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鬼灯町の百鬼夜行◆祭  作者: 宵宮祀花
【陸ノ幕】おじいさんの時計
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断じて行えば鬼神も之を避く

 病院の屋上で、千鶴は菖蒲を抱いたまま、呆然と座り込んでいた。ほんの数十分前に朝食を終えたばかりだというのに、空は黄昏色に染まっている。そして歪な姿となった影は夕暮れを背にして一層暗く、黒い靄に包まれていた。


「もうっ! いつ呼んでくれるんだろうってずっとそわそわしてたんだからね!」

「ご、ごめんなさい……なにがどうなってるのか、わたしもわかってなくて……」

「僕、自分の領域じゃないところだと勝手に干渉しづらいんだよー! もー!」


 領域に縫い止めながら、桐斗が悔しそうな声を上げる。

 ところでと、伊月は千鶴が抱いている菖蒲に視線を落とした。


「座敷童、あれの名は」

『よ、宵菊じゃ……龍神殿……』


 緊張した面持ちで答える菖蒲に目を細めて頷くと、伊月は宵菊に向き直った。


「現世に作られた御魂……宵菊」


 相変わらず、伊月の冷徹なまでに凍り付いた表情は、この惨状を前にしてなお僅かも動かない。

 そこへ、病院内部に通じる扉が開き、柳雨も合流した。うちわを持っていないほうの手には、いつの間に買ったのか自動販売機のジュースがある。修験者の格好をして翼が生えていなければだが、彼だけはただの見舞客のように見える。


「軽く爺さんの様子見てきたけど、峠は越えたみたいだぜ」


 柳雨の言葉を聞き、千鶴と菖蒲が安堵の息を漏らす。あとは、その身を挺して家族の危機を伝えようとした心優しい大時計を救うだけだ。

 ここまできて、桜司の姿が見えないことに若干の不安を覚えながらも、千鶴は菖蒲をしっかりと腕の中に守って宵菊の動きに注視した。


「先輩、あのひとは、いったい……?」

「器物神、所謂付喪神ってヤツだな。大事に使われた物に魂が宿るなんて話くらいならおチビちゃんも聞いたことがあんだろ?」

「はい。……おじいさんが時計を宝物にしていたから、だから……」


 千鶴の腕の中で、菖蒲が哀しげに俯く。


『うちも菊にぃも、どうにかしてじじいに伝えたかったがじゃ……けんど、うちの声が届く人間はおらんし、このままほうっておいたら死んでしまうって、菊にぃが……』


 壊れたものは棄てられる。それがたとえ宝物のような時計だったとしても、可能性は零ではない。その可能性を思っても、自分を大事にしてくれた人を救いたかった。だが思いは届かず、宝物の時計は、ただの壊れた物になった。見向きもされないガラクタとなった。助けたかった人も命の危機に瀕してしまった。彼がいなくなれば本格的に誰の目にもとめられなくなる。捨てられてしまう。


 嘆きは思いを歪め、歪んだ思いは体をも歪めた。


「一番大事にしてた時計を核に、爺さんの思い出の品が混ざり合った存在か……下手に分解するより、一つにまとめて浄化したほうが良さそうだな。少なくとも、こないだのヤツよりは救いようがあるか」


 最早ヒトの形よりも歪な蜘蛛に近い姿となった付喪神、宵菊を見て柳雨が呟く。鋭い先端を病院の屋上に突き刺したまま、宵菊は嘆きを夜空に響かせた。

 今回は桐斗のほうが妖として格上だからか、それともカミサマポストのようなひどい暴れ方をしていないからか、桐斗もいつもより余裕がある表情で、成り行きを見守っている。


「黒檀の煙管、鬼灯の簪、菊の紋が入った金の懐中時計、金魚の根付、無銘霞切、菊に盃の帯と花札柄の帯留……そして、待宵草の描かれた大時計」


 伊月が、宵菊を構成するものを一つ一つ呼んでいく。名が呼ばれる度に歪んだ体から軋む音がして、膨れ上がった部品が剥がれてはバラバラと地に落ちていく。そうして、やがて余計なものが削ぎ落とされると、伊月が唱えたものを身につけた背の高い男性の姿が露わになった。一つに結い上げられた黒髪は背を覆うほどに長く、暗い金色の瞳は彼の名にある待宵草の花弁のようでも望月のようでもあり。死人めいた白い肌に走った微かなひび割れは、額から頬へ、右目を縦断するようにして刻まれている。壊れかけた白磁の人形めいた肌からは黒い靄が染み出し、涙のように零れては地に黒い痕を残していた。


