十戦目:手
「こんにちは。わたしはヨルゼンと申します。突然失礼ですが、あなた方はこの街の人ではありませんね? それに何かお困りのようですが……」
人間というのはこれほど物腰柔らかに話せるのかと、グレイは目を丸くした。そのほんの少しの言葉が耳に入っただけで、心に不思議な安堵感のようなモノが入り込んできた。そしてロイと目で言葉を交わし合うと、グレイは事情を簡潔に説明した。
途中で質問することもせず、黙っていたヨルゼンだったが、話を聞き終わると真剣な表情を浮かべて口を開いた。
「そうでしたか……。皆さんお若いのに、大変な苦労をしていらっしゃる。わかりました。お金が足りないということですが、それはわたしが出しましょう。しかし、この老いぼれの願いも一つお聞き願えないでしょうか?」
四人は覚悟はできていた。いくら何でもそこまで都合の良い話があるはずがない、そう考えていたグレイは、ヨルゼンに顔を向けてコクリと頷く。
「ありがとうございます。ここではなんですので、我が家にお越しください。そこでお話しいたします」
ヨルゼンの家は公園から近く、そしてやはり他の建物に劣らない豪華なものだった。家の前に広がる庭はキレイに芝が刈られ、なおかつ花も綺麗に並べられていて、よく手入れされているのがうかがえる。
四人はヨルゼンの誘導に従い家の中へと入っていく。まず四人とも不思議に思ったのが玄関である。玄関は段差がなく、脚に障害があってもあまり苦労なく上がることができる。この街にある家は国が建てたもので、怪我により兵を辞めた者に無料で貸している。帝国は家にもこだわっているようで、身体に障害のある者でも暮らせるように様々な工夫が施されているようである。
家に入ってすぐ右の部屋は大きなリビングとなっており、手前に木製のテーブルがある。四人は男女で別れてそこに二人ずつ向かい合って座った。
ヨルゼンは四人の前に水の入ったグラスを置くと、少し離れた所にある椅子にゆっくりとした動作で腰掛けた。
「だらだらと話すのは好きではないので単刀直入に言います。わたしの頼みというのは、明後日街の闘技場で開かれる武術大会で優勝していただきたい、ということなのです」
「話がまったくみえないんだけど……」
あっけにとられた四人だったが、すぐにグレイが口をはさんだ。
「皆さんはこの街を見てどう思いましたか? 華やかな反面、どぶ川にも劣るような光景もあったでしょう。……そう、奴隷たちです。明後日開かれる武術大会では奴隷が出場し、その優勝者の……、持ち主は願い事を一つ聞き入れてもらえるのです」
「つまり、僕たちがあなたの奴隷として大会に出場し、優勝すればいいということですね?」
ロイはグラスの水を少し口に含んだ。
「そういうことです。実はわたしの願いは、奴隷制を廃止してもらうことなのです。引退はしましたが、わたしも元騎士。誇りは失っておりません。人が人を買うなどと……! 本当はわたしが出場したいのですが、この体です。……このような話をあなた方のように若い人たちにするのは道理から外れていることは分かっています。しかし、この街にこんな老いぼれの馬鹿な願いなどに耳を傾ける者などいないのです。どうか、お願いできませんでしょうか」
ヨルゼンは深々と頭を下げた。彼のその礼儀正しさと熱い心は、四人の心をたしかに揺さぶった。そしてヨルゼンのその話は、グレイたちには願ってもないことであるのも事実だった。
「分かりました。お請けしましょう。それで、何人でも参加できるのですか?」
再びロイがグラスの水を飲んだ。
「はい、ルール上は問題ありません。しかし、この大会は非常に危険ですし、武術大会とは名ばかりで、要は見世物です。参加費用もかなりの高額なので、普通は一人しか出場させません。それに奴隷が死んでも文句は言えませんし……。しかし、この街の人間は奴隷が死ぬことなど何とも思わない者がほとんどですが……」
足が傷むのか、ヨルゼンは自分の太ももを何度もさすっている。
「じゃあ、俺とロイで出よう。エリィとティアはやめとけ。危険だしな」
ティアの方をちらりと見てから、グレイはそう言った。ティアとエリィはまっすぐグレイを見つめ、コクリと頷いた。
「ありがとうございます! では、よろしくお願いします。大会は明後日ですので、今日と明日はゆっくりと我が家でお休みください。旅をしているならばなかなかお風呂も入れなかったでしょう。そこを出て右に進むとありますので、ご自由にお使いください」
その言葉を聞くと、エリィの顔が輝いた。年頃の女の子にとって、お風呂に入れないことは苦痛以外何物でもない。一日の終わりに水浴びはしていたものの、それでもやはり足りなかったようである。
エリィは嫌がるティアを無理やり風呂場へ連れて行った。グレイの顔が妖しく輝いた。
「ロイ、お前はどうするんだ?」
「え、どうするって?」
「分かってるくせにィ!」
