロイに目をやった。しばらくはわき腹の痛みのせいかピクピクと動いていたが、やがて動かなくなった。気絶したようである。
グレイはロイが先ほどまで立っていた場所に顔を向けた。何かの気配をその場所に感じたからだ。
(炎……?)
ソレは、馬ほどの大きさの狼であった。グレイが一瞬炎に見間違えたのも不思議ではなく、その獣の体は焔のように赤い体毛で埋め尽くされていた。そしてその狼は四本の足で地に実に堂々と立ち、じっとグレイを見つめている。
「……貴様は強さを求める者か?」
赤い狼はその大きな口をひらき、静かな空間によく響く声でそう言った。
「しゃ、しゃべった!? 何モンだお前!」
グレイは意外なことに慌てながらもそう投げかけた。
「世界に危険が迫っている……」
「俺の質問に答えろよ!」
「我が何者かなど、どうでもよいことだ。重要なのは、お前が力を求めるかどうかだ……」
狼の声はさほど大きくはないが、なぜか耳元で話しているかのようにすっと耳に入ってくる。
「ちから? そりゃあ、あるにこしたことはないけどな……。仲間を守れるぐらいは強くないとダメだろ?」
グレイは照れたように頭をぽりぽりとかいた。そして地面に突っ伏しているロイをちらりと見て、悲しげな表情を浮かべる。
「そうか……。ならば、手加減なしでゆくぞ!」
グレイと対峙する狼は膝を沈め、臨戦態勢にはいった。周りの空気がズンッと重くなり、肌にビリビリと威圧感が伝わる。
「まじかよ! おいエリィ! ロイを頼む!」
グレイは敵から目を離さずにそう言うと、剣を再び構え直した。エリィはハッとした表情を浮かべると、倒れているロイの方へ駆け寄った。
「おい犬っころ! なんでこんなことすんだよ!」
腕に力を込めながらグレイはそう口にする。
「問答無用!」
うっすらと残像を残して狼は消えた。そしてグレイがその姿を追おうと辺りを見回した瞬間、激しい衝撃が彼の背中を襲った。視界から消えたように見えた狼が背後から体当たりをしたのである。グレイは前のめりに吹き飛ばされたが、うまく受け身をとると再び敵の方へ向き直った。
(本当に消えたのか? ……いや、速すぎて見えないのか!)
そのようなことを考えているうちにも狼は再びグレイへと襲いかかる。相手のあまりの速さにグレイはどうすることもできなかった。ときどき赤い軌跡を捉えることができたものの、グレイがいくら剣を振り回しても決して当たることはなかった。
いつの間にかグレイは傷だらけになっており、相当体力も奪われていた。グレイはぜいぜいと肩で息をする。
(このままじゃジリ貧だ……! 何とか攻撃してくる方向だけでもわかんねえかな。……ん? あれは!)
突然グレイは走り出した。当然狼も風のような速さでそれを追いかけていく。
「敵に背中をみせるとは! それでも戦士か! 恥を知れ!」
赤い獣は毛を逆立てながら低く唸った。その姿はまさに、炎そのものである。そして再びグレイの背中に充分勢いがついた体当たりを叩き込んだ。
グレイはまたもや前方に弾かれた。グレイの体はそのままゴロゴロと転がり、五バル(約六メートル)ほど盛り上がった土の壁に打ちつけた。口の中に鉄の味が広がる。
「貴様のような者など、我が牙でかみ砕いてくれる!」
その言葉に呼応するかのように、狼の研ぎ澄まされた牙が、怪しくキラリと光った。そして狼はグレイに一気に飛びかかろうと脚に力を込め、体を低くした。
(きやがれ! ここなら……!)
