十三戦目:『またな』
一ケナ…約一時間
朝日が硝子窓から射し込み、まぶしい光にティアは目を覚ました。寝てる間にじっとりと汗をかいたようである。大きなため息をつくと、並べてある寝台に目をやった。そこに寝ているエリィは、小さな寝息をたてている。
手のひらでぱたぱたと顔を扇ぐと、ティアは水を飲むために一階へと降りていくことにした。部屋を出て階段へ向かう廊下の途中、聞き慣れた音を耳にしたため、ティアは思わず足を止めた。グレイのものと思われるいびきである。ティアはフッと口元をゆるめると、再び足を動かし始めた。
あくびをしながら木製の階段をゆっくりと降りていくと、なんとも良い香りがティアの小さな鼻の中に入り込んできた。
居間を覗くと、ヨルゼンが嬉しそうな顔をしながら飲み物を口にしているのが目に入った。お茶をすすりながら、テーブルに本を広げている。
ヨルゼンはティアに気がついたようで、本のページをめくる手を止め、ゆっくり顔をあげた。
「ああ、ティアさんですか。おはようございます。……いやあ、こんなに朝早く目が覚めたのも久しぶりですよ。本当に、この数日間楽しかったです。でも、それも終わりですね……」
ヨルゼンはまたお茶をすすった。
「本当に、いいのか? オレなんかを家においても……。そりゃこっちから言いだしたことだけど、オレは何もできないし、それにオレは……」
「『ロストチルドレン』、ですか?」
ヨルゼンは口をはさんだ。ティアは驚いた様子でうつむいていた顔をあげた。ヨルゼンはそのまま言葉を継いでいく。
「やはりそうでしたか……。なんとなくそんな気がしただけでしたが。でもそんなことは関係ありませんよ。わたしは、ティアさん、あなたに居て欲しいのです」
そう言うとヨルゼンはティアに笑いかけた。ティアはそれ以上何も言えなかった。言葉と一緒に、涙も出てきそうで、必死に声を飲みこんだ。
鉄の門の外で、ダグー車の荷台に荷物を積み終えると、グレイとロイは袖で汗をぬぐった。解放された人びとの手伝いもあったが、もう太陽は真上にきていた。
ヨルゼンに差し出された冷たい井戸水をぐいっと飲むと、グレイは喉になんとも言えない心地よさを感じた。そして冷たい水が胃までたどりついたのが分かると、無意識のうちに大きく息を吐いた。
グレイとロイ、それにエリィがダグー車に乗り込むと、大きな歓声が彼らを包んだ。それは、元奴隷たちの感謝の言葉の嵐だった。数は三百人ほどだろうか、そのなかのすべての人が顔に満面の笑みを浮かべている。
「グレイさん、少ないですが、このお金を受け取ってください」
ヨルゼンは手綱を握るグレイに布袋をさしだした。両手に収まるほどの大きさだったが、ずっしりと重さを感じた。
「すいません。このところ出費が激しくてあまり手元に残っていないのです。……そういえば、王都に向かわれるのでしたね。では、これもお持ちください。きっと役に立つはずです」
ヨルゼンはポケットから指輪を取り出すと、グレイの手に握らせた。指輪は金でできているようで、内側にヨルゼンの名が彫り込まれている。
「何から何までお世話になります。それじゃあ、お元気で。……ティアも、元気でな」
グレイは指輪をぎゅっと握りこみ、ヨルゼンの傍らに立っているティアをじっと見つめた。
「ああ……、じゃあな」
ティアはうつむきながらそうつぶやいた。
「おいおいティア、まさかもう会えねえなんて思ってんじゃねえだろうな? こういう場合は『またな』って言うモンだぜ?」
グレイはそう言ってニカッと笑った。ティアが何も言わないので、その隙にエリィとロイは彼女に別れの言葉をかけた。もちろん結びの言葉は、またね、である。
「またな、ティア」
グレイは前へ向き直ると、ダグーを進ませ始めた。ダグーはそれに従ってゆっくりと歩みを進め始める。
「またな、グレイ……」
その小さな声はダグーの鳴き声と、車輪が地面を咬む音にかき消され、グレイの耳に入っていくことはなかった。遠くから鳥の鳴く声が、グレイたちを追いかけるように響いていた。
「ほんの少しの間しか一緒にいなかったのに、なんでこんなに寂しくなっちゃうんだろう……」
エリィがぽつりとつぶやいた。その声が聞こえても、グレイとロイは無言だった。
