色彩を忘れた街
真莉愛の家で夢のような時間を過ごした翌日。
千鶴は自宅で一人、千代の着せ替えをして遊んでいた。
「真莉愛ちゃんの居場所、教えてくれてありがとう」
お礼の代わりに買ってきた人形用の飾りを並べて、一つ一つ合わせていく。
「おばあちゃんにもらったお洋服もちゃんと残ってて良かった。わたしじゃ着物なんて縫えないもん……」
向日葵が描かれた布で出来た黄色い着物に緑色の帯を合わせ、髪飾も向日葵に変えて窓際に座らせた。背景が夏の青空でないことだけが残念だが、それでも夏らしい着物に替えただけでも気分が変わる。
今日の天気は朝から曇天で、風景もどこか灰色に沈んでいるように見える。その分、暑さが和らげば良かったのだが、直射日光がない代わりに湿度が増して、どちらにせよじっとりとした暑さは変わらない。
「千代ちゃんにもお部屋作ってあげたいな……この部屋も、先輩に言われて思ったけどほんとになにもないし……」
転校当初から何一つ変わっていない殺風景な部屋を見回して、ぽつりと呟く。
持ち物や衣類が最低限なのも、部屋に飾り気がないのも、小さい頃からそうだった。クラスメイトが魔法少女アニメのグッズなどを見せ合っている中、千鶴は父親の会社で配られているロゴ入りのペンケースやボールペンを使っていた。中学に上がってからも周りが可愛らしい雑貨や服の雑誌を見ているのに、千鶴は古くなった文房具をそのまま使い続けていた。
千鶴自身年相応に可愛いものへの憧れもありはしたが、なぜか自分のためにと思うと罪悪感に襲われて手が出せなかったのだ。いまもそれは変わらず、自分なんかが綺麗な洋服やアクセサリーを身につけたところでと思ってしまう。
「真莉愛ちゃんの私服、可愛かったな……」
終わりのない罪悪感から逃れようと、親友の姿を思い浮かべる。
華やかなケーキのような極薄い桃色のワンピースに、真っ白なタイツ、ワンピースと揃いの髪飾に、薔薇のコサージュが乗ったピンクの靴を合わせていた。ふわりと広がるスカートも、胸元で控えめに輝くペンダントも、全てが彼女のために存在していた。
思わず無言で抱きしめながら「可愛い……」と呟いた千鶴に、真莉愛はうれしそうにはにかんで、そして千鶴にとっては信じられない一言を口にしたのだった。
『まりあのこと可愛いと言ってくれたの、家族の他には千鶴が初めてです』
更に真莉愛は、恐ろしいことに自分の容姿を全く自覚していなかったのだ。人の目が集まるのも、道で声をかけられるのも、挙げ句には告白めいた言葉をかけられるのも、妹と違ってあからさまに外国人顔だから珍しがられているだけだと思っていた。
脱力する千鶴を通りすがりに目撃した英玲奈が「姉さんは色々鈍いですから」と愛のこもった容赦ない評価を投げかけたのにも、真莉愛は怒るどころか「えれなはまりあと違ってしっかりさんなのですよ」と逆にうれしそうな顔で彼女を褒めていた。
「わたし、ちょっと真莉愛ちゃんのこと好きすぎてだめかもしれない……あのおうちも凄かったけど、凄いおうちとお部屋に負けてない真莉愛ちゃんも凄かった……」
ベッドに倒れ込み、天井をぼんやりと見上げる。
彼女はいつか、神様の花嫁になる。お伽噺のような話であまりにも現実味がなくて、以前の自分なら本気になどしなかっただろうと思う。けれどいまは、千鶴自身も神様や妖、それらが歪んで堕ちてしまった荒魂などの存在を知っている。
「わたしは、どうしたいんだろう……ね、千代ちゃん」
窓辺に座る千代は答えない。
こんなとき、頭に思い浮かぶのはいつだって『彼』の姿だ。
「先輩……」
千代以外誰も聞いていないというのに、名前を呼ぶ勇気が出ない。胸の内にあるのはただ一人なのに、音にしたら戻れなくなりそうで怖かった。
目を閉じて寝返りを打ち、今一度同じ言葉を呟く。
「呼んだか」
と、頭上から声が聞こえた気がして、千鶴は金縛りに遭ったかのように固まった。
「黒烏先輩!??」
「おう、元気だなあ」
ガバッと跳ね起きた千鶴を、上体を反らして避けながらけらけらと笑う。
「狐のじゃなくて残念だったな」
「っ!? そ、そんなこと……じゃなくて、どうしてうちにいるんですか?」
