十一戦目:開幕
闘技場は満員だった。五千人ほど収容できる観客席はきらびやかな服を身にまとった人々で埋め尽くされ、闘技場全体が地震で揺らされているかのようだった。
観客席は奴隷たちが戦う場所を見下ろすように作られていて、その最前列にエリィたちは座っている。
「すごい音ですね!」
耳を軽く押さえながらエリィはそう口にした。
「この大会では賭事も行われていますからね。一日で莫大なお金が動きます。それがこの大会で優勝した者の持ち主が願い事を聞いてもらえる理由でもあるのです。……ほら、あそこを見てください」
ヨルゼンが指差した方を見ると、一人の男性が特別席に座っているのが目に入った。玉座のような席に座り、グラスに注がれたぶどう酒を、何とも美味しそうに飲み干している。
「あのつるつるしたおじさんですか? あの人が何か?」
「あの男が実質この街を仕切っている、大富豪のドノバンという者です。賭場を経営し、そして二年に一回開かれるこの大会を取り仕切っています。そして何より、奴隷制を作った張本人も彼なのです。彼の財力は一国に匹敵するとまで言われていています」
ティアはドノバンを怒りの表情で睨みつけた。その空気を感じ取ったのか、エリィはぽんぽんと優しくティアの背を叩いた。
「さあ、そろそろ選手が出場してくるようですよ」
奴隷たちが命を削り合う場は見せ物台と呼ばれ、三バル(約三・六メートル)ほどの壁に囲まれている。東西には鉄製の扉があり、その扉が同時にゆっくりと開いた。腰に布を巻いた屈強な男たちがその姿を現し、耳がビリビリと痺れるほどに歓声は大きくなった。
「あ、グレイとロイだ! おーい! 頑張れー!」
エリィが手をぶんぶんと振りながら叫ぶが、もちろん二人には聞こえない。ティアは恥ずかしがって応援をすることはなかったが、心の中ではしっかり応援していた。
大きな花火が青空へと上がり、人々はぴしゃりと静まった。観衆すべての目線がドノバンに集まり、彼もそれを待っていたかのように、大声で叫びだした。
「皆さんようこそお越しくださいました! 本日は八人の勇敢なる者たちが鎬を削り合います! どうぞ、心行くまでお楽しみください!」
惜しみない拍手が沸き起こり、選手は一旦鉄の扉へ戻っていった。そして数分後、大会の始まりを告げる大きな太鼓が鳴り響き、二つの扉からそれぞれ一人ずつ入場してきた。片方はグレイで、鉄製の剣を右手に持ち、実に堂々と歩いている。
ステージには堅い土が敷き詰められているため、たたきつけられようものなら大ケガをするのは明白である。
二人が中央で向かい合うと、二人の名前が高らかに読み上げられた。グレイの相手は筋肉隆々で、見るからに元戦士だった。両手で戦斧を持ち、凄まじい形相でグレイを睨みつけている。一方のグレイは、体に何とも心地よい緊張感を感じていた。
(命がけの試合……。相手は躊躇なく俺の命を奪いにくるだろう。だけどこの高揚感はなんだ? まるでこんな機会をずっと待ち望んでいたみたいに……)
試合開始の合図の太鼓が鳴り、敵はためらいもせず大きな斧をグレイの脳天目掛けて振り下ろした。会場中が息をのみ、エリィとティアの頭の中に最悪の事態がよぎった。
しかし斧が振り下ろされた場所にグレイの姿はなかった。まるで攻撃を読んでいたかのように、最小限の動きでそれをかわしていた。地面に突き刺さった斧を抜く暇を与えずに、グレイは相手の土手っ腹に蹴りをぶちかました。
相手は一、二歩後ずさりしたが、大した痛手ではなかったようで、気にした様子もなく戦斧を引き抜いた。そして体をねじると、横薙をはなった。
戦斧が風を切り、そしてグレイのわき腹をかすめた。グレイのわき腹にうっすらと切り傷が浮かぶ。グレイは少し熱さを覚えたが、顔からはなぜか笑みがこぼれていた。
