救済の神技
ふと、気付く。
先ほどの桜司は、少年「は」救えないというような口ぶりだった。
「……あの……先輩、先生は、神蛇先生は、助けられるんですか……?」
縋るような気持ちで、千鶴は桜司に訊ねた。
この少年を救う術は、千鶴にはわからない。いまから家に行って直接説得するなど、この投稿の様子からして無意味どころか火に油だろう。勿論ネット上での説得も、彼の耳に届くことはなさそうだ。強がりなのか本気で何とも思っていないのかまでは電子の文面だけではわからないが、少なくとも目に見える形での反省は窺えないのだから。
桜司は千鶴の頭に手を置くと、くしゃりと撫でて笑みを見せた。
「我の役目はお主の保護。そしてあの場にいたのは?」
「えっと、三人の先輩、ですよね……? 赤猫先輩と、黒烏先輩と、青龍先輩」
「然様。あやつらには神蛇の救済を頼んである。祠の浄化と、当人の浄化をな」
「そう、ですか……良かった……」
優しいひとが理不尽に傷つけられ、望まぬ形に堕ちてしまうことは避けられるのだとわかり、一先ずではあるが安堵した。
「先輩、それじゃあ他の先輩たちも、白狐先輩みたいな……えっと……」
「ん? ああ、そうだなあ」
千鶴の何と言ったものかといった様子の曖昧な疑問に、桜司は鷹揚に頷く。
「殆ど名の通りだな。赤猫は鬼灯町の猫を統べる妖猫、つまり猫の妖で黒烏は烏天狗。青龍なんぞはそのままだ」
「そうだったんですね……だから青龍先輩は、すぐわたしの痣に気付いて……」
「何の説明もなく拉致軟禁したとは思わなんだがな」
「あれは、驚きました……」
本当に、何事かと思った一件だった。朝の登校時間だったため部活棟周辺は人通りが殆どなく、喧騒が徐々に遠ざかっていく感覚に不安を覚えたものだ。
「千鶴はどうもぼんやりしている節があるゆえ、猫のヤツが気にかけるのも頷ける」
「え、わたし、そんなにですか……?」
「うむ」
力強く頷かれ、千鶴は複雑な気持ちになった。
「わたしも特別しっかりしてるとは思わないけど、でも真莉愛ちゃんのほうがふわふわしてると思うんだけどな……可愛いからそう見えるだけかな……」
「その真莉愛だがな」
千鶴の独り言に、桜司が反応した。
顔を上げた千鶴の目に、にんまりと笑む桜司の物言いたげな顔が映る。
「千鶴が直視せぬよう、直前で声をかけたのだぞ。それに彼奴が手を引かなければ直視どころか車が掠めていただろうよ」
「え……」
ほれ見たことかと言わんばかりの彼の顔も、いまは全く気にならなかった。それより真莉愛がその時点から助けてくれていたことに気付かなかった自分が、情けなかった。しかも彼女は、千鶴を守った代わりにあの現場を直視している。
「気付かなかった……真莉愛ちゃん、最初から助けてくれてたんですね……」
「で、我の評価になにか異論はあるか?」
「……ないです……」
明日会ったらちゃんと謝って、それからお礼も言わないと。
落ち込みながらそんなことを思っている千鶴の頭上に、大きな手が置かれた。
「先輩……?」
「まあ、なんだ。とにかくそれ食って今日は寝ることだ」
先輩が指したのは、ここに入ってから置かれていた握り飯だ。いつ誰が用意したのかわからないが、せっかくの好意。事件が続いて疲弊してはいるものの、真莉愛のお陰で直視は免れたため食欲が失せているわけではない千鶴は、ありがたく頂くことにした。
「じゃあ、遠慮なく……頂きます」
「うむ」
両手に収まる大きさの三角形の握り飯は二つあり、片方は海苔が巻かれ、もう片方は高菜が巻かれている。海苔のほうを一口囓ると鮮やかな焼き鮭が覗いた。海苔と米には塩気がなく、米の甘さと海苔の風味が鮭の甘辛い味を引き立てている。高菜のほうには明太子が入っていた。咀嚼する度にぷちぷちと弾ける感触がして、高菜のシャキシャキした歯ごたえとあわせて、味だけでなく食感も楽しめた。
「ご馳走様でした」
最後に水を飲み、手を合わせてそっと息を吐く。
こんなときでもお腹は空くし、ご飯は美味しい。そんな自分の現金さにちょっとだけ呆れつつ、それでも供されたものはどちらもとても美味しかった。そしてお腹が満ちたことで少しだけ気持ちも落ち着いたような気がした。
「千鶴は随分と幸せそうな顔をして食うな」
「え、そうですか……?」
桜司にしみじみと頷かれ、千鶴は恥ずかしさのあまり、水入りグラスで冷えた両手で頬を包み、熱い顔を冷やそうとした。
湯を借り、夜着を借り、なにもかも世話になって床につく。転校してきたときは妖や神様の先輩が出来るなど思いもしなかった。――するはずもないことだが――しかし、いまこうして神社に身を寄せ、依然半化けのような姿の桜司を前にしてみると、意外とこういうこともあるものなのかと納得してしまうのだった。
「ほれ、夜更かしは体に悪いぞ」
「はい、でも、先輩は……?」
「我と添い寝を希望するなら吝かではないが、千鶴と床を並べたと知れたら猫になにをされるやら、だ。千鶴は気にせず寝ると良い」
答えにはなっていなかったが、気にして起きているわけにもいかない。きっと理由があるのだろうと自らに言い聞かせ、千鶴は布団に潜り込んだ。緊張して寝付けないかと思われたが、やわらかな布団に潜り込んだ瞬間全身から疲労が溶け出る心地に包まれ、いつの間にか眠りの国へと旅立っていた。
「…………さて、と」
夜着用の着物を着て眠る千鶴の、どこか疲れの滲んだ寝顔を見下ろしながら、桜司は額にかかる前髪を梳くようにして千鶴の頭を撫でた。
「……彼奴らは上手くやっているだろうか」
雪見の窓に目をやれば外はすっかり夜の帳が下りている。明日にも満月になりそうな月が、静かに街を見下ろしているのが見えた。




