第5話 治承四年(1180年10月) 平家軍の実情
「いつまでにやにやしておるのだ、阿呆。気持ちの悪い。ほらもっと早く歩かぬか」
阿太郎は牛追いのように八角棒で本田貞親の尻を叩いて急かした。普段の貞親であれば、すぐに殴りかかるところだが、今は満面の笑みで両手で太刀を握り、上に掲げながら歩いている。
二人は甲斐の国境を越え駿河の山道を進んでいた。
畠山重忠が頼朝の先陣を命じられてから鎌倉に入るまでの四日間、貞親は八幡太郎由来の旗持ち役を務めていた。はじめこそ、これじゃ戦いに加われぬ、とぼやいていたが、特に戦という戦も起こらず、暇潰しに武士たちが代わる代わる旗見物に来た。結果、旗持ち役である貞親も有名になった。
「敵に出会うまでこのまま歩かせてくれ。阿太郎も見てだろう、わしの晴れ姿を。気分が良かったなあ。遊女たちもわしに手を振っておった。八幡太郎様様だ」
「ふん、遊女に旗の違いなどわかるわけがない。浮かれすぎて、きっと目がどうにかしていたのではないか」
「旗持ちの貞親といえば、鎌倉で知らぬものはいない」
「ふん、そんな異名で喜んでどうする。武士なら、悪や鬼と呼ばれでみろ」
二人の目的は畠山重忠の父・畠山重能を平家軍から救い出すことである。重忠が源氏についた以上、重能が平家軍にいても危険しかない。
「大殿は京に留まっていることはないのか? なぜ軍にいるとわかる」
「平家も大戦は久方ぶりだ。しかも総大将は若輩の平維盛。戦を知っているお守り役は多くつけるだろう。坂東では佐殿の父と、平治の乱では清盛公といっしょに戦った経験のある重能殿を連れていかないわけがない――しっ、誰か来る」
阿太郎は身を低くして隠れたが、貞親はもうそこにはいなかった。
「キェ――――ッ!!」
貞親は飛び掛かり、三人の男を早業で倒していた。
「ちょうど太刀を抜いていたから、簡単だった。わははは!」
「なぜ、すぐ殺す! 味方かもしれんだろ!」
「やつらは駿河の方からやってきた。駿河には敵しかおらぬ。味方だとしても、逃げてきた臆病者だ。切っても構わん」
貞親の言い分は乱暴だが道理だった。
「それになんだ、猿みたいな叫び声は。俺まで驚いたではないか」
「はっはっはっ! 小心な男ならあれで腰を抜かす。まず声で相手をひるませてから切り掛かれば、今のように簡単に勝てる。阿太郎も真似して良いぞ」
「するか! 俺は獣じゃない。しかし、こやつらから話は聞きたかったな……」
「心配するな。斬ったところで人はすぐには死なん。話を聞いてみろ」
阿太郎は倒れている男に近づく。
「ああ、確かに生きている。首の骨が折れた者と、肺を潰された者、頭蓋を砕かれた者がいるのだが、この中の誰と話せばいいか教えてくれ。まったく、ご立派な技だよ」
「そ、それは、この太刀の切れ味が悪いせいだ。わしにも名刀があれば……」
太刀を見ながらつぶやく貞親を無視して、阿太郎は三人の男を見ていたかと思うと、木の棒を持って、倒れている男から流れ出る血を墨代わりに、死に行く男たちの顔に“阿”の文字を書いていった。
「難しい字を書いているな。呪いか?」
「阿呆なことをいうな。救いの文言、南無阿弥陀仏だ」
阿太郎は懐から小刀を取り出すと、三人の腹を切り刻みはじめた。
「おい馬鹿、何をしている! やっぱり呪術ではないか」
臓物を取り出して見つめた後、阿太郎が言った。
「――先を急ごう。重能殿が危ない」
一昼夜、阿太郎と貞親は山を歩き続け、平家軍が伺えるところまで来た。途中、行き違う者たちを貞親は斬っていったが、あれ以来、阿太郎は死体に阿の字を書くだけで、切り刻むようなことはしなかった。その代わりに死者の持ち物を調べていた。
山を下り終えると阿太郎は木に登り、辺りを見回している。貞親はというと木の根元で息を切らせて倒れていた。仰向けで木の上の阿太郎に言う。
「弓矢で負ける気はせぬが、脚の丈夫さでは、おぬしの勝ちだ。どうも騎乗に慣れすぎた。たまには歩かぬとな」
阿太郎は遠くを見ながら言った。
「――やはりな。もしかしたら重能殿はもういないかもしれん」
「どういうことだ。わしにも分かるように話せ」
「平家軍はすでに負けている」
「さっぱり分からぬ。勝つも負けるも戦ははじまっておらぬ。佐殿の軍の到着も、まだ数日先ではないか」
「ここに来るまで何人斬った?」
「二十ぐらいかな」
「偵察にしては多いし、寝ずに歩いて疲れているお前に簡単に斬られていった。それはなぜか? 答えは飢えだ。最初に斬った三人は何も食べ物を持っていなかった。そこで胃を開いてみたら何もなかった。その後にお前に斬られた者も誰一人として食物を持っていなかった」
「確かに枯れ木を斬っているようだったな。気力を感じなかった」
貞親は起き上がると木に登った。阿太郎は平家軍の陣を指して貞親に聞いた。
「どうだ? 軍勢はどのぐらいと見る? 平家は七万と言っているらしいが」
貞親の表情が変わる。
「おかしいな。五千に満たないぐらいか……。これでは、我が秩父党といい勝負ではないか。どこかに軍を隠しているのか――いや、万を超える兵を隠すなどできるものではない」
「――平家軍の後に回ろう。夜になればもっと確かなことがわかる」
軍の後ろ側から二人が観察していると、日が落ちてから闇に紛れて脱走する兵が多数いた。それを追いかける武士もいたが、皆帰ってくる様子は無かった。
百人程度の集団脱走まであった。貞親も侍大将をしているので相手の状況に同情した。
「ひどい有様だな。平家軍が哀れになってきた」
「武田勢も気づいているはず。だとしたら、佐殿を待たずに攻めるかもしれない。重能殿がまだ逃げずに軍中に残っていると良いが……。では、始めてもらおうか、畠山家の秘術を」
阿太郎は意地悪な笑みを浮かべて、貞親を見た。
「何が秘術なものか。酒席の芸をしらふでさせおって。ヒヒ、ヒヒ―――ン!」
貞親は馬の鳴きまねを始めた。秩父党は馬との縁が深い。秩父の武士は少年のころに牧場に行って馬に接するのが当たり前だ。だから馬の真似が得意なものも多い。
「ブヒーン」
もう一頭の馬が登場した。貞親の持ち芸は馬の恋物語。二頭の馬が出合い結ばれるところまでを演じる。
「ヒヒヒ―――――ン!」「ブヒ-ン!」
最後は馬の交尾で盛り上がる。声だけも面白いのだが。体の動きも交えてやるので、阿太郎は笑いを我慢するのに必死だ。腹を抱えて悶絶している。
「さて、大殿が気づいてくれると良いが――ほら、阿太郎も立って耳を澄ませんか」
「ああ可笑しい……。重能殿も物真似で返すと言っておったが、何の真似をするつもりだ?」
しばらくすると、平家軍の中から、馬の苦しげな鳴き声が聞こえてきた。
「――馬のお産だ。大殿が産み落とす前に見つけ出すぞ」
阿太郎たちは闇の中を駆け出した――。
※参考 wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E6%8C%99%E5%85%B5.png