花霞
ある人は、桜の木の根元には死体が埋まっていると言った。
亡骸を抱いて咲き続ける桜は、いったいなにを待っているのだろう。
失った誰かが戻ってくるときだろうか。それとも―――
視界いっぱいに広がる、満開の桜並木。茜色の空に薄紅の空気が合わさり、淡い春の香りがひと呼吸ごとに胸に満ちていく。
気付けば春色に囲まれていた千鶴は、不思議そうに辺りを見回した。
「ここは……?」
呟いてみても、誰かの反応があるわけでもなく。不安を宿した声は、無人の幻想的な空間に溶けて消えた。
「あれは……神社、かな……?」
よく見れば遠くに社があることに気付き、一先ずそこを目指して歩くことにした。
道の途中で背後を振り返って見るも、果てまで桜色に染まっていてなにがあるのかもわからない。目印になりそうなものは進行方向にある社のみで、それ以外はどこまでも淡紅色の花が占めている。
歩きながら、ここへ来る直前のことを思い返してみる。桜司の苦しげな視線と、名を呼んだときのひどく思い詰めたような表情と声が頭を過ぎった。彼が何故、あのような表情をしたのか、何故自分はここにいるのか。謎ばかりが千鶴を支配しているが、あの社に行けばその答えがあるような気がして、ひたすらに歩き続けた。
石段の先に、朱色の鳥居が見える。一段一段踏みしめて登り、鳥居の前まで来ると、千鶴は改めて周囲を見渡した。
「ここ、鬼灯神社に似てる……」
以前千鶴が鬼灯神社を訪れたときは夜中だった上に、緊急時でゆっくり周囲を眺める余裕がなかったためにうろ覚えだが、拝殿の作りや狐の阿吽像などがあのときの記憶と一致する。
ならば、ここにいるのはやはり『彼』なのだろうか。
「先輩……白狐先輩、いるんですか……?」
拝殿の前で声をかけるが、反応はない。ならばと本殿のほうへ回ると、微かになにかいるような気配がした。
「白狐先輩」
改めて声をかけてみる。中で身動ぎする音と気配がして、暫く。木が軋むか細い音を立てて扉が開かれた。
中に入ると、見上げるほど大きな白い狐がいた。幾重にも分かれた大きな尻尾に朱い化粧、金の瞳は千鶴にも覚えがある優しい色をしていて―――
「……先輩」
千鶴は迷わず、胸のやわらかな毛並みに飛び込んだ。
春の香りが全身を包む。優しく暖かいのに、胸を締め付けるような寂しさが広がる、桜が満開に咲き誇る季節の香りだ。
『千鶴』
胸の奥に、聞き慣れた声が染み渡った。やはり間違いではなかったのだと確信して、いっそう強く抱きしめる。
『千鶴、すまぬ……我は、お主をただ傍で見守っていられたら……それで良いと思っていたのに……』
苦しげな告白を受け、千鶴は毛並みに埋もれたままで首を振る。
ここに来てからというもの、千鶴は少しずつ課外授業の夜に見た、奇妙な夢の記憶を取り戻しつつあった。
魂に刻まれた罪。生きることが罰であり贖罪であるということ、七つまで生き抜けば魂は『春の神』のものになるという約束。それらの意味まではわからないが、あの夢の出来事が単なる妄想でも読んだ物語の影響でもなく、自身のことだと確信していた。
「……正直、まだわからないことがたくさんあるんですけど……でもあのとき、先輩が助けてくれたんですよね」
『………………ああ……そうだ』
「それなら……」
桜司にとっては残酷なことかも知れないが、それでも千鶴は、罪深いとされる自身を守ってくれた、この優しい純白の春から真実を聞きたかった。
「わたしのこと、聞かせてもらってもいいですか? 他の先輩たちもきっと知っていることだとは思うんですけど、わたしは白狐先輩の口から聞きたいです」
沈黙が流れる。悩んでいるのか、迷っているのか。暫く無音のまま時が流れ、やがて観念したようにそっと息を吐く気配がして、そして、大きな狐神は千鶴にすり寄った。
『……稀に、罪を背負った魂が生まれることがある。その魂は生きているだけで周囲に害を齎し、災いを喚ぶ』
桜司はまるで自分自身のことを告白しているような、苦しげな声で話し始めた。
『なにもせずとも周囲に人が集まる人間がいるだろう。学校などの集団で、常に中心となるような人間が』
「……はい。何度か、見たことがあります」
彼が指すそれと同じものかはわからないが、そう言われて千鶴が思い浮かべたのは、伊織や真莉愛だった。どちらかというと伊織が近いかも知れないと、彼の普段の様子を思い返しながら頷く。
『それも似たようなものだが、罪の魂は逆だ。その者の周囲から人を遠ざける。或いは償いのため、自ら傷つけられるために、悪意ばかりを引き寄せる』
そう聞くと、まるで害虫を集める類の道具のようだと思えてならない。道具と違って人間には意志があるのに、自らの意志ではどうにもならないのが恐ろしい。
