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源氏の子 ~源頼朝に逆らった男たち~  作者: キムラ ナオト
第四部(最終部) 本田貞親の子
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第60話 正治二年(1200年2~12月) 脆弱な幕府

 梶原一族の滅亡以降も、景時と関係があった者への処罰が続いた。頼朝の旗揚げ以来、功のあった加藤景廉(かげかど)も景時の親友ということで所領を取り上げられ、他にも何人かが連座した。


 その中には頼家に仕えている勝木則宗がいた。相撲(すもう)が達者で大力の武士だ。頼家は勝木が側に置いておくのを危険と感じ、波多野盛通に勝木則宗を捕まえるよう命じた。


 波多野が侍部屋に行くと、多くの侍の中に勝木はいた。後ろから抱え込んで捕らえようと羽交い絞めにすると、勝木は波多野が締めている腕から力任せに右手を抜いた。そして小刀を手に取り逆に波多野を斬ろうとした。


 しかし、勝木の隣には畠山重忠がいた。重忠は座ったまま左手で小刀を持った勝木の腕を掴むと、そのままへし折った。痛みに苦しむ勝木は波多野にすぐに捕らわれた。


 翌日、この事件の罪と褒美を決めているときに、ちょっとした問題が起こった。勝木を捕らえた波多野への褒美が決まるときに、波多野と仲の悪い真壁秀幹(まかべひでもと)が、勝木を捕まえたのは重忠であって波多野ではないと訴えたのだ。そこで和田義盛が重忠を呼んだところ、


「そんな話は知らない。波多野一人がやったことだ」


というので、当初の予定通り波多野に褒美が決まった。


 侍部屋に戻った重忠は真壁に言った。


「無益な讒言はするな。そんな卑怯なことを考えず、波多野が一人で生け捕ったと言ってやるのが武士だろう。この重忠の名前を出されるのは迷惑千万。人の名を汚すのは心無い者のすることだ」


 周りの武士たちは感心し、真壁は赤面したまま何も言えなかった。



 その後、御家人たちの間で雑談があった。主に梶原景時のことである


「梶原景時が武田有義(たけだありよし)を源氏の将軍にして、九州の御家人たちと鎌倉を攻める院宣をもらおうとしていたらしいが、どうしたものやら」


 和田義盛がそう言うと。重忠は聞いた。


「弟の信光殿は、有義が逃げ出した屋敷に、証拠の手紙があったと言っているのではないのか?」


「そうだ。だが今の武田では人は集まるまい。あの景時にそれが分からぬとは思えん。まあ残された源氏は皆、小粒になってしまったからのう。足利殿と阿野殿も北条殿の身内のようなものだし、他に思いつかなかっただけかも知れん」


「九州を攻めるのか。戦いに行ってみたくはあるが」


「いや、上様や大江殿は、朝廷や九州まで調べるのは混乱が大きくなると言って反対しておる。京にいる景時の周辺までで詮議は終わらすつもりだ。我らも梶原がいなくなる以上のことは望んでおらぬしな」


 渋谷高重(たかしげ)が言う。


「景時もそんな無謀な策など図らずに、館の橋を落として立てこもり、多少でも持ちこたえれば武士の意地を見せられたのだ。それが、何もしないまま逃げ出して途中で殺された。いつもは戦に自信があるようなことを言っていたが、大したことはなかったな」


 重忠が応える。


「事の変化が急だったので、橋の柱を削って引き倒す暇が無かったのだろう」


 安藤右宗がこれを聞いて言う。


「畠山殿は大名だから、ご存じないのでしょう。近くの小屋を壊して橋の上に置き、火をつければ簡単に焼け落とせますよ」


 そんな話で侍部屋は盛り上がっていたが、連書状に花押を記さなかったものは、肩身が狭そうにしていた。




 鎌倉・三浦屋敷では、当主である三浦義澄(みうらよしずみ)が死を迎えようとしていた。


義村(よしむら)よ、わしは何も言わずに死ぬつもりであったが、梶原の件でおぬしに才があるのが分かった。だから言うことにする」


 三浦義村は枕元で最後の言葉を聞いていた。


「わしには心残りがある、亡き父上の仇である秩父党、特に畠山重忠を討てなかったことだ。頼朝公に水に流せと言われたから我慢していたが、もう頼朝公はいない。しかし、残念なことにわしの寿命のほうが先に来てしまった。あんなことまでしたのにも関わらず……」


