桜に盃
ゆっくりと、微睡みから浮上していく。
水面に揺蕩っているかのような感覚が全身を浸しているのを感じる。
目を開けると、一面の白。胸を満たすやわらかな春の香り。そして、宵の月のような黄金色が揺れている。
「起きたか」
「ん……せん、ぱい……?」
寝起きでぼやける視界には、白と金色しか映っていない。千鶴はふやけた笑みで目の前の白に手を伸ばして優しく撫でながら、
「先輩、こうしてみると目玉焼きみたいです……」
と、言った。
桜司は目を丸くしてから苦笑し、まだ半ば寝ぼけている千鶴を抱き寄せる。
「焼かれるのは困るな。……ならば、朝食はそれにするか」
「はぁい」
すり寄る小さな頭を撫でながら、千鶴の表情がうれしそうにとろけるのを暫く間近で眺めていると、ハッと我に返って目を瞬かせた。そして早回しでも見ているかのようにじわりと顔が赤くなっていく。
「……せ、先輩?」
寝ぼけ眼から完全に覚醒した千鶴が、そろりと顔を上げて口を開く。
「なんだ」
「あの……どうして、裸でわたしの隣にいるんですか……?」
「昨晩お主が離さなかったせいだろう」
「……!!?」
一気に火がついたような顔になった千鶴をからからと笑って眺めながら「冗談だ」と言うと、千鶴は赤い顔のまま眉を吊り上げた。
「い、一瞬信じそうになったじゃないですか!」
「なんだ、信じてくれても良かったのだがな」
桜司は、千鶴は怒った顔も迫力がないな、と微笑ましく思ったが、それを口に出せばまた怒られそうだとすんでのところで飲み込んだ。
「どうせ、そのうち真実になるのだぞ」
「……っ、そういうこと言わないでくださいっ」
なにを言っても敵わないと悟り、千鶴はせめてもの抵抗で顔を枕に埋めた。埋もれた枕にさえ春の香りが染みついていて、ここがどこなのか否応なく知らしめてくる。
現在地は桜司の社。桜司が普段住居にしている建物の寝所だ。まるで時代劇の世界に迷い込んだかのような、御簾に囲まれた寝台にいる。着ているものは和装の寝間着で、桜司がいつの間にか用意していた千鶴サイズのものだ。
(そんなに長くいたつもりはないのに、あのあと戻ったら夜だったんだよね……)
枕に埋もれたまま、ぼんやりと昨日の出来事を思い返してみる。
桜司の神域に招かれ、彼の本心を聞いて、それを受け入れた。魂ごと全て彼のものになると心に決めて、神域でも現世に戻ってからも、何度も口づけを交わした。細い体のどこにそんな力があるのかと思うくらい力強い腕に抱かれて、それから―――
(……凄く、気持ち良かったな……あんなに熟睡したの、いつぶりだろう……)
春の香りと体温に包まれているうちに、気付けば眠ってしまっていたのだ。ある意味桜司の冗談は真実で、寝る直前まで千鶴は彼の腕の中にいた。だがそのとき桜司は服を着ていたはずであって、裸で隣にいる理由にはならない。
「……あの、服、着てください」
「なんだ、千鶴。夫婦になるというのに裸如きで照れていてはこの先大変だぞ」
「そ……っ、そういう問題じゃないですっ!」
ぎゅうっと枕を握り締めて顔を押しつけながら叫んでいるものだから、声がこもっている。
枕では隠しきれていない耳が赤くなっているので怒っているのではないとわかるが、これ以上からかい続けるとまた怒られそうだ。全く以て怖くはないが、可愛いところで止めたほうが良いだろうと、千鶴の頭を撫でて布団から這い出て着物を羽織った。
「もう良いぞ」
「……ほんとですか?」
すっかり疑り深くなった千鶴の姿を、巣ごもりの雛のようだと思いながら笑う。帯を結びながら横目で小さな頭を見下ろして、未だ笑いを含んだ声で答えた。
「こんなことで嘘は吐かぬ。……というかお主、ひとを露出狂のように言うな。どうせ見せるなら風呂か寝るときに見せるわ」
「それもどうかと思いますけど……」
呆れたように言いながら顔を上げ、千鶴は一つ息を吐いた。枕に埋もれていたせいで顔が熱い。
着流しを羽織っただけとはいえ本当に着ていることに安堵しつつ、千鶴も布団を出て桜司の元へと寄っていった。千鶴が傍まで行くと、当然のように桜司の腕が伸びてきて千鶴を引き寄せる。腕の中に閉じ込められると春の香りが強くなるのを感じて、千鶴は彼の胸に頬を寄せたまま笑みを浮かべた。
「ふふ、先輩はわかりやすいですね」
「お主の前で隠すものなどないだろう」
「それはうれしいですけど……服は着てくださいね」
「わかったわかった。まったく、初心な嫁で困る」
千鶴が抱きしめられたまま見上げると悪戯そうな笑みを浮かべた顔が近付いてきて、そのまま唇が重なった。何度か啄むような口づけがされて、その度に愛おしさが増していく。
「……ん……桜司先輩、そろそろ支度しないと……」
「………………わかった」
だいぶ間を置いて、渋々といった様子で頷くと、名残惜しげに体を離した。
「今日で前期も最後か。お主が来てからというもの、時が経つのが早く感じるな」