『罪の魂は、贖罪のために生まれてくる。所謂前世の業を清算するために、前世で罪を贖わずに逃げた報いを受けるために。実際に千鶴が罪を犯したわけではなくとも、だ。因果は個を識別しない。巡る魂は生まれ変わろうとも同一とされる。言うなれば、親の借金を子が返すようなものだな』
「つまり、周りは犯罪者の子と一緒にいると自分にも悪いことが起きそうだから、って避けようとするようなものですか……?」
『簡単に言えば、そうだな』
千鶴はこれまでの人生を振り返り、桜司の言葉と照らし合わせた。
両親は放任主義といえばまだ聞こえは良いが、あまり千鶴に関わろうとしなかった。さすがに乳児の頃はそうも行かなかっただろうが、物心ついたときには既に共働きで、保育園でも毎日就業時間限界までいる子供だった。休日に家族で出かけた記憶もなく、友人が出来たこともないため一人部屋で本を読むか課題をこなす日々だった。
転校する度、新たな場所で新たな顔ぶれから嫌悪をぶつけられる。理由を聞かされたこともあれば、訳もなく無視されたこともある。会って数日のクラスメイトから「いるだけでムカつく」と言われたこともあった。
そしてそれを、ずっと、当然のことだと思って受け入れてきていたのだ。
『罪の魂は、前世だけでなくその前、更にその前から蓄積された深い業を持っている。ゆえに魂自体が霊力の塊となり、妖にとっての馳走となる。それゆえヒトは本能で罪の魂を遠ざける。身近な人ほど影響を受けやすいのでな』
「身近な人ほど……でも、三歳の頃に預けられてた高知の祖父母は優しかったですし、それに……」
話を聞きながら、優しい友人たちを思う。彼らは決して千鶴に悪意を向けなかった。神蛇に頼まれたから仕方なくそうしているなどという後ろ向きは理由ではなく、心から慕ってくれている。
『身を守る術を持っているか否かの差であろうな。祖父母然り、真莉愛然り。伊織は、あれは逆に全くそういったものの影響を受けない体質のようだ。人がお主を避けるのは自らに災難が降りかかることを恐れる所為だ。言葉だけでなく、物理的な拒絶が事故を招くこともある。早死にしやすいのは子供ほど直情的な拒絶に抵抗がない所為だな』
「……わたしが生きてるのは、たまたま運が良かったからですか? それとも……」
桜司は大きな尾を揺らして千鶴の頬を擽りながら、言葉を選ぶようにして答える。
『七つまでは、運が良かったのだと言えるだろうな。或いは、お主の持つ人形が守っていたのだろう。その祖父母は神主の家系だったのではないか? お主の持つ罪は、親に殺されても可笑しくない類のものだ』
そう言われて、記憶を辿ってみる。千代と遊んだ神社は祖父母の家の近所にあった。幼少の頃だったため難しい話はわからなかったが、祖父母が哀しそうにしていたことははっきりと覚えている。そして取り壊しが決定したのと同時に人形を渡されたのだ。
「千代ちゃん…………じゃあ、七つを迎えたあとは……?」
『……ずっと、呼んでいた。ここまで来るよう、お主の魂に語りかけ続けていた』
桜司は千鶴に頬を寄せ、愛おしげに包み込む。
『お主の与り知らぬところで交わされた約束ではあるが、お主の魂は我のものだ。自ら死を選ぶことなく生きて来た理由も、お主が理不尽な境遇を当然の如く受け入れてきた理由も、同じ……お主の魂に干渉し、我が許まで来るよう呪詛をかけていたがゆえ』
春の香りが、膨張するように濃さを増す。息が詰まるほどの花の香りにみたされて、溺れそうになる。
「わたしがずっと、なにも感じなかったのは……」
『……我が、お主の魂を閉じ込めていた所為だ』
純白に埋もれたまま、千鶴はその場に崩れるようにして膝をついた。
ずっと、哀しくも寂しくもなかった。誰に嫌われようともなにも感じなかった。人に疎まれることを当然だと思っていた。それら全てが、桜司の干渉によるものだったとは思いもしなかったが、言われてみれば納得出来た。
何ともないはずがないのだ。悪意や敵意をぶつけられて、表面上はへいきなつもりでいてもどこかで傷つくのが人間というもの。ましてや精神未熟な十代の子供が、平然と敵意に晒されて生きていられるわけがなかったのだ。
「わたし……ずっと、先輩に助けられていたんですね」
つい先ほどもそうだ。親に殺されても仕方がないなどと、衝撃的なことを言われても「自分にこんな特徴があったのでは当然か」としか思わなかった。本来ならもっと深く傷ついて、悲しみに暮れるような事実だというのに。
『全ては、お主の魂を手に入れるため……傍に置くためにしたことだ』
桜司の告白を聞きながら、千鶴は胸いっぱいに春の香りを吸い込んだ。




