誤解と融解
部室の扉を前にして、千鶴は五分ものあいだ難しい顔をして迷っていた。
昨日、柳雨はああ言っていたけれど、顔を会わせづらいのは千鶴も同じことだった。
「でも……いるとは限らないし……」
小さく声に出して自分に言い聞かせると、一つ深呼吸をして扉を開けた。
「っ……!!」
ガタン、と椅子を強く引く音がして、金色の瞳と視線がぶつかった。大きく見開いた桜司の目は千鶴を真っ直ぐに捕えていて、そして、千鶴も同じ表情で彼を見つめたまま固まっていた。
他の部員の姿は見当たらない。偶然か、誰かが示し合わせたのかは定かではないが、この空間に桜司と二人きりになってしまったようだ。
「……千……鶴…………」
ふっと視線が逸らされる。
また逃げられてしまうかと思ったが、彼は逃げなかった。まさか本当に桐斗に部室を切り離してもらっているわけではないだろうと思いつつ、一先ず桜司と話が出来るかもしれないことに安堵する。
「先輩、わたし……」
千鶴が一歩足を踏み出そうとしたとき、桜司が椅子を鳴らして後退った。
「……ごめんなさい。嫌なら近付かないので、せめて、ここにいてもらえますか」
「違う……」
泣きそうになりながらもどうにか笑顔を作って言う千鶴に、桜司は首を振って小さく呻いた。
「お主が、悪いのではない……我が、我が全て…………」
片手で顔を覆いながら思い詰めた表情で全て自分がいけないのだと呟き続ける桜司の様子を見、千鶴はふとなにかに気付いた様子で口を開いた。
「あの……もしかしてわたし、真莉愛ちゃんの匂いがしますか?」
桜司はビクリと体を強ばらせ、そしてゆっくり頷いた。
やはり、神蛇の腕の中で眠ってしまったときと同じだった。特に今回は真莉愛と同じもので体を洗い、彼女の部屋着を借りて、彼女のベッドで共に眠ったのだ。神蛇のときなどとは比べものにならないくらい、真莉愛の匂いに染まっていることだろう。現に、自分の家の石鹸を使って体を洗って自分のベッドで眠ったはずなのに、朝起きたときにまだ微かにジャスミンが香ったのを覚えている。
「それなら……先輩さえ嫌じゃなければですけど、先輩の匂いで上書きしませんか」
「な……!!?」
驚き、言葉を失い、じわりと耳まで赤く染まっていく。
その変化を千鶴が珍しいものを見たと思いながら眺めていると、暫く逡巡したのち、意を決した表情になって千鶴の元まで歩み寄ってきた。
「……本当に、いいのか」
「それで先輩が落ち着くなら。わたしは、先輩に避けられ続けるほうがつらいです……それが友達と過ごしたことが原因だというなら、尚更……」
「…………わかった」
そっと、千鶴の体が桜司の腕の中に閉じ込められる。
しかしいつもと違う匂いがどうしても気になるのか、千鶴の肩に頭を擦りつけたかと思うと、やんわりとではあるが首筋に噛みついた。
腕の中で千鶴の体が跳ねたのを感じながらも、桜司は匂いの上書きをやめなかった。
「千鶴……千鶴、すまぬ……我は、お主を…………」
縋るような、祈るような力強さで抱きしめる桜司の背を、千鶴は優しく撫でた。広い背中が小さく丸まって千鶴にしがみつく様は、とても痛々しい。
「大丈夫です。いまはなにも考えなくていいですから」
「……違う、違う。我は、こんな……つもりでは……」
まるで懺悔のように、桜司は同じ言葉を繰り返す。
その一聴するに意味のないように思える言葉の羅列から、千鶴は確信していた。
(先輩は、わたしのことでなにか知ってるんだろうな……知ってて、誰にも相談せずにいて、そして……ひとりで抱えてるんだ……)
特異点という言葉の意味も、なぜ自分なのかという理由もわからない。きっと、いま訊ねても教えてもらえないだろう。けれど―――だからこそ、そこに桜司が抱えている苦悩の理由があるのだと思った。
どれほど時間が経っただろうか。
深く息を吐くと、桜司はそっと体を離して千鶴から目を逸らした。
「……すまぬ……落ち着くまで、暫く、独りにしてくれるか」
「……それじゃ、わたしは帰りますね。また……」
返事はない。扉を開けて廊下に出ると、外は橙色に染まっていた。
運動部の威勢の良い声が遠くに聞こえて、日常が何だかとても余所余所しく感じて、千鶴は俯き加減で校舎を出た。
茜色に塗り潰された街はどこかもの悲しく、一日の終わりを告げる鐘の音が反響して消えて行く。
「うん……?」
夕食と日用品の買い物のために立ち寄った商店街で、千鶴はとある幟に目を止めた。そこには「鬼灯町百周年」と書かれており、百という数字に因んだセールや催しなどが開催されていることを告げるものだった。
「へえ、この街が出来て丁度百年なんだ……」
もっと歴史が古いものだとばかり思っていたが、意外と最近出来たらしい。
「お嬢ちゃん、この街の子じゃなさそうだね。鬼灯町の辺りはずっと村でね、開発だの何だのと騒ぎはあったがどれも上手く行かなくて、こうして町になるのにも随分騒いだらしいって話だよ」
一人呟く千鶴に惣菜屋の女性店主が近寄ってきて、愛想良く声をかけてきた。
「龍神村と白狐村、それから二つの村にくっついてた小さい犬神村ってのが合わさって鬼灯町になったのさ」
「……そうなんですね。わたし、六月に引っ越してきたばかりなので詳しくなくて」
「あはは、どうりであたしですら知らないわけだよ。ところでどうだい、コロッケでも食べていかないかい? 揚げたてだよ」
道に面したショーケースには綺麗なきつね色に揚がったコロッケやメンチカツなどが並べられていて、どれも美味しそうだ。
「じゃあ……お夕飯も決めてなかったし、一つ頂きます」
「あいよ、まいどあり!」
店主はショーケースを開けずに後ろを振り返ると、フライヤーから本当に揚げたてのコロッケを二つ取り出してきて、千鶴に渡した。
「百円、丁度だね」
「えっ」
「今後ともご贔屓にってことで、可愛いご新規さんにおまけだよ」
愛想よく笑う店主の勢いに圧され、千鶴は百円玉を一つ取り出して渡した。
「ありがとうございます」
千鶴がコロッケを受け取ると、店主は「熱いから気をつけるんだよ」と言って千鶴を見送った。コロッケは食べ歩き出来るように一つずつ紙袋で包装されていて、更に店のロゴが入った小さなビニル袋に入れられている。
「美味しそう……」
せっかくの揚げたてだからと、紙袋から取り出して軽く吹き冷ましてから一口囓る。サクッと小気味よい音が耳を擽り、ほくほくのじゃがいもと挽肉の味が口に広がった。高校からだと帰り道とは逆方向になるためあまり放課後に利用したことはなかったが、これから遠回りでも構わずに帰りのルートに入れてしまいそうだ。
「……うん、美味しい」
白い湯気が黄昏色の空気に溶けて、千鶴の心も少しだけ温まるのを感じた。




