縁を繋ぐ魂
深い深い、森の中。細い道をひとり歩く。枯葉や草を踏む音がいやに響いて聞こえ、そのうち鼓動までもが辺りに響きそうだと過ぎった頃。
突然、視界が開けた。
「ここが……中心……?」
夏の夜空と、白い月が湖面に輝いている。
見上げれば丸く木々が開けていて、そこから空が見えた。丁度満月が真上に輝いて、無数の星が粉砂糖のように鏤められていた。湖は夜空と同じ色で、冴え冴えと月の光を反射してそこにあった。
「千鶴」
正面から声が聞こえ、湖面に落としていた視線を上げた。湖を挟んだ向こう側、声の主が静かに佇んでいた。
「青龍先輩。わたし、どうして……」
「それに、力を込め直す」
それ、と言ったときに伊月が視線をやったのは、千鶴の首にかかっている緋色の石がついたペンダントだ。これ自体はショッピングモールの雑貨屋で買ったもので、特別な力があるものではない。だが千鶴に送った際、伊月が力を込めたことで護りの石として相応の力を帯び、そのお陰で先ほども命拾いをしたのだ。
「あのとき、依り代にしたせいで、全て使い果たした。隠された場所に接続するには、そうするしかなかった」
「さっきの……先輩は、初めて見る姿でしたね」
「……人の器は、ああいう場では枷にしかならない」
言葉少なに答えると、伊月は千鶴に向けて真っ直ぐ手を伸ばした。
「真っ直ぐ来い」
「えっ、でも……」
「心配ない」
千鶴の立っている場所から一歩でも前に出ようものなら、湖に落ちてしまう。しかし伊月は、いつもの無表情のままで手を伸ばしている。
足元と伊月とを交互に見てから、千鶴は意を決して足を踏み出した。
「……あれ……? 落ちない……」
足元を見るが、千鶴の足が接している箇所から波紋が広がっているため、硝子張りというわけではなさそうだ。また一歩踏み出しながら、今度は足元を中止してみる。足を触れた瞬間静かに波紋が広がるが、足が水に沈むことなくしっかりと立っている。
「こちらへ」
「はい……」
誘われるまま、真っ直ぐに近付いていく。湖面からあと一歩で出るというところで、手首を掴まれ思い切り引き寄せられた。
「わ……!」
力の向くまま倒れ込み、伊月の懐に飛び込んでしまった。桜司よりも背が高いため、千鶴の顔の位置が伊月の心臓付近にくる。体温が低い伊月の、着物越しの鼓動を聞いているうち、千鶴は知らず識らず鼓動が早まっていくのを感じた。
「あ、あの……」
「……あれが、留めておこうとするのもわかる。特異点の魂は、傍にあるだけで霊力が高まる……」
「そうなんですか……?」
「ああ」
思わぬところで、謎が多い特異点というものの、疑問が一欠片判明した。
依然懐に確保されたまま顔を見上げると、涼しげな眼差しとぶつかった。
「お前の、霊力の塊である魂を手に入れるため、数多の怪異が手を伸ばす……ゆえに、俺たちが集められた。お前は、護られなければならない」
「……はい」
見上げる千鶴の顔に、影が差す。端正な顔が近付いてきて、そのまま唇を塞がれた。一度目は意識がないときの応急処置。二度目のいまは、お守りに力を注ぐための行為。深い意味はないというのに、心臓がうるさいほど騒いで仕方がなかった。
唇が離れると、意識がとけるようにして遠ざかっていく。眠りに落ちるときのような感覚に身を委ね、千鶴は伊月の腕の中で目を閉じた。
千鶴が次に目覚めたとき、そこは見慣れない天井だった。
否、一度だけ見たことがあるが、その一度だけだ。豪奢な装飾に、やわらかな感触。優しいジャスミンの香りと、温かい手のひら。
「……真莉愛、ちゃん……?」
視線を巡らせれば、隣で真莉愛も目を閉じて眠っているようだった。そして、千鶴の手を真莉愛の手が離すまいとしっかり握っている。
なぜ隣に真莉愛がいるのか。なぜ真莉愛の部屋で寝ているのか。あのあといったい、なにがどうなったのか。目覚める直前に見た光景や、闇夜の森の中での出来事は、結局夢だったのか。疑問は尽きない。
「千鶴姉さん」
混乱しつつ声のしたほうを見ると、英玲奈がトレーに水の入ったグラスを二つ持って部屋に入ってきたところだった。
「お帰りなさい。事の顛末は柳雨から聞いています」
そう言いながら、千鶴にグラスを一つ差し出す。千鶴は体を起こすと真莉愛が握っていないほうの手で受け取り、一口含んだ。
「姉さんは、緊急事態だったとはいえ、何の準備もなく魂を彼岸の淵に飛ばした影響で眠っています。まあ、寝れば回復しますので問題ないですよ」
「そ、っか……真莉愛ちゃん……心配かけただけじゃなく、迷惑までかけちゃった……起きたら謝らなきゃ」
「姉さんなら、それよりお礼のほうが喜びますよ」
俯いて呟く千鶴にそう声をかけながら、英玲奈は真莉愛の髪を撫でる。慈しむようなその手つきと眼差しは、どちらが姉なのかわからなくなる優しさだ。
英玲奈の言葉はその通りで、真莉愛ならきっと謝罪されるよりお礼を言われるほうが喜ぶだろう。千鶴は人形のような寝顔の真莉愛を見つめると、表情を和ませた。
「それで、その……わたしはどうして真莉愛ちゃんの部屋にいるのかな……あの世界に呼ばれる直前は、部室にいたと思うんだけど……」
