皇太子とピアノレッスン
18歳のトッテはピアノの奏者だ。父は宮廷作曲家を勤めており、彼女自身は王子や王女にピアノの指導をしている。
「トッテみたいに弾けるようになるのに、どれだけかかる?」
ピアノを練習する手を止めて、少しむくれた顔で今年8歳になる王子が言った。
「練習曲は、つまらない」
ふふ、とトッテは笑う。
「一日10時間、狂ったように弾き続けたらいいんですよ♪ そしたら私のような音が弾けます。……でも。技術があるだけですので、それが誰かの心を癒す音かどうかは、わかりません。王子のピアノは、私と王や王妃、王子を愛するみんなの心に暖かいので、その方がよいのです」
幼い王子は、少し困ったような顔をした。
その会話を聞いていた皇太子は窓際の長椅子から声を投げかける。
「みんなが愛してくれるからって努力しないのは大間違いだぞ。弟を甘やかすな、ピアノ教師」
銀の髪に翡翠の瞳、白皙の肌の美少年である。王室の方々はみな美しいが、彼は際立って美しい。病気がちなのもあり、人間ではなく天使であり、はかなく消えゆく存在ではなかろうかと人々は心配している。
──が、しかし、トッテはこの皇太子と10年の付き合いがあり、知っている。彼にはさぼり癖があり、その言い訳に病気になったフリをしているのだ。その美しく儚げな顔でコホコホと言いさえすれば、誰も深く追及はしないのである。
故に、あなたが言いますか? という顔でトッテは皇太子を見る。
皇太子はにやにやと笑いながら椅子に置かれた楽譜を手に立ち上がる。
「交代してくれるか? 弟くん」
「はい、お兄様」
にやにやした顔も実に美しい。美しいが、心根に儚さは一切感じられない。
「いい楽譜を手に入れた」
そう言いながら、皇太子は楽譜を譜面台に置いた。
「連弾用の楽譜ですか……」
と言いながら、トッテはピアノの左側に座る。楽譜の中から音が流れて来る。早く弾きたい。
皇太子はトッテの表情を見て、意地悪く焦らすような仕草を見せる。
「そうだ、4本腕が無いと弾けないぞ。丁度ここには2本と2本があるが……」
「早く座ってください」
すこしきつい物言いに、皇太子はピアノの右側へ座った。
そして、小さな声で、トッテにだけ聞こえるように、言った。
「この楽譜を手配してくれたのは侯爵令嬢だ。近く婚約する」
「! ──それは……」
おめでとうございます、と言おうとした唇が、震えて声が止まってしまった。
皇太子がピアノの音をトンと鳴らす。
その音をきっかけに、トッテの頭は音楽に支配される。2人の連弾が始まった。
皇太子の奏でるピアノの音は、ピアノ奏者のそれには及ばないが、独特の世界を持っていて、聞くものを魅了する。トッテが全てを捧げて磨き上げたピアノの技を、つまらないものにしてしまう。けれどトッテも皇太子のピアノの音に酔いしれて、いつまでもこうして、いっしょに弾いていたいと思う。
そばで聞いている王子は高揚した頬で「そんな風に弾きたい……」と、つぶやいた。
最後の一音が鳴り終わると、トッテは我に返った。
幼いころから、ピアノの部屋に閉じ込められ、一日中ピアノの練習をさせられていた。けれど、10年前、同じように、もしくは、自分以上に、厳しく教育されている人に出会った。皇太子である。
『一日練習しないと取り戻すのに三日かかる』と、厳しく言われて、風邪を引いた日もゆっくり休めないトッテに、サボり方を教えてくれた。
「ほどよく休まないと、素敵な音を奏でられなくなるよ」と。
今もトッテは自分の演奏の腕が落ちるのが怖くてあまり練習をサボれないのだが、皇太子や王子にピアノを指導する時間は、練習をしなくては、という強迫観念から逃れられるのだ。
鍵盤から指を下ろし、トッテは隣に座る皇太子に、改めて、お祝いを──……
そう思うのだが、声が出ない。
世の中は皇太子の健康問題、それから母君が正室で無いことを不安視する向きもあったが、侯爵令嬢との婚約が決まれば、王位継承が近づく。この婚約は、国民にとっては、やっと決まったか、という感想になるだろう。トッテにとっても、同じだった。
「公爵家の次男が侯爵家に婿入りするそうだよ」
美しい瞳がトッテの目の前まで近づきながらじっと見つめてくる。
「──つまり、私には将来性が無いから、侯爵家の大事な娘を嫁がせられないということだ」
くすくす、と笑う唇も美しい。
頭がショートして理解が追い付かないトッテに、皇太子は更に近づき、額にその唇を当てた。
「おまえのせいでもあるよ、私たちのピアノを聞いて、彼女は私とは添い遂げられないと思ったそうだ。そしてその当てつけの楽譜だ。責任を取れ」
「せ…責任…?」
「そうとも。侯爵家の後見を手に入れなかったから、じきに私は皇太子ではいられなくなる。だから、おまえの婿になって皇族から外れようと思う」
「婿……?」
あまりのことに、トッテの思考は完全に停止……するわけにもいかないので、必死に回転させる。そう言えば今、やわらかい唇が額に触れた。この事態は一体何なのだ。心臓の鼓動が早すぎる、落ち着け、自分。……無理だ。落ち着けない。
「あなたが私のこと好きだとか、私があなたのことが好きだとか、そういう会話した覚えはないですが……」
「ああ、無いが……えっ……、あれ、うん? そうだな」
今度は皇太子が慌てだした。
みるみる、いつも自信に満ち溢れている顔が雲っていく。
「……ピアノを弾いている感じで……おまえも当然…そうかと……、違うのか!? 他に好きな男がいるのか……?」
トッテはそれを見て、思わず笑いが込み上げた。笑いながら首を振る。
「他の男性に出会う暇があったと思いますか?」
皇太子は顔をあからながら、美しい髪をかきあげた。そして言った。
「他の男と私を比べる時間が必要なら……待つ。そんなに待てないが。じきに王宮に居づらくなる」
トッテは答える。
「他の男性と比べる時間があるなら……あなたと一緒にピアノを弾いていたいです」
トッテは皇太子にぎゅっと抱きしめられ、2人の唇が重なった。
幼い王子はあの美しい兄のあまりかっこよくないプロポーズを、見ないふりをしながらつぶやいた。
「おしあわせに。」




