第69話 建仁三年(1203年10月) 遮那王
「守護になって、ようやく頼もしい顔つきになってきたと思っていたけど、なんだいその情けない顔は。せっかく癒えた病が、ぶり返しそうだわ」
京の島津屋敷で阿火局は島津忠久を叱っていた。
「仕方ないではありませんか。母が比企一族というだけで、私も弟も所領をすべて取り上げられたのですよ。やりきれません。郎党どもも皆、いなくなりました。姉上、我々はどうすれば良いでしょうか? 鎌倉で謹慎したほうが――」
「ふん、今のあんたたちが鎌倉に戻ったところで誰にも相手にされないわ。同情もね。京にいて、やっと人の役に立てるぐらいよ。そもそも守護になったのだって、丹後内侍の縁のおかげなんでしょ」
そう言われると忠久は何も言えなかった。
「暇になったのだから書でも読んで、上辺だけでも智者になりなさい。あっ、そうそう。姫宮が明くる年には戻ってくるって言っていたわ。あなたも“天女”を上手く使って、次に起こる乱を見逃さないことね」
「戦ですか……。外祖父上の本田親恒殿も秩父に帰られるので不安です」
所領が無くなったため、薩摩で代官をしていた本田親恒と、阿火局の息子の親保(小次郎の弟)も秩父に戻ろうと京に上っていた。
阿火局は忠久に近づくと両手を顔に添えた。
「逆境も恐怖も知らない男の家など、いずれ滅ぶわ。あたしはあんたに旦那と息子を仕えさせるって決めたの――この危機を乗り越えていい男になって」
「姉上――」
「息子の親保も置いていくわ。薩摩で武は鍛えた、京では、あんたが知を鍛えてあげて――我が子をお願いします」
阿火局は両手をついて忠久に頭を下げた。
鎌倉では姫宮の一座が京に戻る支度をしていた。三浦義村が北条時政に目をつけられるのを避けるために、頻繁に御家人を呼んで酒宴を開くことをやめたからだ。そうなると、義村が白拍子を抱えておく必要もなくなる。
姫宮が北条屋敷で牧の方に挨拶をすませて出てくると、新三郎が待っていた。
「三浦殿の雇いが終わったと聞いたのでな。やっと今までとは違う話を聞けると思ってやってきたのだ。ほんの少しだけ俺に雇われてくれんか?」
新三郎は砂金が入った袋を差し出した。姫宮は共の人間を遠ざけた。
「それほど、話せることはあるとは思いませんが――」
言葉とは裏腹に姫宮は砂金袋を受け取った。
「小次郎を探していることは言ったな。小柄で見目も良い男だ」
「前にも言いましたが、小次郎と言う名は酒宴でも聞いたことがございません。だけど、三浦一族の間で、遮那王と呼ばれ、大事にされている人がいるようです」
遮那王は源義経が一時期、呼ばれていた名だ。
「さすがは姫宮だ。勘が良い。遮那王はどこにいる?」
「そこまではわかりません。ただ、鎌倉にはいないかと」
「なら、三浦の所領だな」
「一緒に行きませんか。痣丸を覚えているでしょう? 今は私と痣丸が溜めた金で大船を造っているのです。それを見て京に戻ろうと思っていました」
「ははは、俺を護衛にする気だな」
「新三郎様も勘がよろしいようで。三浦様は油断のならないお人です。でも、尼御台所様や江間義時様に近い新三郎様が側にいると知れば、うかつには手を出せないでしょう」
「油断のならないのはどっちやら?」
新三郎はそう言って笑うと、姫宮と出立の日を決めて帰っていった。
姫宮は一座を先に京に帰すと、郎党に立派な輿を担がせてやってきた。
「たいしたものだな。これでは姫様と家人ではないか」
「日差しで肌を汚さないのも、白拍子の役目ですわ。さあ、行きましょう」
朝に鎌倉を出て、昼に衣笠城の横目で過ぎると、夕方には目的の船大工の作業している場所に着いた。
