花の雨
花は散るからこそ美しいという。
ならば散ることのないこの桜に抱く思いは何なのだろう。
永久の桜を、悠久の春を、愛おしいと思う気持ちは何なのだろう。
「―――先輩」
縋る腕に息が詰まる。
どれほど伝えても伝えきらないと、力強い腕が訴えてくる。
千鶴は広い背中に手を添えて、優しく宥めるように撫でた。
「先輩、苦しいです……」
僅かに力が和らぎ、一つ深呼吸をする。どれほど見事な花見の場でも感じなかった、濃厚な春の香りが胸に満ちた。
抱き竦められたままでどうにか桜司の顔を見れば、苦しそうな表情の奥に愛おしげな想いを感じ、胸が痛んだ。これほどまでに想われていたのかと、今更に実感する。何故自分なのかはわからない。魂の罪自体、ただの突然変異で偶然に過ぎないのだ。きっとそれがなければ自分はいまここにいないだろうし、彼と出会うこともなかっただろう。だからこそ、いまここにある縁を手放したくはなかった。
「わたしの魂は、七つを超えたときから、先輩のものだったんですよね」
「……ああ、そうだな」
「それなら、わたしにこうして同意を求めたり、人として接触したりせず、攫うことも出来たんじゃないですか?」
「お主は、そうされたかったか?」
首を振り、蜂蜜のような甘い金の瞳を覗き込む。
「……でもそれは、いまのわたしだからです。鬼灯町に来て、先輩や友達と出会って、嫌われたり避けられたりするだけじゃなくなった、いまのわたしだからで……以前ならなにも思わず、そういうものだと諦めて、先輩になにもかも捧げていたと思います」
日常に喜びなどなく、ただ死なずにいただけの頃を思う。鬼灯町に来るまでは、ただそうすべきだと与えられた日常動作を繰り返すだけだった。そこに心はなく、喜怒哀楽全てを無縁のものとして機械のように過ごしていた。
魂に干渉して感情を殺し、鬼灯町へ至るまで縛り付けていたなら、そのまま所有物にしてしまえば桜司も苦しまなくて済んだのではと思い訊ねたが、桜司の答えは違った。
「それでも、空っぽの魂を得たところで、我は……」
そうすることは出来たが、しなかった。死ぬまで見守り、そのあと魂だけを傍に置く選択をしなかったのと同様に。その理由があまりに彼らしいと感じ、千鶴は桜司の頬を両手で包んで微笑んだ。
「……本当に、先輩は寂しがり屋なんですね」
千鶴の言葉に不服そうに眉を寄せるが、事実であることは桜司自身が一番よく知っている。諦めたように目を伏せ、溜息を吐いた。
「お主も……ここへ至るまでの風景を見ただろう」
「はい。凄く綺麗な景色でした」
「……それだけか?」
「それは……いえ、とても、寂しいところだなって……」
この空間に飛ばされて、とても綺麗な場所だと思ったのも事実だ。だがそれ以上に、胸を締め付けるような、心の大切なところからなにかが欠け落ちてしまって冷たい風が吹き抜けるような、何とも言い表しがたい寂しさを感じたのも事実だった。
「神域は、主の有り様を映す鏡だ」
華やかで、鮮やかで、儚げで、そして寂しい。桜司の見た目と印象、そして本質が、目を逸らそうにも逸らせないほど全方位に表現されている世界。果てしなく続く常春が寂しく感じるのは、それしかないからだ。生命の誕生や新たな始まりを象徴する季節であるのに、その瞬間に留まっているからだ。
「そのものがもつ強さも弱さも、全て映し出してしまう。ゆえに我らは、神域に他者を招くことはしない。神隠しなどという言葉があるが、あれは殆ど妖どもによる悪戯で、神域に攫われたものは殆どないだろうな」
桜司の言葉を聞いて、千鶴は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。全てを見せることになっても、それ以上に想いを伝えることを選んだ彼の心を惜しみなく注がれて、想いが溢れそうになる。
「それなら……やっぱりわたしは、先輩の傍にいたいです」
金色の瞳が揺れ、千鶴の眼前に迫る。
「ずっと、独りでいるしかないと思っていたわたしを、もしかしたら死んでいたはずのわたしを救ってくれた先輩を、今度はわたしが……」
最後の言葉は、桜司の唇によって音にする前に飲み込まれてしまった。
千鶴からも広い背中に腕を回して引き寄せ、更に深くと仕草でねだる。桜司はそれに応え、熱く濡れた舌で千鶴の舌を絡め取り、貪るように喰らいついた。
「……ふ、ぁ……白狐、先ぱ……」
「千鶴」
短く名を唱えられ、千鶴は至近距離から動かない金の瞳を見つめた。視界が滲んで、揺れる水面の月を見ているような心地のまま、首を傾げる。
「桜司と呼べ。夫婦になるのに、いつまでも氏で呼ぶつもりか」
「え、っと……ぉ……桜司、……先輩……」
ただ名前を口にするだけなのに、心臓がどこかへ飛び出していきそうなくらい激しく鳴り響いて仕様がない。最後の抵抗にとつけた敬称に一度は不満そうにしたが、千鶴の努力を買ってくれたらしく、桜司は眉を下げて微笑した。
「……及第点、といったところか」
「慣れるまでは、赦してください……」
火照る顔を隠そうと俯いた千鶴の顎を容赦なく掬い上げ、にんまりと笑う。
「嫁入りを果たした暁には、嫌でも呼んでもらうぞ」
そのまま再び口づけをすると、桜司は唇が掠める至近距離で囁いた。最早逃げ道などどこにもないと観念した千鶴は、自分から不器用に唇を重ねて囁く。
「わたしは、魂もなにもかも桜司先輩のものですから……そのときになったらちゃんと呼びます。それまでは、大好きな頼れる先輩として傍にいてください」
そう言うと微かに息を飲む気配がして、千鶴は満足げに微笑んだ。ずっと翻弄される一方だった桜司に少しでも仕返しが出来たような気がして、自分の頬も十分赤いことを棚に上げて楽しげにくすくす笑った。
「お主……覚悟しておれよ。我は嫉妬深いぞ」
「知っています」
仕返しのように唸る声に、千鶴は小さく頷いた。
思い返せばここへ来る直前の出来事もそうだ。桐斗にじゃれつかれていたところへ、桜司が乱入したのがきっかけだった。
「わたしは心配してないですよ。先輩がモテることは知ってますし、それでもわたしを選んでくれたことも知ってますから」
どうしようもなく寂しがり屋で、独占欲が強くて嫉妬深い。周囲には常に異性の目があり、告白された回数は両手足の指を全て使っても足りないほどだというのに、それら全てを羽虫の如くに追い払っている。そして同様に、千鶴にも他人の気配が移ることを決して赦さないのだ。その言葉だけを聞くと、とんでもない人物のように思える。だが千鶴は、僅かも臆することはなかった。
「…………やはりお主、猫に感化されてはおらぬか?」
「ふふ、どうでしょうね」
灰色だった世界に色が差した。洪水のように愛おしさが溢れて止まない。その想いを相手も感じていると確信出来ることがしあわせで、千鶴は桜司の広い背中に腕を回してキツく抱きしめ、温かな胸に頬を寄せた。
「千鶴」
「はい」
顔を上げれば、黄金色の月が二つ頭上に浮かぶ。眼前に迫るのを、そっと目を閉じて受け入れると、乾いた魂が満たされていくのを感じた。
痛む心を表わすかのような血の味がした最初の口づけから数ヶ月。
互いの想いを交わした口づけは、むせ返るほどの春の香りがした。




