触らぬ神も気分で祟る
結局あのまま一限を寝過ごして、二限目に駆け込んだ千鶴は、昼休みになるまで影が見えなくなっていることに気付かなかった。気付いた頃には視界がすっきりしていて、授業にも集中できそうなことに安堵する。
「……真莉愛ちゃん、どうしたの?」
昼食を取っている最中、真莉愛がどことなく落ち着かない様子でいることに気付き、千鶴はそっと声をかけた。食欲もないのか、先ほどから食べかけのパンが少しも減っていない。
「い……いえ、教室ではあまり……」
朝の生徒がまばらな時間帯ならともかく、昼休みはすぐ隣の席にも生徒が机を寄せて昼食を取っている。真莉愛のその言葉で察した千鶴は頷いて「わかった」とだけ言い、それ以上は聞かなかった。
真莉愛の目には、朝に小さな影が張り付いていた生徒の全身が影に埋もれて、大きな黒い靄の塊になっているように見えていた。そしてそれが、子供向けの人形の姿をしていることも見えていて、件の生徒に良い感情を持っていないこともわかっていた。だがそれを本人に伝えることは、遂に出来なかった。自分が注目されたがりの霊感少女だと揶揄されるだけならまだマシで、存在を知らされたと理解した『それ』が、自棄になり強硬手段に出ることもあるのだ。
幼い頃は、友達を助けたい一心で伝えようと努力したこともあった。しかし、それが事態を好転させたことは一度としてなかった。
『影なんていないじゃない! 注目されたいからってうそつかないでよ!』
『あなた、アジアに帰ったらどう? 神秘の国ならあなたみたいな可哀想な子も相手にしてもらえるんじゃない?』
影が見えると伝えた子が、次々事故死したり再起不能な怪我を負ったりしたことで、真莉愛は更に孤立した。日本への移住を決めた頃には、最早周囲に誰もいなかった。
『真莉愛といると不幸になる』
『影が見えると言われた人は、真莉愛に死神を移される』
それが、もう一つの故郷での真莉愛の最終評価だった。
「千鶴……」
予鈴が鳴る五分前。
結局半分も食べられなかったパンを袋にしまい直して、真莉愛は千鶴の手を取った。
「まりあとお友達でいてくれて、ありがとうです」
「え……うん、えっと……??」
突然改まったことを言われた千鶴が、混乱した様子で頷く。
日本で出来た、大切な親友。真莉愛といるときに何度も事故や事件を目撃したのに、一度も「あなたといたせいで」と言わなかった優しいひと。
予鈴の音を聞きながら、真莉愛はもう一度心の中で、ありがとうと呟いた。
「―――ねえ、真莉愛ちゃん」
放課後、ひと気のなくなった教室で荷物を纏めながら、千鶴は真莉愛に声をかけた。
「どうしました?」
「わたしは、なにがあっても真莉愛ちゃんの友達だよ」
「え……」
鞄を背負い、机を迂回して真莉愛の正面まで来ると、やわらかく頼りない体をそっと抱きしめた。千鶴も人のことは言えないが、真莉愛の場合は容姿の儚さも相俟ってより繊細そうに見えるし、実際に想像するよりずっと繊細なのだと思う。
「今日、ちょっとだけ見えるようになって思ったんだ。真莉愛ちゃん、前に見えること人には言わないようにしてるって言ってたでしょ? あんな世界で、一人で生きて来て怖かっただろうなって……」
「千鶴……」
真莉愛の手が、遠慮がちに千鶴の背中に回される。
「……千鶴は、優しいですね」
「それは、真莉愛ちゃんが優しいからだよ。わたしの初めての友達が真莉愛ちゃんで、良かったって思う」
「あうぅ……千鶴、泣かさないでください……」
「あはは、ごめん。でも、撤回はしないからね」
そっと体を離すと、真莉愛は本当に目尻に涙を浮かべていた。
もしも天使が地上に降りてきたなら、きっとこんな姿をしていて、そしてこんな心根なのだろうと千鶴は常々思っている。時折、これほど非の打ち所のない彼女が、自分と友人であることに罪悪感にも似た気持ちを抱くことがあるが、それこそ彼女に失礼だと意識の遙か彼方に追いやって、代わりに眠れぬ夜に羊を数える感覚で、真莉愛の好きなところを挙げられるだけ挙げる遊びに興じるのだ。
千鶴がそんなことをしているなど知る由もない真莉愛は、うれしそうにはにかんで、鞄を肩にかけた。
「千鶴は、今日も先輩たちのところですか?」
「うん、何だか用があるみたいで」
「わかりました。まりあもえれなと帰りますので、また明日です」
「また明日ね」
昇降口付近まで並んで歩きつつ向かうと、手を振って別れた。真莉愛は外へ、千鶴は文化部部室棟へ。
夕陽が街を茜色に染めていく。
黄昏時の名の通り、行き会う人の影が増す。
増した影は街を塗り潰し、そして、人をも隠して飲み込んだ。