「ほう、帆柱が二つもある。これは大船だな。白木が美しい」
新三郎が建造中の船に見惚れていると、船大工の棟梁とおぼしき男が出てきた。新三郎は姫宮が抱き着くまで、それが痣丸とはわからなかった。
――小次郎を助けたとき以来か。あのときは童だったが、いい生き方をしてきたな。顔に表れている。
日に焼けた顔は精悍で、侍大将といってもいい面構えをしていた。新三郎は剣のことを一途に考えていたときの貞親を思い出した。
痣丸は新三郎を高台に案内した。新三郎が海を見ると五艘の船が隊列を組んで岸に向かっている。
「先頭の船で指揮を取っているのが遮那王様です」
新三郎は礼を言うと高台から降りて行った。
「これで、雇いは終わりですよ!」
姫宮が言ったが、新三郎の姿はもう消えていた。
その日の夜、海の近くの小屋の近くに新三郎は潜んでいた。船着き場から遮那王をつけてきたのだ。屋敷の外には三人の武士が立っていた。
――衣笠城に行くと思っていたが、こんな小屋とは。三浦も小次郎を隠したがっているようだな。鎌倉に一度戻って、貞親を連れてこようか。
新三郎が去ろうとすると小屋の中から声がした。
「一年も遠国に行かねばならんのか――確かに我慢すれば戻れると義村殿は言ったのだな」
――まずいな、小次郎を違う場所に連れていかれそうだ。
新三郎は飛び出すと二人の武士を八角棒であっさり倒した。三人目の武士は慌てて逃げ去った。小屋の中に入ると、小次郎ともう一人の武士がいた。
「やはり、遮那王とは小次郎のことだったか」
小次郎という言葉を聞いて、側にいた武士の顔つきが変わった。
「もう、小次郎ではない。源義経が嫡子、遮那王である」
「違うな。俺の甥、小次郎だ。お前の父母が命を懸けて救った命だ。三浦ごときに策謀で死なせるわけにはいかん」
「育ての父と母は捨てた。この体は源氏の血でできている。我はいずれ将軍になる!」
「たわけたことを。父母の恩を知らぬものが何を言う!」
小次郎と新三郎の間に武士が立った。
「ほう、三浦の家人が。俺がお前と戦っている間に遮那王とやらが逃げるかもしれんぞ」
武士が小次郎に振り返った隙に新三郎が打ち倒した。
「なあ、小次郎。俺一人で見張りの者たちをなぜ簡単に倒せたと思う?」
小次郎は後ずさりする。
「教えてやろう。やつらが見張っていたのでは小屋の外ではなく、お前だからだ。三浦はお前を将軍になどするつもりはない。利用して捨てるだけだ」
「嘘だ! 三浦は我を認めてくれた! 褒めてくれた! 秩父では誰も認めてくれない」
「その理由はもうわかっているはずだ。お前の命を救うためだということを」
「ならそう言えば良い! 叔父上もそうだ! みんな我を信じてなかった! だが、三浦は正直に話してくれた。どっちを信ずると思う?」
新三郎は黙った。
「――だから、我は三浦と共に歩む」
小次郎は太刀を下段に構えた。
「やむを得ないな。力ずくで連れ帰るしかないか」
新三郎も八角棒を中段に構える。
小次郎は低い姿勢から飛び込むと太刀を切り上げると、新三郎の身体を狙わず、八角棒目がけて跳ね上げた。そして、そのままの勢いで一回転すると小屋から飛び出した。
「小次郎!」
すぐに追いかけたが、小次郎が逃げた先には、先ほど逃した武士が加勢を連れて来て、新三郎の前に立ちはだかった。新三郎は叫んだ。
「重保も心配していたぞ!」
「――いずれ謝りに行く、と伝えてください」
小次郎は苦し気にそう言うと。加勢の武士が引いてきた馬に乗って去っていった。
新三郎は追いかけるどころか、武士たちに追われて山に逃げ込むしかなかった――。