第68話 建仁三年(1203年9~10月) 実朝の行方
九月十日。重臣たちの合議により、源実朝を将軍にすることが決まった。このとき十一歳。実朝と乳母の阿波局が輿に乗って、北条時政の屋敷に移ることとなった。輿の脇を固めるのは、三浦義村と江間義時の息子・泰時。それに、護衛を志願した安達新三郎だった。
――北条に実朝を渡すのは惜しいな。このままでは時政に力が偏りすぎる。
義村は輿を見ながら考えていた。顔を上げると泰時と目が合った。
――なるほど、泰時は私のお目付け役か。しばらくはじっとしているしかあるまい。
「若君、お待ちしておりました。これからは我が屋敷だと思ってお過ごしください」
時政は出迎えると屋敷の中に案内した。広間では牧の方が贅を尽くした膳を用意して待っていた。上座に実朝の席があり、左右に時政夫婦と阿波局の席があった。
「若君は幼いので酒宴でもてなせないのが残念です。三浦殿や泰時殿には別の間に酒を用意してありますわ。どうぞこちらに」
義村と泰時は別の間に移ったが、新三郎は実朝の側を離れなかった。
「しばらく会わないうちに耳が悪くなったのかしら、あなたの場所はあっちよ」
しかし、新三郎は義村たちの間には行かず、実朝と阿波局の間にどかりと腰を下ろした。
「無礼だぞ。新三郎」
時政は叱るように言った。新三郎が応じる。
「尼御台様から若君の護衛を命じられております」
「それは外での話だろう。屋敷の中では離れておれ」
「そうは参りません。私は若君を守れとしか聞いておりません。ご不満があれば尼御台様に使者をお出しください」
歓迎の間にたちまち険悪な雰囲気が漂った。実朝はおどおどしながらやりとりを見ている。無理に笑顔を作って場を和ませようとする時政を横目に、新三郎は実朝に一礼すると膳の飲み物に口をつけた。
「毒見までするつもりなの!」
牧の方は怒りを隠さなかった。阿波局はハッとした顔をして新三郎を見た。
「儀式のようなものです。お気になさらずに」
新三郎は澄ました顔で答える。まっすぐ牧の方を見つめると、懐から小壺を取りだした。
「近頃では御所にまでこのような物が落ちている。中身を池に流すと小魚が浮かんできました。恐ろしい世です」
阿波局の顔が青ざめていった。牧の方は新三郎から目をそらさず睨み返している。
「大丈夫か、阿波局? 牧よ、どうやら娘の具合が悪いようじゃ。寝所に運んでくれ。ささ、早く」
時政が二人を急きたるように、広間から退出させた。
義村たちの酒宴も終わり実朝が寝所に入ると、新三郎は寝所の前の縁側に座って目を閉じていた。時政が用意していた護衛も必要無いといって追い払った。
北条屋敷の明かりが消えて、しばらくたつと一つの影が新三郎の前に現れた。
「阿波局ですか。若君に何か?」
「いえ、新三郎殿にお伝えしたいことが――」
「毒の小壺のことでしょうか」
「はい、私が捨てたのを見ていたのでしょう? 信じてもらえないかもしれないけど、使ってはいないの! 頼家様には決して飲ませてはないわ!」
新三郎は庭に下りると阿波局の肩に手を置いた。
「声を落とされよ。では頼家様のご病気は毒ではないというのか?」
「――わからない。でも私でない事は確かよ」
「では、牧の方に繋がっている者が、他にいるかもしれませんな」
阿波局はうなずく。もう、阿波局は牧の方との関係を隠そうとはしなかった。
「ここは若君にとって危険な場ということがお分かりならば、尼御台様に早く進言したほうがよい――心配せずとも、毒の小壺のことは尼御台様には話しません」
「ありがとう。明日にでも姉上と話すわ」
庭から姿を消そうとする阿波局の背に新三郎が問いかけた。
「大姫様に毒をもったことは?」
「いいえ、無いわ。でもなぜ、そんなことを――」
振り向くと、すぐ後ろに悪鬼のような表情の新三郎が小刀を抜いて立っていた。
「それは良かった」
新三郎は寝所の縁側に戻って行ったが、阿波局は腰を抜かしたまま、しばらくその場から立ちあがれなかった――。
それから五日後、実朝と阿波局は輿に乗って大倉御所に向かっていた。
政子に実朝を引き取ってくるよう命じられた義村は、政子と時政が一枚岩ではないことを喜んだ。だが、理由が分からないのが気がかりだった。
――この男はきっと知っているのだろうな。
義村はともに輿を守っている義時を見ながらそう思った。
いきなり実朝を奪われた格好になった時政は動揺した。実朝が来たときと違い、ついてきたのが泰時では無く義時だったからだ。
――わしに何か罪を着せるのではないか?
比企討伐のときの義時の手際の良さを知っているだけに、時政の心は落ち着かなかった。仲の良い女官を通じて政子に理由を聞くと、「成人するまで、母のもとで育てる」と答えが返ってきた。だが、理由を聞いても時政の心は晴れることはなかった――。
朝廷から実朝に征夷大将軍と従五位下の宣旨が下された。時政は実朝将軍のもと、政治を司る政所別当に就任し、将軍家の家司筆頭として執権を名乗った。
また、大江の案により、幼い将軍だけではなく尼御台所にも相談して政治を行うことになった。まだ、御家人に対し、権威の弱い実朝の後ろ盾に政子がなるためである。
九月の末、頼家は伊豆の修善寺に送られた――。
北条屋敷の離れには全裸の義時に牧の方が覆いかぶさるように身体を絡み合わせていた。
情事が終わると、牧の方は義時の横でうれしそうに語りかけた。
「姫の前を京に追放したそうね」
義時の正室・姫の前は比企一族だったため、義時としては離縁するしかなかった。
「でも実朝を取り返しにきたときは、おもしろくなかったわ。実朝の下で私たちの子の政範に実権を握らせたいのは、わかっていたはずでしょ?」
「姉上は孤独だ。大姫・乙姫が亡くなり、頼家様も伊豆に流された。残っているのは実朝様だけ。私は孤独な女子を放っておけない。伊豆の北条館に来た時のあなたのように――」
義時は牧の方を見つめて頬を撫でた。牧の方はその手を掴んだ。
「本当にそれだけかしら? あなたは何を考えているかわからないもの。もしかして、自分で天下を取りたいと思っているのではなくて?――まあ、政範に譲ってくれるのならそれでもいいけど」
「そんなことはない。私は――」
義時は天井を見た。
「忠誠という考えでは世を治めることは難しい。その代わりになる考えはないだろうか――そんなことを考えている」
「そうやって、いつもはぐらかしてばかり」
牧の方は義時に唇を重ねた――。
「これで武蔵国も安泰ですな。私も心配事が一つ減りました」
大倉御所では、義村が無理に笑顔を作って、時政に心にも無い祝いを言っていた。
――おうおう、古狸が露骨に挑発してくるわ。だが、ここで怒れば思う壺だ。
重臣たちの合議で、武蔵国の御家人に対し、北条時政に対して二心を抱かないよう、和田義盛を通じて伝えられることが決まった。
――武蔵国のことなど、言うのでは無かったわ。逆に北条で固められてしまった。しかも、三浦一族の和田義盛まで取り込もうとしておる。古狸は三浦が動くのを待ち構えているようだが、私は比企と私とは違う。我慢強さも若さも。まあ、ゆっくりと時期を待つさ。
義村はそう自分に言い聞かせるしかなかった。