水晶玉の如くに
「千鶴、おはようございます」
「おはよう真莉愛ちゃん」
朝のHR前の予鈴ギリギリで千鶴が教室に入ると、真莉愛が笑顔で声をかけてきた。真莉愛に挨拶を返しながら席に着き、鞄を開く。その何でもない一連の所作を見つめる視線を感じ、顔を上げた。
「真莉愛ちゃん、どうしたの?」
「……いえ、何でもないです。それより千鶴、眠れていますか?」
「え……?」
心臓が跳ねた。真っ直ぐに注がれる青い眼差しに、なにか見透かされたような心地がした。けれどそんな千鶴の様子とは裏腹に、真莉愛は心配そうに優しく言う。
「千鶴、この街に来たばかりでしょう? 環境が変わると、眠れなかったり疲れたり、そういうことあると聞きました」
「あ……うん、大丈夫。お引っ越しには慣れてるから」
千鶴が答えると、真莉愛も安堵したように「それなら良かったです」と笑った。
けれど、千鶴は気付いていた。一瞬、真莉愛が千鶴の首元を見て目を瞠ったことに。それを隠すように笑顔を作って、目を見ることで痣から視線を逸らしたことに。
ただ、そこに悪意がないことも知っている。出会ってまだ二日だが、それでも彼女が優しい少女であることは十分過ぎるほどに知っている。だから千鶴も彼女の優しい嘘に乗ったのだ。
「千鶴、ここに来る前にもお引っ越ししたことがあるのですか?」
「うん、まあね。転勤が多いからあんまり同じところに長くいたことがなくて。ここが初めてのお家だし、初めての定住になるんだ」
「そうだったのですか……ではまりあは、ずっと千鶴と一緒にいられるのですね」
「そうだね、もうよそに行くことはないと思うから」
千鶴の答えに、真莉愛がうれしそうに微笑む。
そこへ、HRの鐘が鳴り、同時に「席に着きなさい」という声が教室に入ってきた。だがその声の主は神蛇ではなかった。教室内で囁く声は、教壇に立つ人物を学年主任と言っている。ざわつく室内を宥め、学年主任の教師は口を開いた。
「神蛇先生だが、インフルエンザの疑いがあるため暫くお休みとなった。代理の先生は俺や副担任が持ち回りで担当することになるから、皆も体調に気をつけるように」
連絡事項を端的に告げると学年主任は退室していった。授業が始まるまでの数分で、教室内は担任の話題と、他愛ない雑談、それから昨晩のサイレンの話題で満たされた。
真莉愛が振り返り、声を潜めて千鶴を呼ぶ。
「千鶴、気が早いお話ですけれど、今日は一緒に帰ってもいいですか?」
「うん、いいけど……真莉愛ちゃん、お家の方向近いの?」
「千鶴と途中まで一緒なのです。その……昨晩、事故があったところを一人で通るの、少し怖くて……」
「……そういえば、あの交差点って駅前だし学校からわりと近くだっけ……」
こくりと頷き、真莉愛は改めて千鶴にお願いをした。
「亡くなった方のお家が、少しまりあのお家に近いのです。昨晩は遅くまでサイレンの音がしていました。実は、眠れていないのは、まりあのほうなのです」
「そっか……そういうことなら、一緒に帰ろう。わたしも一人は怖いし」
「ありがとう、千鶴」
真莉愛と同様、千鶴も内心で安堵していた。昨夜の出来事が夢ではなかったのだと、改めて理解してしまった以上は、あの道を一人で通る勇気はない。
授業開始の鐘の音と共に教師が室内へ呼びかけながら入室してきたことで前を向いてしまったために、真莉愛の思案深げな表情とどこか決意を帯びた眼差しに千鶴は気付くことが出来なかった。