ロイは何かに気づいたような表情を浮かべた後、顔を赤らめ、首を横に振ると外へ出て行った。
ロイが出て行くのを見送ると、グレイはニヤリと笑い、ずんずんと家の周りを歩いていった。そして声と湯気が漏れてくる窓に近づき、そーっと顔を覗かせた。
するとぬっとエリィの顔がグレイの目の前につきだした。
「やあエ、エリィ。ここは風呂場だよ。なんで服を着ているのかな?」
グレイは体から血の気が引いていくのを感じていた。額から流れた冷や汗が顎のあたりからポタリと落ちた。
「あんたの考えなんかお見通しよ」
ニコッと笑い、エリィは拳を握ってグレイの鼻頭にそれをぶつけた。
「ティア、よろしく」
風がグレイを襲い、その後静寂が訪れた。ヨルゼンがお茶をズズッとすする音が、静かすぎる家に寂しく響いていた。
ヨルゼンの家の風呂場は純白の滑らかな石が敷き詰められていてで、隅々までピカピカだった。浴槽も大人が四人入れるほどの大きさがある。エリィがおそるおそる湯船につかると、浴槽に入ったお湯が津波のように外に飛び出していった。
エリィがご機嫌で鼻歌を唄っていると、ティアが風呂場へ入ってきた。布で体を必死に隠している。その動きは、何か見られたくないものを隠しているように見える。エリィが、自分たちしかいないのだから布をとっても大丈夫だと言うと、ティアはくるりと後ろを向き、ゆっくりと押さえていた手から力を抜いた。
ティアの背中を見た瞬間、エリィは目を疑った。というのも、彼女の背中には数え切れないほどの傷が背中からこぼれそうなほどついていたからである。傷は上から下、下から上など、背中を文字通り縦横無尽に駆け回っていた。おそらくは何度も何度もムチなどで叩かれたのだろう、傷の上にさらに傷ができており、それは一生消えないような痕となっている。
「それって……、でも……」
エリィの口から出てきた言葉は、彼女の心情をはっきりと表していた。困惑、ただそれだけだった。そしてそれはすぐさま哀れみへと変わっていった。
エリィは湯船からあがると、うつむいているティアの背後に立ち、後ろからギュッと力いっぱい抱きしめた。ティアは背中から伝わってくる暖かさを、体と心の両方で感じていた。
そのままどれほどの時間が経っただろうか、エリィは突然ティアの傷だらけの背中に手を当て、何かをぶつぶつと唱え始めた。
(これは魔法の……! なんでこの人が知ってるんだ?)
「アレット!」
エリィのその言葉が浴室に響き渡ると、突然彼女の体は淡い青の光に包まれだした。そして次にそれはゆっくりと彼女の手に集まりだし、最後にティアの背中に伝わった。ティアの背中の傷はゆっくりと、しかし確実に塞がり始め、ついには美しく綺麗な肌が見えてきた。ティアは背中に熱いほどの暖かさを感じていたが、青い光が消えるとそれはなくなり、ずっと感じていた背中の痛みがなくなったことに気づいた。
「消えた……! 良かった……!」
そう言うとエリィの膝はかくんと折れた。ティアは細腕でエリィの体を抱き止める。エリィは一言、ゴメンと言うと、その目を閉じた。
その後ティアは帰ってきたロイの力を借りて、家の一室の寝台にエリィを寝かせた。ロイに何があったのかを聞かれたが、ティアは今度話すからとだけ言って、その部屋を出て行った。
水を飲もうとリビングに入っていくと、ヨルゼンがテーブルでお茶を飲んでいた。ティアに気が付くと、ヨルゼンは彼女に飲み物を出そうと立ち上がろうとした。
するとヨルゼンはバランスを崩し、倒れそうになった。ティアは慌てて腕を伸ばし、ヨルゼンの体を支えた。
「ありがとう、ティアさん。こんな体だし、もうわたしもかなり歳をとった。こんなことはしょっちゅうでね。家族もいないし、実際生活はかなり大変だよ。……それはそうと、ティアさんはなかなか大変な人生を歩んできたようだね。目を見れば分かるよ。でも、君の手は本当に優しい。『与えること』のできる手だ」
ニッコリ笑いながらそう言うと、ヨルゼンはテーブルの上に一杯のお茶を置いた。椅子に座ったティアはそれをゆっくりと口に近づけ、そして飲んだ。
それはとても暖かかった。といっても、温度だけではない。それはゆっくりとティアの体を心地よい暖かさで満たしていった。
突然ティアは目頭が熱くなるのを感じた。そして後から後から際限なく出てくる涙を抑えることができなかった。なぜ自分が今泣いているのか分からなかった。しかしそんなことはお構いなしに、涙は拭っても拭っても次から次へと溢れ出していく。ヨルゼンはその傍らで、優しい目をしてティアを見つめていた。
その夜、ティアはベッドの上で自分の手をじっと見つめながら考え事をしていた。昼間ヨルゼンに言われた言葉が彼女の頭の中でぐるぐると回り続けている。
(‘与える’か……。考えたこともなかったな。オレの手は‘奪う’ことにしか使えないと思ってた。それが……)
そして目を閉じていると急に眠くなり、ティアはいつしか夢の中に誘われた。