「それなんですけど、白狐神様と龍神様が、姉さんと千鶴姉さんをここに運んできたんです」
「えっ」
この街で白狐神といえば、桜司が思い浮かぶ。
英玲奈がこんなことで嘘を言うはずもなく、かといって、ずっと避けられている彼がよりにもよってその発端となった場所に預けるというのも信じられなくて、千鶴は暫く固まってしまった。
「……あの方は、なにか迷われているようでした。だいたい想像はつくんですけど……心のどこかで、理解と納得のすりあわせをしているんだと思います」
「そう……わたしだけ、わかってないのかな……」
目を伏せて呟く千鶴の頭に、ぽんと小さな手が乗せられた。見れば表情こそいつもと変わらないものの心配そうな目をした英玲奈が、千鶴の頭をぎこちなく撫でていた。
「英玲奈ちゃん……?」
「大丈夫です。白狐神様はどんなときでも千鶴姉さんを思っています。現にこの場所へ連れてきてくださったことが、あの方の心の整理がつきつつある証左なんですから」
「そうなの……かな……?」
「はい。少し、わたしたちの話をしましょうか」
英玲奈はベッドサイドに椅子を持ってくると深く腰掛け、小さな脚を揺らしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「白狐神様のように、守護領域を持つ神族は、異なる領域の気配……匂いを嫌う傾向にあるんです。動物が縄張りを主張するために匂いをつけるように、彼らもそれぞれ己の気配を領域に満たして守護範囲を主張します」
そこまで言って、英玲奈は手の中にうちわサイズの紅葉を出現させると、一つ扇いで見せた。ふわりと風が舞い、秋の涼しげな気配が辺りに満ちる。
「これがわたしの匂い……わたしの風の気配です。とはいえわたしは余所者ですので、この街で領域の主張をすることはあり得ないんですけどね」
そう言って手の中に小さな旋風を起こし、紅葉のうちわを消した。
「以前、姉さんが攫われたときに柳雨が飛んできたでしょう?」
「うん」
「鬼灯町にあるはずのない気配が破裂したので、侵略者ではないかと思ったというのもあると思いますよ。すぐにわたしだとわかったみたいですが」
そう話す英玲奈の表情は、どこか昔を懐かしむようで。彼女の小学生女児という器を通して、魂の姿を垣間見たような気がした。
「白狐神様は、ずっと千鶴姉さんを傍に置いていたでしょう?」
「う、うん……言われて見れば……」
強制的に膝に乗せられ、抱えられ、ぬいぐるみのように確保されていたことを千鶴は改めて思い出す。最近は避けられてばかりなので、何だか遠い日の出来事に感じた。
「所有したいと思うものを側に置くことも、領域の主張と同じです。特に白狐神様は、匂いに敏感な方のようですから……」
「それって神様とかじゃなく、他の人の匂いでもだめなのかな……? それだと学校にいるの大変そうだけど……」
「いえ、姉さんの匂いってつまり、異国の神の匂いですから。伊織さんに関しては特に反応されなかったでしょう?」
「あっ」
言われてみればそうだ。彼が反応したのは神蛇と真莉愛で、伊織に関しては触れてもいなかった。産まれたときから神の花嫁と決まっていたという話を思い出し、真莉愛を見る。
「千鶴姉さんはこのジャスミンの香りのせいだと思っていたみたいですけど、正確には姉さんを通して移った、姉さんの旦那様の匂いだったわけです。あと、わたしの匂いも若干あったかも知れませんね」
「そうだったんだ……」
何となく、千鶴にも彼の苦悩の一端が見えてきたような気がした。やはり彼は優しいひとだ。そうでないなら、とっくに千鶴を閉じ込めるか、あるいは苦悩するまでもなくこう言えばいいのだ。
―――自分以外のものに、外なる神に、真莉愛に近付くな。
それをせずに、己の性質と心の有り様を天秤にかけて悩んでいる。
真莉愛が千鶴にとって大切な存在であると知っているから。そして真莉愛も、彼らと同じくらい千鶴を大切に思っているから。その心を汲んで、苦しんでいる。
今回千鶴をこの場へ連れてきたのも、真莉愛が命がけで魂を繋いだことへの彼なりの礼なのだろう。千鶴が、あの世の入口に魂を無理矢理飛ばした親友を案じるであろうと思って。
「千鶴姉さん、今日はゆっくり休んでいってください。着替えは姉さんのものを適当に用意しますので」
「え、い……いいのかな……真莉愛ちゃん、まだ寝てるけど……」
「姉さんは明日まで目覚めないのでいいですよ」
「そうなの?」
「はい」
促されるまま浴室へ向かい、自由に使っていいという言葉に甘えて真莉愛の着替えを借り、部屋に戻った。前回も思ったが、部屋と浴室を往復するだけでも迷いそうだ。
「では、お休みなさい」
「お休み、英玲奈ちゃん。色々ありがとう」
「いえ、お役に立てたならなによりです」
退室していく英玲奈を見送ると、千鶴は真莉愛の隣に潜り込んだ。すると眠っているはずの真莉愛が寝返りを打って千鶴に抱きつき、緩んだ表情ですり寄ってきた。
「……ありがとう、真莉愛ちゃん」
親友の抱き枕になりながら、千鶴は温かな気持ちで夜を過ごした。