(相手の動きがみえる。ハッキリと……)
相手は先ほどの攻撃の反動を利用してもう一度横に薙払った。鈍く光る刃が弧を描きながら再びグレイに襲いかかる。
グレイは自身でも驚くほど冷静だった。彼の脳は勢いがついた戦斧に対してどう対処すれば良いのかを一瞬で導き出した。
グレイは地面を渾身の力で蹴ると、相手との間合いを一瞬で詰めた。そして戦斧の柄の部分を剣の腹で受け止めると、すぐさま相手のみぞおちに正確に剣の柄部分を叩き込んだ。
鍛え抜かれた鋼のような筋肉も、みぞおちへの一撃には無力だった。力なく崩れ落ちると、相手は苦悶の表情を浮かべたまま膝をつき、やがて動かなくなった。そしてそれが戦闘不能を意味するのは誰の目にも明らかであった。
「勝者、グレイ!」
火山の噴火のように拍手がわき起こり、それに応えるかのようにグレイは大きく腕を振り上げた。
エリィとティアは嬉しそうに飛び上がると、抱き合って喜び合った。しかしすぐにティアはハッと気づいたような顔をして、慌てて離れると照れ笑いをして頭をぽりぽりとかいた。
「……そういえば、これだけの大会なのに八人しか出場していないって、変じゃないですか?」
エリィが不思議そうに疑問を口にした。ヨルゼンは顔を彼女へと向ける。
「そうですか? この街の人間は凡そ人の考え得るすべての幸せを手にしています。健康な体以外は、ですが。彼らにはもはや願うことなどないのですよ。あるとすれば……」
グレイの試合の熱も冷めぬうちに第二試合が始まった。始まって数十秒もすると片方の男がその相手の首を剣で切り裂き、血の雨が、二人が戦っていた場に降りそそいだ。するとスタンドからは歓喜の声があがり、多くの者が席から立ち上がって拍手を送り、満面の笑みを顔に浮かべていた。それを見るとティアは背中がぞくりとした。彼女の目には彼らが人間であるようには映らなかったのである。それらは、何か恐ろしく、凶暴で血に飢えた獣のようだと、エリィは認識してしまっていた。
嫌悪感を露わにするエリィは、会場では異質な存在であり、動かなくなった体は事務的に片付けられ、試合は次々に進んでいく。
そして第四試合、短槍を持ったロイが登場すると、会場中の女性が騒ぎ始め、高音の歓声がステージをつつんでいた。
「お父様、わたしアレが欲しいわ!」
「そうかそうか。なら大会が終わったら持ち主から買い取ってやろう」
エリィとティアはそんな会話をする二人の親子をキッと睨みつけた。
その試合、ロイは問題なく勝った。刃を喉先に突きつけ、相手を降伏させたのである。試合はほんの少しの間で終わり、ロイがまだまだ本気ではないことは、グレイには分かっていた。
続く準決勝もグレイとロイは二人とも勝利し、決勝戦で二人はぶつかることになった。ヨルゼンはホッと胸をなで下ろした。
大歓声の中、グレイとロイは互いに武器を強く握りしめて入場してきた。グレイは自分の心臓が高鳴っているのを感じていた。早く闘いたい、そんな思いだけが彼の頭の中を満たしている。ロイは額にかいた汗を腕でグイッと拭うと、試合開始の合図を待った。会場中の視線すべてが彼らにそそがれている。
太鼓が鳴るやいなや、間合いを詰めるとグレイはためらいもなくロイに向かって剣を振り下ろした。その渾身の一撃を何とか短槍で受け止めると、ロイは少し距離をとった。すなわち、短槍がもっとも威力を発揮する距離である。
ロイもグレイの体へ向けて二、三発突きをくり出す。グレイは見事にそれを受け流したが、そのうちの一発がグレイの右頬をかすり、赤い血が彼の頬を伝った。
「そういえば久しぶりだな、お前とこうやって戦うのも……」
グレイは短槍が届かない位置まで下がると、口を開いた。
「うん、手は抜かないよ……!」
二人は同時にニヤリと笑った。