いまにも発火しそうなほど顔を赤く染めている千鶴を可笑しそうに暫く眺めてから、柳雨は今更取り繕って咳払いをした。
「いやあ、ほら。おチビちゃんこないだ狐のに押し倒されたろ」
「押し……ええと、まあ……似たようなことにはなりましたけど……」
なにが言いたいのかと顔に書かれている千鶴を見下ろしていたかと思うと、その場に膝をついて目の高さを合わせる。わかりやすく困惑している千鶴を見つめて、にんまり笑って頭を撫でた。
「人前で、しかも女の子に対してすることじゃねえだろって言ったらアイツ、言われて初めて自分のしたこと自覚したらしくてさ。……おチビちゃんは大丈夫か?」
「わたしは別に……何とも思ってないとは、言いませんけど……少なくとも、怒ってはいないです。それに……」
間近で真っ直ぐ注がれる視線から逃れるように目を逸らしながら、言葉を探す。
「……わたし以上に、先輩が傷ついてる気がして……」
千鶴がそう言うと、柳雨は盛大な溜息を吐いた。
呆れられたと思った千鶴の肩がビクッと小さく跳ねる。が、柳雨はそんな千鶴の頭を撫でて「アイツも馬鹿だな」と呟いた。
「ま、おチビちゃんが気にしてねえならそれをアイツに伝えてやってくれ。あの阿呆、思い切りがいいんだか悪いんだかわからんヤツだからさ。いまでもおチビちゃんのこと傷つけちまったと思ってんだわ」
「……はい。でも……先輩は、会ってくれるでしょうか」
「だーいじょうぶだって!」
不安げに問う千鶴に柳雨はからりと笑って言い、千鶴の髪をくしゃくしゃに撫でた。先ほどから遠慮も容赦もなく撫でられるため、千鶴の頭が鳥の巣のようになっている。
「おチビちゃんが部室に来たらオレ様が放り込んでやるよ。何なら子猫ちゃんに頼んで縄張り作って逃げられないようにしとくから」
「それは……どちらかというと赤猫先輩が可哀想では……」
「ははっ、それもそうだ」
屈託なくいつもの調子で笑う柳雨の姿に、千鶴は肩の力が抜けるのを感じた。表情の強ばりが僅かにとけ、安堵の息が漏れる。
「さて、オレ様はそろそろ帰りますかね」
「あ……」
立ち上がった柳雨を目で追い、千鶴の口から思わずと言った様子で声が漏れた。
「うん?……なんだおチビちゃん、寂しいのか?」
そんな千鶴を、一瞬目を丸くして見つめたかと思うと、にんまり笑って言う。千鶴は恥ずかしさのあまり顔を赤くしながらも、素直に頷いた。
「ありゃ、どした?」
「えっと……昨日、真莉愛ちゃんのおうちに泊まって凄く楽しかったから……当たり前なんですけど、今日から独りなんだなって思ったら、ちょっと……」
「あー、なるほどなあ」
納得して頷く柳雨に、千鶴は苦笑して首を振る。
「でも、独りでいるのには慣れているので、先輩が帰って暫くしたら元通りになるとは思います。……すみません、引き留めてしまって」
「ま、明日には会えるんだ。そう泣きそうな顔すんなって」
「はい」
柳雨は最後にもう一度千鶴の頭をくしゃりと撫でてから部屋の窓を開け、窓枠に足をかけながら振り向き、笑って言った。
「おチビちゃんが寂しそうにしてると、その子も寂しくなるだろ?」
その言葉を最後に窓から飛び立っていった柳雨を、ぽかんとした顔で見送ってから、千鶴はもう一つの窓に座らせている千代を見た。
「……そっか。わたし、もう独りじゃないんだった。ありがとう、千代ちゃん」
その日の夜、千鶴は夢を見た。
幼い頃、祖父の家の近くにある神社で、赤い着物を着た女の子と遊んだ夢を。
誰も呼ばないから名前がないというその子に、千代という名を与えたことを。
夕陽が二人を染める中、その子は別れ際、千鶴にこう言った。
『きょうから、ちづるといっしょにいてあげる。ちづるがさみしくないように、ちよがおねえちゃんになってあげる』
次の日の朝、祖父から渡された人形に千代と名付けた千鶴だったが、不思議なことに前日千代と遊んだ記憶がすっかり消えていたのだ。
千鶴は知らない。
千代と遊んだ神社が、あのあと開発により取り壊されたことを。
幼さゆえに、名付けの重さも知らずに名を与え、消えるはずだった小さな神を救っていたことを。
『いつか―――の―――になるまで、ちよがまもってあげるね』
黄昏時の黒い影が、記憶の裏側に千代と交わした約束を隠していることを。




