名無しの魂と無明の魄
話に聞いていた、一番大きな家はすぐに見つかった。伊織の家とはまた違った洋風の立派な屋敷で、門から見渡す敷地は学校に並ぶくらい広い。
「英玲奈ちゃん!」
門まで来ると、英玲奈が待っていた。
英玲奈は千鶴の姿を見るや駆け寄ってきて、不安を映した瞳で見上げる。
「千鶴姉さん、地図は」
「これなんだけど……どこだかわかる?」
自転車を家の前に泊めて、英玲奈に地図を見せる。
小さな体で、身長と同じくらいの大きさのクレヨンを何とか駆使して描いた地図は、お世辞にも見やすいとはいえない。それでも英玲奈は少ない手がかりからどうにかして目的の場所を割り出そうと、記憶と地図を照らし合わせた。
「……この小さい道、書き損じではなく袋小路だとしたら、あの建物かも知れません」
「心当たりがあるの?」
「はい。ここからすぐのところにある、資料館です」
そう言うなり走り出した英玲奈を、千鶴も追いかけた。
「千鶴姉さん……危険かも知れないですよ」
「英玲奈ちゃん一人を行かせるわけにはいかないし、わたしだって真莉愛ちゃんのこと心配だもん」
英玲奈に続く形で、夕暮れの街を走る。無事を祈りながら、地図と記憶を頼りにしてひたすらに走る。やがて見えてきた一つの建物を指し、英玲奈が「あれです」と言って速度を上げて駆け寄った。
地図が示していた場所は、開発途中で放棄されたような建物だった。駐車場と思しき場所や通路のあちこちに建材が放置され、植え込みや芝生は伸び放題。落葉や何者かが休憩に使用したような痕跡などがそのまま残されている。置きっ放しの建材はすっかり風雨に晒され、使い物にならなくなってしまっていた。
「ここは、鬼灯町の歴史を纏める資料館になるはずだった場所です。ですが北部にある文化会館で十分だという声があがったのと、付近に住む人たちの反対でこのような形で放棄されたそうです」
エントランスに向かいながら、英玲奈が千鶴にこの建物の現状を説明した。駐車場の白線が消えかかっていることから、放置されてだいぶ久しいことが見て取れる。
「それじゃあ、ここにはもうなにもないの……?」
「いえ……運び出すに至らなかった調度品や、然程高価でないものはここに残っているようです。歴史的価値があるものは一つも残っていないはずですが……」
「取り残されて、忘れられているものもあるってこと……だよね」
「……はい」
以前、カミサマポストの事件があったときに、桜司たちから聞いた話が頭を過ぎる。見向きもされずに忘れ去られたものたちは癒されない寂しさから歪み、澱みをその身に溜め込み、正しい在り方を忘れた果てに、現世の者に影響を及ぼすようになるという。現世へ出てくるだけに留まらず、あちら側に引きずり込もうとしてくることもある。
何故今回に限って千鶴ではなく真莉愛が選ばれたのかはわからない。だが、影たちがこちらへ手を伸ばしてくるのには、必ず理由があるのだ。
「鍵はかかっていないみたいですね」
「硝子扉が割られてるから、誰かが割って開けたのがそのままなんだ……ほんとに誰も管理してないんだね」
入口から既に廃墟じみた建物に、二人揃って足を踏み入れる。靴音に紛れて、割れた硝子を踏みしめる音が辺りに響く他は、何の音もしない。どうやら人が来ないのをいいことにエントランス周辺をたまり場にしていた者がいるらしく、菓子袋や酒の空き缶、煙草の吸い殻などがところどころに散らばっているのが見える。
それらを後目に、まず一階の休憩室や資料室、各種展示室等を見て回るが、人がいる気配はなかった。
「次は二階ですね」
「うん……」
逸る気持ちを抑えつつ慎重に階段を登る。と、頭上から微かに金属が軋む音がして、思わず足を止めた。
「え……?」
見上げると、シャンデリアが風もないのに不自然なほど大きく揺れ、千鶴をめがけて落ちてきた。
「千鶴姉さん!!」
破裂するような英玲奈の叫び声と、硝子が砕ける音、そして、階段が崩れ落ちる音が同時に館内に響き渡った。視界を塞ぐ埃と背中を強かに打った衝撃で、なにが起きたか理解出来ないまま千鶴は激しく咳き込んだ。
「……い、痛……っ、……いま、なにが……?」
衝撃でくらくらする頭を押さえ、息を整えながら、反射的に閉じていた目を開ける。ふと、仰向けに倒れている体の上になにかが乗っていることに気付いて手を伸ばした。
「え……英玲奈、ちゃん……」
千鶴に覆い被さる格好で、英玲奈が倒れていた。しかも彼女の細く小さな足は瓦礫の下敷きとなってしまっている。
「英玲奈ちゃん! 英玲奈ちゃん、しっかりして!!」
肩に触れ、必死に呼びかけると英玲奈は僅かに眉を寄せてから目を開けた。そして、自身の体が動かないことに気付き、溜息を吐く。
「……千鶴姉さん、怪我はないですか? 咄嗟に突き飛ばしてしまったので頭を打っていないでしょうか……」
「そ、んなの……っ、わたしなんかより英玲奈ちゃんが……!!」
悲鳴のような、泣きそうな声で千鶴が叫ぶ。英玲奈は視線だけで千鶴を見上げると、どこからか一枚の紅葉の葉を取り出した。
「少し、下がっていてもらえますか」
「え……なにを……?」
「大丈夫ですから、お願いします」
いつもとなにも変わらない、あの力強い眼差しに気圧されて、千鶴は英玲奈から数歩離れて見守った。千鶴が離れたのを確かめてから、英玲奈は紅葉の葉を持った手を軽く一振りする。瞬間、その葉がうちわほどの大きさになり、周囲に風が起こった。
「わ……!」
千鶴は思わず目を瞑り、顔を覆う。
暫くして風が止んだのを感じ、恐る恐る目を開けた。
「え、と……英玲奈ちゃん、いま、なにをしたの……?」
「…………」
すると、瓦礫に押し潰されていたはずの英玲奈が、何事もなかったかのように立っていた。手には大きな一枚の紅葉。伏せた目は逡巡を映していて、千鶴は英玲奈の前まで近付くと、その小さな体を抱きしめた。
「ごめん……言いづらいことなら聞かないでおくね。それより怪我はしてない?」
「千鶴姉さん……」
体を離して頭を撫でると、英玲奈は小さく「すみません」と呟いてから顔を上げた。
「わたしは大丈夫です。これほど大きな妨害があったということは、姉さんはこの先で間違いなさそうですね」
「うん……」
そうは言っても、階段は崩れてしまった。電気は通っていないため、エレベーターを使うことも出来ない。それに、万一使えたとして、そちらでもいまのような妨害が来るだろうことは明白である。
「手段は選んでいられない、ですね……」
瓦礫の山と化した階段や周囲を眺めていた英玲奈が、ぽつりと呟いた。
そして千鶴に向き直ると、大きな瞳で真っ直ぐに見上げながら口を開く。
「ここで見たことは、姉さんや他の人に口外しないでください」
「え、う……うん……??」
千鶴が困惑しながらも真摯な様子に頷くと、英玲奈は紅葉を一振りした。
先ほどと同様風が巻き起こり、細かい砂や埃が舞い上がる。何事かと混乱する千鶴の体がふわりと浮いたかと思うと、英玲奈と千鶴は二階の廊下に立っていた。
「―――まだ、こんなにも“わたし”が残っていたんですね」
そして、自嘲する英玲奈の背には柳雨のものと似た黒い翼が生えていた。