「宵菊さん……」


 腕の中で菖蒲の啜り泣く声を聞きながら、千鶴は崩れ落ちて転がってきた歯車を拾い上げた。他にもいくつかの細かい部品がカラカラと転がっては桐斗の爪先や千鶴の膝にぶつかって、落葉のように降り積もっている。拾った部品は手の中で繊細な砂糖菓子のように崩れ、光の粒子となってさらさらと指の隙間から零れ落ちた。


「宵菊。―――お前の声、確と届けよう」


 伊月は最後にそう囁くと、袖口から一枚の札を取り出し、宵菊へ向けて放った。札はひとひらの紙とは思えないほど鋭く真っ直ぐに飛び、胸元に張り付いた。瞬間、宵菊の体を光が包み、見る間に体の歪な箇所や黒く淀んだ影が剥がれ落ちては消えていく。


『あ……ぁ……菖蒲…………すまな……い……』

「あっぶね!」


 意識を失い倒れ込んだ宵菊を、柳雨が支えた。その衝撃で左手に持っていたカップの中身が僅かに零れたが、幸いにして二人とも着物を汚すことはなかった。


「良かった、終わったぁ……」


 桐斗が肩の力を抜いたのを見て、千鶴もそっと息を吐いた。


「先輩、宵菊さんは、もう大丈夫なんですか……?」


 しゃくり上げ、頬を涙の痕で真っ赤に染めた顔で見上げる菖蒲を撫でながら、千鶴が問う。


「あー……一先ずは、だな」

「それなんだよね。結局おじいさんが体を顧みなかったせいでその人が体張っちゃったわけだし。同じことがないとは、ちょっと言えないかな」

「それじゃあ……おじいさんを説得して、たまには検査のためでも病院にも通うようにしてもらわないと……」


 呟きつつ思案する千鶴の前に、スッと影が差した。何事かと見上げると、いつになく険しい表情で見下ろす伊月がいた。


「先輩……?」

「お前、怪我をしたのか」


 低く唸るように言われ、千鶴は自分の左肩を見た。そこには変異しかけていたときの宵菊が暴れた際、錐のように鋭い脚で貫かれた痕があった。貫通こそ免れたものの浅い傷ではない。思い出したら急にズキズキと痛み出した。


「え、あ……そうだった」

「自分の怪我を忘れる奴があるかよ、ったく」

「うっわ、ひどい……早く手当てしないと」


 桐斗が千鶴の前にしゃがんで傷口を覗き込む。切り傷なら縫うことも出来るが、細い穴のような刺し傷はそうもいかない。一先ず止血して、塞がるのを待つしかないか、と千鶴がポケットからハンカチを取り出すと、菖蒲がその手を握った。


『千鶴、うちにまかせちょき。これ、貸いてもろうてもえいかえ?』

「ハンカチ? うん、いいよ」


 自分の代わりに押さえてくれるのだろうかと思い、千鶴は菖蒲にハンカチを渡した。すると菖蒲はハンカチを広げて傷口にあてがい、両手で押さえながら真剣な顔になり、


『いたいのいたいの、そこの菊にぃにとんでけー!!』


 と叫んで、ハンカチを宵菊のほうへ向けて翻した。直後、宵菊が小さく呻いて眉根を寄せた。柳雨の腕の中で微かに身動ぎしたかと思うと、じわりと着物の肩が赤くなる。


「菖蒲ちゃん!?」

『かまんかまん、菊にぃもそうせぇち言うはずじゃ。それより千鶴、けがはどうじゃ? 痛むとこはないかえ?』


 そう聞かれて、傷があったところを見下ろしてみる。赤黒い穴が開いていたはずが、何事もなかったように塞がっていた。手で触れてみても、全く痛みも違和感もない。


「大丈夫みたい、ありがとう」

『うちらのせいでけがさせてしもうたんやき、これくらい当然じゃ』


 申し訳なさそうに眉を下げて言いながら、菖蒲は丁寧に畳んだハンカチを返した。

 いつの間にか黄昏色だった空は真昼の空に戻っていて、そして、全てが終わっても、桜司は遂に現れなかった。

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