第67話 建仁三年(1203年9月) 比企の乱
「近頃、御家人が浮足立っていて気持ちが悪い。敵は誰なのです」
畠山屋敷の庭で、本田貞親は多くの郎党に武具を検めさせていた。
「知らん。だが、鎌倉にはいる」
畠山重忠が縁側で家人・郎党の名簿を見ながら答える。
「坂東武者同士の争いですか? 気が進みませんな」
「貞親は忘れたのか。頼朝公が現れるまで、坂東ではそれが当たり前だった事を」
重忠の息子の畠山重保が縁側に出てきた。
「そうなのですか父上?」
「そうだ。だから坂東を治めた頼朝公は偉かったのだ――どうした? 重保」
重保は重忠と貞親を見て言った。
「父上と貞親はうらやましい主従です。私も小次郎とそのようになりたい」
重忠は息子の肩に手を置いて、優しく言った。
「きっとなれるさ。小次郎とも必ず会える」
九月一日。大倉御所から京へ向け、早馬が何頭も飛び出していった。その様子を見た御家人たちが慌て始め、鎌倉中が「すわ、何事か!」と騒然となった。皆の予想の中には当然、頼家の病死があった。
比企義員は血相を変えて大倉御所に行き、娘で頼家の妾でもある若狭局に会いに行くと、頼家の病は小康状態で命の危険は無いと言う。御所に詰めていた他の御家人の話では、早馬を飛ばしたのは江間義時で、頼家の相続について朝廷の宣旨を受けに行ったらしい。
――上様が亡くなる前になんということを!
九月二日朝。比企義員は若狭局の計らいもあって頼家の枕元で訴えることができた。
「北条を追討すべきです。相続で地頭職を分ければ二つの権威が立つことになります。上様の子と弟のためと言いながら、北条は争いの元を作ったに過ぎません。北条一族はいずれ上様の子の権威を奪いましょう」
弟と子の相続分割について知らなかった頼家は憤慨し、北条追討を命じた。
しかし、二人の話は朝から比企義員が大倉御所に来ていると知った政子が、隣の間で聞いていた。政子は侍女に北条時政を探させたが、頼家の病気平癒の仏事をするために屋敷に帰ったという。政子は侍女に大まかなことだけを書いた手紙を持たせ、時政を追わせた。
時政は帰りの途中で侍女から手紙を受け取った。馬から降りて手紙を読んでいる時政の顔には幾筋もの涙が流れていた。
――わしのことを、これほど案じてくれている。
義時から知らせが来ても、打ち合わせた策の手順のうちの一つにすぎないが、政子から来たことが時政にはうれしかった。
源頼朝の嫁にやってからというもの、政子は娘から御台所として振舞うようになった。また、牧の方が政子を嫌いなこともあって、親子関係は冷え切っていた。だからこそ時政は孫である頼家さえ追い落とすことに何の躊躇いもなかったのである。
しかし、今、純粋に時政の身を心配する政子の手紙を見て、時政は久しぶりに娘に会えたような気がしたのだ。
時政は手紙を大事そうに懐にしまうと、再び馬に乗った。
――予想より比企の動きが早い。だが、御台所はこちらに付いた。後は……。
時政は自分の屋敷では無く、大江広元の屋敷へ馬を走らせた――。
大江屋敷で時政は大江に訴えた。
「近年、比企能員は将軍の権威を振りかざし、御家人たちを下に見ていることは、皆知っていることだ。しかも将軍が病気なのを良いことに、将軍の命令と嘘を言って、良からぬ企てまでしている。これは事実だ。話を聞いている者もいる。こうなれば先手を打って討伐するべきだと思うが、大江殿の考えはいかが?」
「頼朝公以来、政道を支えて来ましたが、軍事について進言したことはありません。ただし、よくよくお考えの上、お決めください」
大江は賛否の明言を避けた。
時政は大江の言葉を聞くとすぐに座を立ち、自分の屋敷に向かった。そのとき供をしていた、天野遠景と新田忠常に比企義員の討手を相談した。
しかし、その後に大江がどう考えているかと時政は不安になり、大江を呼ぶことにした。