「そうですね。わたしも、先輩たちと会ってからは早く感じます」
周りにも心にも変化がなかった頃には、感じなかったことだ。毎日が目まぐるしくて退屈を覚える暇もなく、気付けば夏休みまできていた。お盆の時期には鬼灯祭もある。恐らく夏休みになってからも、退屈しない日が続くのだろう。
千鶴が着替えを始めると桜司は後ろを向いた。見ないようにしつつも、部屋を出ない辺りに彼の寂しがり屋な質が窺える。
「先輩、着替え終わりました」
「では朝食にしよう。ついて来い」
「はい」
桜司の案内で社の中を進む。和風建築の建物内は時代を錯覚しそうになる作りをしていて、制服だと浮いて見えるほどだ。障子紙には桜の透かし模様が、襖には桜の絵が、欄間も桜の透かし彫りがあり、どこを見ても春で埋め尽くされている。
「ここだ」
扉を開けて中へ通されると、そこは寝所と同様に、御簾に囲まれた中に四畳分ほどの畳が置かれていて、その上にテーブルと椅子が並んでいた。いつの間に用意したのか、既に食事の用意が整っているようだ。
テーブルはチョコレート色をした木で出来ており、天板と脚の付け根には欄間と同じ桜の透かし彫りが施されている。見れば、椅子の背もたれにも同じ加工がされていた。
「先輩、こんなにいつ用意してたんですか?」
「うん? ああ、いや、これは小狐共が調えたものだ。ほれ、社の前にあっただろう。二匹の狛犬のような奴らが」
「えっ、あの石像もなんですか?」
初めて鬼灯神社を訪れた際に見た覚えがある。狛犬が立っている位置に、二匹の狐の像がお座りしていた。狐も阿吽の形をしていたので、狛犬と似たような役割だと思っていたが、まさかご神体だけでなく石像まで人型をとれるとまでは思わなかった。
「彼奴らはまだ未熟で人前ではあまり上手く化けられぬゆえ、支度をさせているあいだ時間稼ぎも兼ねて戯れて居たというわけだ。気が散ると狐に戻る癖がなければ紹介してやっても良かったのだがな」
「そうだったんですね……」
とはいえなにも裸で布団に潜り込まなくてもと内心で思ったが、言わずにいた。
「ほれ、座った座った」
「はい」
促されるまま桜司の正面に座り、並べられた食事を見る。テーブルには、炊きたての白米に、おあげと豆腐と長葱の味噌汁、鮎の塩焼きに胡瓜と茄子の香の物と、それから目玉焼きが並んでいる。
「……わたしが寝ぼけていったの、ついさっきだったと思うんですけど」
「うむ、最後に付け足させた」
「ああ……わたしの寝言のせいで小狐さんたちが……」
何だか申し訳ないことをしてしまったと思いつつ、目玉焼きは好物の一つなのでつい目が行ってしまう。千鶴のきらきらした目に気付いた桜司が、くつくつと笑った。
「冷めてしまう前に食え。最後の日に遅刻では締まりが悪いぞ」
「はい。いただきます」
向き合って手を合わせて、二人での朝食が始まる。
つやつやに炊き上がっている白米はそれだけで箸が進むほどに甘く、湯気が立ち上る味噌汁は出汁と味噌が油揚げに良く染みていて、思わず溜息が漏れる。塩焼きにされている鮎はどうやら天然物らしく、独特の香りがした。目玉焼きには醤油を数滴垂らし、ぷるんと揺れる白身に半熟の黄身を絡めてじっくり味わった。
「……この鮎、凄く美味しいですね」
「ああ、何でも昨晩釣ってきたらしい」
「えっ」
予想外の答えに目を丸くする千鶴に、桜司はにんまり笑って言った。
「未来の嫁には良いものを食わせたいとか言っていたな」
「っ……!」
既に桜司の元へ嫁入りすることが周知されていることに、顔が熱くなる。傍にいると言ったのは千鶴自身だが、改めて言葉にされると破壊力が違う。
可笑しそうに笑う桜司の目が愛おしいものを見る目で、それがわかってしまうせいでなにも言い返せなくなってしまい、千鶴は桜司から目を逸らして食事に集中した。
「ご馳走様でした」
米粒一つ残さず綺麗に完食し、手を合わせて息を吐く。食後のお茶も済ませ、千鶴は桜司と共に再び寝所へ戻った。
千鶴が鞄を手に玄関へ向かうと、着物姿のまま桜司があとに続いた。そして玄関扉を越えたのと同時に彼の体を小さなつむじ風が包み、一瞬で着物が制服へと替わった。
「先輩のそれ、便利ですね」
「まあな」
どこか得意げな桜司と手を繋ぎ、木々のあいだを抜けて拝殿があるほうへと向かう。この小道は、神域では桜並木だった場所だ。もしかしたら、この青々と茂った木も全て桜なのかも知れない。
前方に朱色の鳥居が見え、その手前には二匹の狐の石像がお行儀良く鎮座している。
「先輩、この子たちですか?」
「うむ。普段は社守としてこの石像の中に居る」
千鶴は阿吽の狐像を交互に見てから、笑顔を向けて言った。
「朝ごはん、ありがとう。凄く美味しかった」
行ってきますと手を振って、桜司と共に石段を降りていく。
その後ろ姿を、黒い毛並みの小狐が二匹、並んで見送っていた。




