第6話 治承四年(1180年10月20日) 悪の名を持つ男
平家軍の兵が減っていたこともあって、本田貞親と阿太郎は簡単に畠山重能の姿を見つけ出した。かがり火の近くで四つん這いになって震えている男がそうだ。数名の武士が囲んで笑っている。貞親は小声で阿太郎に言う。
「阿太郎、さすが大殿は芸達者だ。見ろ、大受けに受けている」
「しかし、長くはないか。難産の馬の物真似なのか?」
ブヒ! ヒヒヒ―――ン! 産まれるまで演じきったようだ。拍手喝采が聞こえる。
二人は近くの木に隠れて待った。しばらくすると――小用に出る、といって重能が出てきた。
「重能殿! 重能殿!」
周りを伺っている重能を、阿太郎が手招きをした。
「腕を上げたな貞親。良い恋物語だった」
「大殿こそ見事なお産でした」
二人が笑いながらお互いの芸を褒めていると、空を見ていた阿太郎が、
「急いでください。月を隠していた雲が動きそうです。富士川を越えましょう。少し先に浅瀬で渡れる場所があります」
平家軍から離れ、川へ向かって闇の中を進む三人。すると川の方から、グエッ! ギャッ! と悲鳴が聞こえてきた。
阿太郎が皆を制して立ち止まる。闇の中から声がした。
「飢えて陣抜けするにも方向がある。西なら許すが東は源氏だ。恥知らずは死んだほうがましだ。そうは思わぬか、畠山殿」
「死ぬべき! 死ぬべき!」
雲が晴れてきた。月光の下に緋縅の鎧の上に緋色の衣を纏った武士が一人。細身で背はひと際高い。その側に小さな童武者が赤地に金で“悪”の文字を染め抜いた旗指物を持って立っていた。平家軍の侍大将・伊藤忠清の息子、伊藤七郎景清である。死ぬべき、と言っていたのは童武者だ。
「これはこれは、景清殿。闇夜に人斬りとは風流ではないな。無駄な殺生は止めるが良い。、この戦はもう負けじゃ。おぬしの父上も撤退を進言しておる。今更、老人の首一つ取ったところで何の自慢にもならぬだろう? 見逃して善行の一つでも積んでみたらどうじゃ」
「ご謙遜なされるな、平治の乱の勇士よ。ちょうど葉武者の首にも飽きてきたとこ。そこの武士どもも腕がありそうだ。三つまとめて首をもらうぞ」
「首よこせ! 首よこせ!」
叫ぶ童武者に伊藤景清は下がるように言うと、白木の長柄の先に太刀を合わせた長刀を下段に構えた。
「阿太郎! 貞親! 奴は悪七兵衛と呼ばれるほどの武士じゃ。まともにやり合うな!」
「キェ――ッ!」
重能の言葉を聞かずに貞親が大上段で飛び掛かると、太刀を景清の頭上に振り下ろした。だが、貞親の身体は空中で後ろに一回転して転げ落ちる。景清が下から長刀で跳ね上げたのだ。
下段で大上段に打ち勝つには、相当な力と速さが無いと難しい。
「なんだ、武士かと思ったが山猿だったか」
貞親は立ち上がった。目が血走っている。
「この貞親を山猿と申したな!」
貞親は身を低くして地を蹴った。
「懐に飛び込めば勝てると? 悪の懐は甘くはないぞ、猿! まずは首一つ」
景清が長刀を横に払おうとしたとき、横から阿太郎の突きが飛んできた。景清は長柄で受ける。その間に貞親が懐に入って胴を斬りつける。景清は長柄を手放すと、貞親の背に両手を組んで叩きつけた。貞親の太刀は景清の鎧を浅く切っただけだった。貞親は自らの太刀を見てくやしがった。
「猿にお似合いの鈍い太刀だな。それにしても――」
阿太郎のほうを見る景清。
「坂東者は汚いな。平家の恩を忘れるだけはある。猿よ! 冥途の土産に本物の太刀を見せてやろう」
長刀を童武者に渡すと、腰に付けた太刀を抜いた。黒く光っている。