後ろは高い壁があり、逃げ場はない。しかしこの場所に来たのはグレイの作戦だった。先ほどまで戦っていた場所ではどこから相手が来るのか分からず、翻弄された。しかしこの場所では背後を気にする必要がなく、しかも左右には幹の太い木が密集して立ち並んでいるため、体の大きい狼は真正面から攻めてくるしかない。
グレイは相手に気づかれないよう心の中でそっとほくそ笑んだ。
しかし、赤い狼は姿勢を低くしたまま動かなかった。彼はグレイの狙いに気づいていたのである。
(存外、ただの馬鹿ではないようだな……。だが! 気づいた以上貴様の勝ちはなくなった! その程度の男ならば、死ね!)
狼は再び脚に力を込め直すと、すぐさま地面を蹴った。グレイはそれに対し、体中に力を込め、渾身の力でまっすぐに突きを放つ。
グレイの剣の先が狼の眉間に突き刺さろうしたが、その瞬間赤い獣は目の前から消えた。
しかしグレイは動じず、自分の頭上を見上げ、木々の先端の間から自分目掛けて急降下してくる赤い狼にしっかりと焦点を定めた。
「そうくると思ってたぜ! 空中ならちょこまか動けねえだろ!」
グレイは突きの状態から狼の腹を狙って上に切り上げた。彼の手には確かに手ごたえが残った。相手の肉を裂いたという感触が。しかし振り返ると狼の姿はなく、剣には血もついていなかった。
「みごとだ……」
グレイが再び振り返ると、体のどこにも傷を負っていない狼が、どこか満足そうな顔を浮かべて立っていた。狼はそのまま言葉を続ける。
「合格だ。我が見込んだだけはあるな」
「へ?」
グレイは思わず間の抜けた顔を作ってしまった。
「我はお前を試したのだ。本当に、我が力を与えてもよいかどうかをな。その結果、お前は我の試練に打ち勝つことができたのだ。さあ、右手を我に向けて差し出せ」
相手から殺気が感じられなくなったため、グレイは訝しがりながらも、言われるがまま右手を前に出した。
途端、眩いばかりの光がグレイの右腕全体を包み込み、その光が消えるとグレイの右の手首に燃えるように赤い腕輪がはまっていた。
腕輪は見た目とは裏腹に羽のような軽さで、目を凝らして見るとぼんやりと赤く光っていた。
グレイはその腕輪をまじまじと観察した後、顔をあげた。
「これは?」
「それは我と契約を結んだ証だ。危機に陥った時、我が名を叫べ。お前に少しだが力を与えてやろう。我が名は、アンテ……。覚えておけ」
狼は口元をゆるめた。
「ふーん……。よく分かんねえけど、とりあえずありがとな。あ、そういえば、どうして俺なんだ? エリィはともかく、ロイは?」
グレイは首を傾げながら尋ねた。
「お前でなくてはならなかった、というのも一つの理由だが……。あの長髪の者はロイというのか、お前の仲間だな?」
グレイは無言のままこくりと頷く。
「そのロイとやらは、この森に入ってからいつもと様子が違ってはいなかったか?」
グレイは視線を地面へと落とすと、再び無言で頷いた。
「この森について少し話そう。この森は見ての通りあまり太陽の光が入ってこない。こういう場所では、人の負の感情が溜まりやすいのだ。つまり、怒りや憎しみ、妬みといった感情だ。そしてそういったモノは、信じられないかもしれぬが、生きている者に影響を及ぼすことがある……」
狼は息継ぎをすると、再び重く口をひらいた。
「もちろん誰でも、というわけではない。まず、心の強い者は基本的に平気だ」
グレイはごくりと唾を飲み込んだ。
「そしてあのロイという青年の場合だが……、彼は心の中の闇が大きい。それも、異常なほどに。だからこの森の影響を強く受けたのだ。もし、お前がこれからも供に旅を続けるつもりなら、気をつけることだ。いつその闇が溢れ出すか分からぬからな」
グレイは反論したかったが、口に出せる言葉が見つからず、押し黙ったままだった。
「この森を出るまで案内しよう。我について来い」
赤い狼はダグー車の方へ歩き始めた。グレイは複雑な表情を浮かべると、剣を鞘に納め、その後に続いた。