三ケナほど北西にダグー車で進むと、背の高い木が少しずつ周りに立つようになってきた。森が近い証拠である。しばらく草原しか目にしてなかった三人にとって、それは心を弾ませる景色だった。そしてそれを見てか、ロイが口を開いた。
「このまま北西に進むと、‘リバルの森’っていう名前の森があるらしいよ。迷いやすいらしいんだけど、重要なことはそんなことじゃなくて……」
ロイは口をもごもごとさせた。エリィが丁寧な口調で聞き返すと、ロイは再び口を開いた。
「出発する前にヨルゼンさんに聞いたんだけど、最近その森で行商人や旅人が襲われてるらしいんだ。それでその人たちに、誰に襲われたのかを聞くと、みんな口をそろえて言うらしいんだ。『炎に襲われた』って……」
エリィは気温が高いのにも関わらず寒気を覚えた。その話を信じているのかと聞かれれば、すぐに首を縦には振らないだろうが、エリィはそれでも何か言葉にはできない気味の悪さを感じていた。
そうこう話しているうちに、ダグー車は森の中に入っていく。リバルの森の入り口は、まるでぽっかりと口を開けているかのように薄気味悪い光景である。太陽は傾きかけた頃だが、うっそうと木が茂っている森の中には日があまり射し込んでこないため、かなり薄暗い。
普段はのんきな顔をしているダグーだが、この森に入る際にはすこし顔をしかめ、脚を止めていた。
中は冷たい空気に満ちていて、汗が冷えて寒いぐらいだが、心地良い涼しさなどは微塵もない。気温それ自体はさほど高くないが、グレイの額には気持ちの悪い汗が浮かび上がってきていた。
最初のほどは、地面がむき出しになっている道を進んでいたが、途中からはそのような道がなくなり、背の低い緑草を踏みわけながら進まなくてはならなくなった。
そしてさらに道なりに進んでいくと、左右の別れ道に三人は直面した。ロイがヨルゼンから貰った地図を広げる。
「えーっと……、今この辺のハズだから……」
「左の方が人が多く通った跡があるから、左じゃないか?」
グレイが中に向かって口を開く。確かに、左の方が右の道よりも地面が見えていて、人の通ったような跡が多い。
「いや、右だと思うよ。地図でそうなってるから。絶対右だよ……!」
ロイが地図から顔をあげた。一瞬、グレイと目が合う。
ロイがこういう時は普段とはうって変わって頑固になることをグレイは知っていた。そのため、わかったよ、と言うと、グレイは荒々しく手綱を操り、ダグーを右へと進ませた。
しばらく進むと、また別れ道にさしかかった。今度はまっすぐか右か、である。ロイはまた難しい顔をしながら地図をじっと見つめ、道すじを指でなぞると、再び顔をあげた。
「……ごめん、やっぱりさっきの道、左だったみたい……」
ロイが声を細める。
「だからさっき俺が言ったのによ。頭が堅いんだよ、ロイは」
わざとらしく大きなため息をつくと、グレイはうんざりした様子で手綱を操り、来た道を引き返し始めた。エリィが少し不安になってロイの顔をちらりと見ると、心配は当たっていた。ロイが顔を真っ赤にしながら肩を震わせていたのである。
「なんだよ! それって結果論だろ! あとになって文句なんて言わないでくれよ!」
ロイが壁をバンッと叩いた。エリィは驚いて目を見開く。
「あ? 自分が間違ったのに俺のせいすんじゃねーよ! お前が道まちがえたんだろ!」
グレイも頭に血が昇ったようで、ダグーを止めると後ろに向かって大声を張り上げる。
「いつも間違ってるくせにこういう時だけ……!」
ロイはその言葉をつぶやくように言った。彼の心の中には、なにか不思議な心地よい風が吹き荒れていた。
「……てめえ、マジで腹立った。槍を持って降りろ」
グレイは横に置いていた剣をひっつかむと、そう言った。静かなる怒りが、その言葉には充分に込められている。
ロイが無言のまま槍を手にして外へ出て行こうとする。エリィがそれを慌てて止めようと、ロイの腕をつかんだが、荒々しくそれを振り払われた。
二人は武器を構えると、向かい合った。互いに殺気をびりびりと発している。
「やめてよ。二人とも。やめてよ……」
エリィのか細い声が、不気味な森の中へ吸い込まれ、そして消えていった。