匂い桜
薄紅色の空気に、目が眩みそうになる。
どこまでも終わりない春に、気が遠くなる。
常春の世界とは永遠の寂寥なのだと、この風景が物語っていた。
「―――それならわたしは、ずっと先輩の傍にいます」
あまりにもすんなりと、その言葉が零れてきた。
「人間のわたしがどれだけ一緒にいられるかわからないですけど、それでも……先輩がわたしを、わたしの魂を望むのなら、わたしは先輩の傍にいます」
千鶴は寂寞を形にしたような白狐神を精一杯抱きしめながら、今一度想いを唱えた。
魂を束縛されていた事実に、心臓が締め付けられる思いだった。ここまでして求めてくれた相手を、どうして見捨てられようか。
もしかしたら、ここは「自分の魂を勝手に景品のようにやりとりしないでほしい」と怒るところなのかも知れない。或いは、あまりにも理不尽な境遇に絶望するところかも知れない。それでも千鶴は、この寂寥に満ちた春から逃れる気になれなかった。
『……怒らぬのだな。種明かしをしたいま、呪詛は最早無効であるというのに』
「それは……何となく感じてます。ずっとなにも感じなかったのが、いまは嘘みたいにたくさんの感情で溢れていて、処理が追いつかないんですけど……でも、怒りはないんですよね」
いまの千鶴にあるのは、溺れそうなほどの愛おしさ。桜司が何故、千鶴の魂を欲しているのかはわからないが、そうしてまで手元に置きたいというなら叶えたいと思う。
傍にいたいと思うようになって、ふと疑問が湧いた。
「あの……わたしが死んだら、どうやって先輩の傍にいればいいんでしょう? 確実に幽霊になれる方法とかあるんでしょうか……」
処理が追いつかないあまりに、自分でもなにを言っているのかと言ってしまってから思ったが、吐いた言葉は飲み込めない。
「ご、ごめんなさい……わたし、なに言って……」
『死ななければ良いだろう』
困らせてしまっただろうかと後悔する千鶴に、桜司は意外なほどあっさりと答えた。あまりにも当然のように言われて一瞬納得しかけるが、千鶴は抑々特殊な魂の持ち主であるというだけで、それ以外は普通の人間と変わりない。そのはずである。
「え、と……寿命がある以上、それは難しいのでは……?」
『寿命から外れれば良いのだ。つまり、神の嫁になるということだな』
「……っ!!?」
突然思いもしなかった言葉が飛び出してきて、千鶴は言葉を失った。
『我に嫁ぐのは嫌か?』
「いっ……嫌じゃないです、けど……」
言ってから、またしてもやってしまったと思うが、時既に遅し。覆水は盆に返らず、落花も枝に返らないし、破鏡は二度と照らさない。
最早婚姻への同意であることに気付いてから、千鶴の顔がじわりと熱を帯び始めた。
「あの……魂を手に入れるって、そういう意味だったんですか……?」
『いや、死したのちも傍に置くことは出来る。だが、それは単なる記憶の塊に過ぎぬ。こうして言葉を交わすことも、触れることも出来ず、ただそこにあるだけだ。本来は、人としての生を全うするまで見守り、その後、魂を得るはずだったのだ』
桜司の説明はほぼ千鶴が想像していた魂の入手に近かった。物語などでもよくある、死神などが魂を持っていくときもそのような描写がされるものだ。しかし彼は、本来のあり方を望まないという。
『永久の誓いを立て、魂結びの儀を行い、同一のものとなる。ヒトは主に婚姻の儀式を経て同じ姓を名乗ることになるが、それに対し、我らのようなものに嫁ぐということは同じ時を生きる存在となることに等しい』
途方もない言葉が次々飛び出してきて、千鶴は目眩を覚えた。神に嫁ぐなどと昔話の世界と真莉愛の話でしか聞いたことがなかったのに、何故か我が身に降り注いでいる。彼女のように特別な家系でも何でもないのにと、思考がぐるぐると巡る。