「畠山重忠はいい男です。あんなことというのは何ですか?」


 それには答えずに義澄は続ける。


「立派な男か卑劣な男かは問題ではない。仇は仇だ。三浦家が秩父党にやられた後、何もやり返していないということが、いつか敵の侮りを産む。隙あれば秩父党を討て」


「承知いたしました」


「三浦の名を大きくするのだ……」


 そう言い残し、義澄は死んでいった。



――亡き父には申し訳ないが、重忠を狙うのはずいぶん後になるだろう。なにしろ重忠には人望がある。御家人たちの不満を利用するやり方は通用しない。私がやるべきことは不満を持たれている有力者を消していくことだ――しかし、調べてみて損はないか。


 義村は郎党を呼ぶと、重忠周辺を探るよう命じた。




 一方で不満を集めつつあるのが、頼家であった。


 あるとき、自分が朝廷から許された色である黒色の衣(武家では官位が高くないと着用できない色)を着る念仏僧がおもしろくなく、活動を禁止させた。念仏僧がそれに従わないと、比企義員(ひきよしかず)に命じて念仏僧の袈裟(けさ)をはぎ取った。そればかりではなく袈裟を見せしめで燃やさせたが、見物人のひんしゅくをかっただけだった。


 またあるときは、重忠の所領で神領と寺領の争いがあった。両方とも幕府の繁栄を祈っているので、自分では採決することはできないと、頼家に判断を願い出た。頼家は差し出された境界付近の地図を見ると、筆を取って中央に墨を引いた。


「所領の狭い広いは、運不運だと思ってあきらめろ。現地にわざわざ使いを出して、調べる必要はない。今後、境界争いはこのようにすると皆に伝えろ」


 この採決に重臣たちは呆れ果てるしかなかった。


 さらには、頼朝旗揚げ以降に御家人に与えられた土地が五百町を超えた分は、その超えた分を頼家の側近に与えると言い出した。大江と三善康信(みうらよしのぶ)が、御家人の恨みを買うからやめるよう必死に説得して何とか止めたが、頼家は延期するだけだと言って諦めなかった。



 大江は頼家を殺す策を頭に思い浮かべては打ち消した。暗殺は簡単に解決できる方法だが、それに頼ると、これからも何かあるたびに主君を殺さねばならぬ。


 本来なら十二人の盟約を結んだ者で頼家を抑えていくはずだったのだが、すでに三浦義澄と安達盛長が病死し、三善・中原・足立・二階堂ら文官を除くと、有力御家人は和田・北条・比企・八田・江間となった。しかし、比企は頼家べったりだし、和田や八田も景時弾劾の際、幕府のことを考えずに突っ走るなど、大江との密約など忘れたかのように、まとまることがなかった。


 そうなると北条時政となるのだが、野心が見え隠れしているのが気になる。今年の四月に無位無官だった時政は遠江守に任命され、従五位下を与えられた。


これまで、国司は武田や平賀など源氏に限定し、朝廷からの受任も朝臣出身者以外にはさせないよう幕府が管理していたが、頼朝亡きあと、御家人が幕府を運営していくようになると、その慣例を時政主導で崩していった。


 大江は自然と江間義時と話すことが多くなった。義時には私心が少ないことが分かってきたからだ。また、冷静に周りを見られるところも大江の気性と合っていた。


 今日も義時を捕まえて大江は話し込んでいた。


「坂東武士の好き勝手を亡き頼朝公が上手く収めていたが、重臣たちだけで政治をすれば、またばらばらになってしまいそうだ。坂東武士の本質は昔と少しも変わっていない。やはり、将軍家は必要なのでしょうな。例え暴君であろうとも」


「頼朝公のことを後悔しているのですか?」


「してないと言えば嘘になる。あのときは坂東武士が結束できると思っていた。だが、私の読みが甘かった」


「しかし、頼朝公のような人はそう現れますまい。我らで権威を作り上げていくしかないでしょう。今度は朝廷にも影響されないような人を」


「それは実朝様のことか? 我らの理想通り育ってくれれば良いのだが」


「いいえ。育てる必要はありません。その人は―――」


 大江は義時の意見に瞠目した。しかし、素直にはうなずくことはできなかった――。

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