時政を前に大江は緊張していた。大江についてきた家人も大江の側から決して離れようとしない。
――同意を得たいが、この様子だと骨が折れそうだ。
しかし、時政が大江に比企討伐への賛意を求めると、大江はいぶかしげな顔をした後、時政が拍子抜けするぐらい、あっさりと同意して帰って行った。
時政は自分の屋敷に戻ると、暗殺を実行に移す。将軍の病気平癒のために造っていた薬師如来の像が出来たので、その開眼供養に来ないかと比企能員を誘ったのだ。
比企義員の周りは皆、口を揃えて反対した。「殺されるから行くな! どうしても行くのであれば皆で武装して行こう」と興奮する一族を、逆に義員は諭した。
「武装をすれば、却って向こうに警戒を抱かせる。今、義員が鎧兜に身を固めた兵を連れて行ってみろ、鎌倉中の人々が大騒ぎをするだろう。それは上様とともに天下を預かる者のするべきことではない。分割相続について考え直したのかもしれん。脅しだけで向こうが折れてくれるのであれば、それで終わりだ。わざわざ戦う必要は無い」
義員は急いで支度をすると、少数の供を連れて出かけて行った。
だが、時政たちは鎧兜に身を固めて義員を待ち構えていた。義員が北条屋敷の門をくぐり中に入ると、門の脇から天野遠景と新田忠常が出てきて、竹やぶに引きずりこんだ--義員は抵抗する間も無く刺し殺された。
能員の供していた者たちは、すぐさま帰って主人の最後を伝えた。比企一族や家人は殺気立った。頼家嫡男の一幡がいる小御所を中心に、引き籠って防衛の支度をし始めた。
「なぜ、もう軍の支度が出来ている?」
義員を殺した後、大倉御所へ馬を走らせてきた時政は、御所の外まで兵があふれていることに驚いた。義時や三浦義村だけではなく、畠山重忠や和田義盛までいる。
未の三刻(午後二時半頃)。大倉御所の奥から政子が出てきて比企の討伐を命ずると、皆一斉に比企の屋敷に向かって行った。その様を茫然と見つつ、時政の肌は泡立っていた。
――わしが義員を殺さずとも、いや義員に殺されていたとしても、この軍は比企を攻めに行ったのではないか? 大江の考えがあっさり変わったのも合点が行く。だとしたら、わしは知らぬ間に策謀の外に置かれていることになる。首謀者のわしが、いつ? どうやって?
時政は義時が急に得体の知れない物に変わったように感じて身震いした。
比企一族は死を賭して戦ったので、攻め方にも怪我人が多く出た。しかし、主力の畠山重忠が攻め込むと、申の刻(午後四時頃)には対抗できなくなり、屋敷に火をつけた。それからは頼家の子・一幡の前で自決する者が続いた。若狭局と一幡も火の中で燃えていった――。
次の日から比企一族の縁が深い者が次々と糾弾され、処刑されていった。頼家の側近にも比企一族の身内や仲の良い者がいたので、死刑や流刑を言い渡されていった。
頼家がその事を知ったのは、病から回復した九月五日だった。すでに後ろ盾の比企一族は滅び、側近や子の一幡も殺されたことを知ると、頼家は激怒して北条を討伐しようとした――だが、すでに頼家の命令を聞くものは鎌倉にはいなかった。
九月七日。頼家は尼御台所に言われるまま出家させられる。
同日。義時が九月一日に出した使者が京に到着し、朝廷に実朝の将軍宣旨を奏上した。
新三郎は小御所の焼け跡に立っていた。比企一族・数百名の遺骨もまだ残っている。新三郎はその中から小さな頭蓋骨を見つけた。側には幼児が着ていたであろう、焼け残った小袖の切れ端が落ちている。小袖に染めてある菊の文様を見ながら新三郎は思った。
――また、源氏の子が亡くなった。この幼子は何もしていないのに殺された。これが源氏の血の宿命なのか……。馬鹿な! そんな理不尽なことがあってたまるか!
新三郎の心に小さな炎が灯った。
「俺が尽くす相手は決まった。宿命に翻弄される子を助ける。何度でもだ! それが救えなかった源氏の子たちに対する、俺の忠誠だ!」
天に向かって新三郎は吠えた。