ふと。特別な家系でない者が神の嫁となった話を思い出し、千鶴は顔を上げた。
「じゃあ、あのとき聞いた民話の神様も、もしかして……」
桜司の話を聞いて、千鶴は以前課外授業で聞いた三ッ首嶽の民話を思い出していた。三ッ首様も人間の女性を嫁に迎えて、それと引き換えに村を守ったという物語だった。あのときはよくある昔話だと思って聞いていたが、物語として「よくある」のであればどこかにその原型となる出来事が存在していても可笑しくなかったのだ。ましてやいま千鶴は、神や妖といった類の存在を架空ではないと知っている上に、実際将来的に嫁ぐ予定の親友もいるのだから。
『まあ、そういうことだな。だが村の民は集落が存在する限り三ッ首嶽の蛇神を祀り、彼らの罪の証であるあの祠を護り続けたが、のちに移り住んできた人間が良くなかったゆえに、あのようなことになった。辺境のあまり文字に残す文化が根付いていなかったせいもあるがな』
「そうだったんですね……」
『三ッ首嶽の蛇神が交わした約束は娘の生まれ育った村を守ること。村無きいま、護るものは自らの領域のみであるゆえに、あの祠や住人は相手にもされておらぬよ』
カミサマポストのときといい、三ッ首嶽の民話の神といい、神様という存在は約束を僅かも違えず叶える存在なのだと千鶴は思った。カミサマポストは歪んでしまったため叶え方も歪んでいたが、願ったことは叶っている。三ッ首嶽の蛇神もそうだ。あの娘の村を救ってほしいという願いを、村が存在する限り叶え続けた。
「神様って、なんていうか、律儀ですね」
『そうさなあ。ヒトを試すことはあっても嘘は吐かぬな』
「先輩も、ずっと正直でしたしね」
『…………お主、少々あの猫に感化されてはおらぬか?』
じっとりと横目で睨まれ、千鶴は笑って誤魔化した。
「あ……そういえば、三ッ首様で思い出したんですけど」
話を逸らそうと話題を探して、ふと思いついたことを訊ねた。桜司も誤魔化されたと知りながら、嘆息して促す。
『なんだ? せっかくの機会だ、わからぬことは聞いておけ』
「先生と廃れ神の相性が良くないって……」
『ああ、そのことか』
先ほどまで三ッ首嶽でのことを思い返していたところ、更に桐斗の名を出したために思いついたのだろうと、桜司は納得して話し始める。
『簡単なことだ。廃れ神は親に殺され、忘れられた幼子の集合体。そして彼奴は蛇神である以上に母神でもあるのだ。格の違いはあれど、影響がないとは言い切れん』
「なるほど……そういうことだったんですね」
『……あのときは我も猫も余裕がなかったゆえ、お主はなにもわからぬままだったな』
ふわふわの毛並みに埋もれながら、部室での時間と然程変わりない時を過ごす。ただ話しているだけで満たされるこの気持ちを、少しでも返せていたらと思う。
千鶴は桜司の顎を猫にするように撫でながら、両腕を広げても足りないほどに大きな頭を引き寄せて抱きしめた。
「そうですね。なにも、わからなかったです。先輩があのときしたことの意味も、体に他の誰かの匂いがつくのを嫌がる理由も、なにも……なにもわからないです」
そう言ってから、千鶴は頬をすり寄せて更に強く抱きしめる。
「……少しは、期待してもいいんでしょうか」
溺れんばかりの毛並みに埋もれながら千鶴が言うと、暫しの沈黙ののち、桜司の姿が神獣のものから半化生の姿へと変わった。二本の腕で痛いくらい強く千鶴を抱きしめ、そして胸の奥から全てを吐き出すように深く長い息を吐いた。
「少しなどで、足るものか」
それは、千鶴の不安を拭うに十分過ぎる答えだった。