「無銘だが、父上が平治の乱で源氏から奪った名刀だ。頼朝を倒したら、源切り、とでも名付けようか」
それを見て阿太郎が突きを繰り出す。
「長柄を離すとは。自ら間合いを捨てたな」
「この太刀には棒など無意味だ」
景清が八角棒を振り払う動作を見せた。阿太郎には太刀がすり抜けたと感じた。次の瞬間、棒の先が地面に落ちた。
「斬り落とされた感覚すらないだろう。名刀とはそういうものだ。貴様らも死を感じる前に殺してやろう」
ゆっくりと近づいてくる景清に、どう攻めればいいかわからず、動けない阿太郎と貞親。
横から重能の大声が聞こえてきた。
「敵襲じゃー! 源氏が攻めてきたぞー! 夜襲をかけてきたぞー! ブヒヒーン! ブヒヒーン! 馬も騒いでおる!」
重能は顔をにやりとさせて景清を見る。
「さあ、どうする景清。川からの声だ。ひっかかる馬鹿もおるじゃろう。早く嘘だと触れ回らぬと軍が崩壊するかもしれんのう。ほれ、侍大将の役目を果たさんか」
童武者が心配そうな顔で景清を見た。
「――くっ、覚えておれ。次に会った時、悪の字に誓って必ず殺す」
景清は太刀を収めると長刀を取り、陣のある方向へ歩き出した。
「ほれ、貞親つかまれ。我らも行くぞ」
重能と阿太郎が貞親を立たせた。貞親はぶつぶつ言っている。
「わしにもあの太刀があれば、あの太刀があれば……。大殿! 先に行ってくだされ!」
貞親は重能の太刀を奪うと、景清に斬りかかった。長刀で受ける景清。
「せっかく見逃してやったのに、死に急ぐか。猿武者よ」
太刀と長刀を打ち合うが、実力の差がすぐに埋まるわけがなく、貞親が押され始めた。阿太郎は短くなった八角棒を手に横から隙を伺うが、先とは違い景清も警戒しながら戦っているため隙はない。そしてとうとう貞親の太刀が弾き飛ばされた。
「とどめだ! 猿武者!」
そう叫んだ景清の背に衝撃があった。振り返ると重能がいた。景清の背に短刀が刺さっている。
「坂東武者が汚い? 違うな、景清。平家武者が馬鹿なのじゃ」
「貴様あぁぁぁ―――――っ!」
景清は長刀を離すと、鞘から太刀を一閃、抜き払った。重能の腰から肩にかけて血が噴き出す。
「大殿―――――――っ!」
「重能殿―――――――――っ!」
崩れ落ちる重能。突如、川から水鳥の群れが羽音を立てて羽ばたいた。
「――殺す! 皆切り刻んで殺す!」
貞親に向かう景清を“悪”の旗が遮る。
「真の敵襲! 真の敵襲!」
童武者が川を指して叫んだ。景清が耳を澄ますと。確かに軍勢が川を渡る音が聞こえる。
景清の顔が侍大将のものに戻った。
「わしの傷の手当は後だ。急ぐぞ!」
水鳥の羽が舞い降りる中、景清は阿太郎と貞親の前から消えていった――。
「大殿!」「重能殿!」
重能のもとに駆け寄る阿太郎と貞親。重能が助からないのは二人の目にも明らかだった。
「申し訳ありませぬ! 大殿の忠告を無視したばかりか、わしのために命まで……」
泣き崩れる貞親が見えないのか、重能は空を見つめながら優しく語り掛ける。
「重忠の股肱の臣を死なすわけにはいかんからのう。貞親、約束しろ。これからも生き延びられる機会があったら必ず生きよ。わしが救った命を無駄にするなよ……」
「必ずや誓いまする!」
震えながら誓う貞親の言葉を聞き取れたかどうか。重能の瞳からは光が消えていた――。
※参考 wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E6%8C%99%E5%85%B5.png