第8話 養和二年(1182年1~5月) 浮気御所
「義時、おぬしの妹は本当に良くやってくれている。わしには過ぎた嫁だ」
「貴子の懐妊は実にめでたい。男が生まれればなお良しだ」
鎌倉・北条屋敷に畠山重忠が嫁・貴子懐妊の報告にきた。北条家と畠山家が姻戚を結んでからは、重忠と江間義時は自然、会うことも多くなり、次第に遠慮のいらぬ仲となっていた。重忠の後ろには本田貞親と阿太郎が控えている。
「ときに御所には軍を起こされる予定は無いのか」
「勢力が均衡している今こそ、政治を学ぶ良い時期だと考えておられるようだ。大江広元殿をはじめ、京から逃げ落ちてきた公卿と毎日、話し込んでおられる」
「うーむ、ではしばらくは弓の腕でも磨いておくか」
残念そうな顔で重忠は腕をさすっている。
「心を落ち着けるために、鼓や笛をやってみてはどうだ。これから御所に供をして神事に出ることも増えるだろうからな。ところで、先にお願いしていたことだが……」
義時はちらりと阿太郎と貞親を見て言った。
「二人には話している。阿太郎は客将ではあるが、異論は無いそうだ」
「おお、では貞親と阿太郎を」
「預ける。好きに使ってくれ。ただし、戦が始まるまでだ」
「わかっている。私の郎党として大事に扱う。御所の警護の任を果たすには貞親の武勇が必要だ。それに御所の周りには気の回るものが少ない。正直、私と梶原景時殿ぐらいだ。阿太郎がいると助かる」
「義時、御所には折をみて……」
「ああ、わかっている。悪いようにはせぬ」
こうして臨時ではあるが、阿太郎と貞親は義時の郎党になった。
「で、これか! 悪いようになっとるわ!」
貞親は地面の石を蹴飛ばした。
「なるほど武勇の者と、気の回る者が必要だろうよ!」
「こら貞親、そんなに大きな声を出すと御所にまで聞こえる」
「ふん、さすがに気の回る男だ。物分かりがよいのう」
「チッ、嫌味を言うな、貞親。俺だってこのような役目は好きではない」
鎌倉から離れた逗子にある屋敷の前。御所の護衛役の阿太郎と貞親には知らされてはいなかったが、何度も訪れるうちに、ここが妾の亀の前がいる屋敷だと気づいた。
「御所の護衛は武士の誉れと思ってこそ、この任を受けたのだ。何が悲しゅうて浮気の守護などせねばならんのだ。だいたい、妾に会うのに、なぜ由比ガ浜で祈願するとか、御家人の見舞いに行くなど、嘘をつく必要があるか? 堂々と会いに行けばよいではないか!」
「義時殿の姉上の御台所様は嫉妬深い方だときく。義時殿も間に挟まって困っていたのだろう。それに妾はここだけではないかもしれんぞ。御所はなかなかのやり手らしいからな」
「はぁ~、早く西で何か起こるよう祈るしかないな」
うんざりした顔で貞親がぼやく。
「真面目にやれ貞親。浮気御所でも、その身に何かがあれば坂東は終わる」
「自分の嫁にも気づかれぬよう注意しているのに、平家が気づくわけがない。ほら、周りを見てもあんな者しかおらぬ」
親恒は林の中にいる禿姿の童女を指さした。
「あれが刺客ならば、源氏もすいぶん舐められたもの――おい阿太郎!」
阿太郎は林に向けて駆け出した。童女は林の中に入っていく。
「おい、阿太郎! 屋敷から離れるな! 御所の身に何かあったらまずいと言っておったのはおぬしではないか! 戻ってこい、阿太郎!」
一人残された貞親は阿太郎が消えていった方向を唖然とした表情でしばらく見つめていた。そして、近くの木に渾身の蹴りを放った。
「すまなかった……」
御所と鎌倉に帰った後、謝罪する阿太郎に対して、貞親は酒を飲みながら散々、罵った。
「さっきから、そればかりではないか。こんな酒で許されると思うな、阿太郎。訳を言え」
何を考え込んでいるのか。阿太郎が上の空で謝っているのが、貞親には気に入らない。
「――似ていたのだ。妹と」
「ほう、おぬしには妹がおったのか。それがなぜ逗子に?」
「わからぬ。生きているかどうかも。昔、妹は俺と共に河原で倒れた。しかし“阿”の字を書かれた後、息を吹き返した俺の隣に妹はいなかった。重能殿に助けられてから、俺は妹を探すために京中を歩き回ったが、見つけることはできなかった――」
「他人の空似ということもあるだろう」
「うむ。今日は迷惑をかけた。もうこのようなことはせぬ」
浮かない顔の阿太郎を見て、貞親は罵ったことを少し後悔した。杯を持って言う。
「ふん! 次も遠慮せず追いかけるといい。ただし、もっといい酒を買ってこいよ」
「――ありがとう、貞親」
夜が明けるまで、貞親と阿太郎は御所の悪口を肴に酒を酌み交わした。
数日後、牧の方と兄・牧宗親は赤禿から報告を受けていた。赤禿を下がらせた後、心配そうに宗親は話す。
「赤禿を御所相手に使ったのか? 時政殿に怒られるぞ」
「兄上は周りを気にしすぎです」
「貧乏公卿は、政争に巻き込まれないことが生きる道なのだ。京では、ぼうっとしていると知らぬ間に密謀の席に座らされる。父上もたった一日、歌会に参加しただけで平家に反逆した大罪人にさせられた。処刑後に父上は密会の偽装工作のために呼ばれただけとわかったが、そんなことが密偵を使っている平家が知らぬはずはない。父上は陥れられたのだ! お前も覚えているだろう」
「よく覚えています。だからこそ兄上は密偵頭になったのでしょう。こちらが陥れる側に立つために!」
「違うな。危険を察知して逃げるためだ。お前のように危険に首をつっこむためではない。私は怖がりなのだ。御所も御台所も怖い。そして、お前の野心も」
「まあ、あきれた。それでは兄上は家で下手な歌でも詠んでいるといいわ。禿たちのことは私に任せて。いつか兄上を殿上人にしてあげるから」
「おお怖い。大それた望みを持つと、神罰が下るぞ」
牧の方は何も書いてない紙を広げ、筆を手に何やら考え始めた。
「兄上、落首ってどういう風に作ればよいのかしら」