第56話 建久八年(1197年9月) 別れ
鎌倉・梶原屋敷の前に立った阿火局が、どうやって本田貞親に会おうかと考えていると、奥の方から貞親の掛け声が聞こえてきた。声がする裏へ回ってみると裏木戸から望月重隆が汗を拭きながら出てきた。
「あら、この屋敷で何しているの?」
「おお、阿火局! ご無事でしたか。貞親殿に剣を学んでいるのですよ。近江での一件以来、貞親殿は剣の達人と評判だ。御家人たちも争うように教えを乞いに来ていますよ」
「囚人ではないの?」
「屋敷の外に出なければ大丈夫です。梶原殿はあまりいい顔をしませんが、断るとただでさえない人望がさらに落ちますからね。黙ってますよ」
そう言って望月は笑った。
「なんで嫌なのかしら?」
「若君をとっちめたからですよ。梶原殿は若君の乳母夫ですからね」
「ああ、確かそうだったわね。貞親と会うことはできる?」
「もうすぐ稽古も終わるころです。私と一緒であれば入れます。さあ中へ」
ちょうど、稽古が終わったのか十人ほどの若者が、おのおの汗を拭いたり、井戸の水を浴びているとこだった。
「生きていたか! さすがは我が嫁!」
貞親は阿火局に駆け寄って抱きしめた。
「懐かしいわ、この臭さ。さぞかし酷い目に合っているのかと思って心配してたのに、ずいぶん楽しそうにやってるわね。私がどれだけ苦労したと思っているのよ」
「そう言うな。わしも抜け出そうと考えたのだが、殿に止められたのだ。ところで――」
「待って」
阿火局は望月のほうを見た。貞親は言う。
「心配無用だ。望月は大江殿とは今は切れている。師匠の秘密は守るよな?」
「はい。大姫様のことであれば、特に」
阿火局はうなずくと小声で話し出した。
「大姫様は無事よ。私の養女ということにして、兄上と一緒に薩摩に向かっているわ」
「新三郎殿と。それは良かった。大姫様が一番信頼している人ですから」
望月はうれしそうに言った。貞親が問う。
「忠久は承知しているのか?」
「承知したわ。でもあの子も大人になったわね。条件を出してきた。私たちが忠久の家人になるのなら、って」
「それで?」
「条件を飲んだわ。……勝手なことをしてごめんなさい」
貞親は阿火局の頭を抱き寄せて言った。
「わしはいい嫁を貰った」
「本当に大宰府に行っちゃうの?」
痣丸はうなずいた。京の“天女”では、痣丸が旅支度をしていた。
「姫宮、よしなさい。痣丸が京にいると危険なのは、あなたにも分かるでしょ」
磯野禅尼に言われても、姫宮は言い返す。
「でも、痣丸は才能があるの。噂の運慶にだって負けはしないわ! 禅尼もわかるでしょ。芸は京にいてこそ、って言っていたじゃない!」
「そうよ。でも芸は仏像だけじゃない。痣丸が考えている芸は京には収まらない。この国の未来を切り開く技なのよ」
禅尼は説得しながら、姫宮は道理では納得しないということを経験で知っていた。
「姫宮、よくお聞き。痣丸が向こうで名を上げたら、私があなたを西国に送ってあげる。だから今は笑顔で見送りなさい」
「本当に!」
――この子も芸よりも恋を選びそうね。
禅尼は女の芸の継承の難しさを改めて思い知らされた――。
大倉御所の侍所の横にある弓の稽古場では、海野幸氏が地に突き刺した竹を狙って矢を放っていた。何本かには命中していた。
――結局、大姫様の遺体は見つからなかった。矢が当たったと確信したのにだ。あの鋼の武士に動揺したのか? いや、それは言い訳だ。鋼の武士の鎧の中にもわずかな隙間があった。それを狙えるようにならねばならない。
「次はどんな相手だろうと射抜いて見せる」
矢は命中し、竹は真っ二つに割れ飛んだ。
瀬戸内海を急ぐ船の上には、新三郎と大姫が立っていた。
初めての船が楽しいのか、小袖をひらめかせながらくるくる回っている。
「京より西は初めて。新三郎、もう身体は大丈夫?」
「大姫様こそはしゃぎすぎです。船から落ちますよ」
「しっ! 私はもう姫様じゃないのよ 阿火局の養女・涼子。新三郎にも早く慣れてもらわなきゃね。はい、呼んでみて」
「りょ、涼子……様」
「様はいらないの!」
そう言うと、大姫は楽しそうに笑った。粉々になった雛人形が入った絹の小袋を握る。
「義高様が私の代わりになってくれた。死ぬなと言われた気がするの」
大姫は海を見ながら言った。風で髪がなびく。
「やっと、義高様の死を受け入れられる気がするわ。今までそんなこと考えたこともなかったのに。今までの大姫は死んで、義高様の元に旅だったの」
「そうですか――ところで、いつも飲んでいた薬ですが、あれはもう飲まないほうが良いかと」
「うん、もう飲まないわ。知ってたの、私。あれが毒だってこと。それでもいいと思ってた。早く義高様の元に行きたかったから――」
「涼子様……」
「また、様って言ってる。うーん、そうね。言いやすくなるようにしてあげる」
大姫は新三郎にそっと口づけをした。新三郎は固まっている。
「好きよ、新三郎。前から想ってたわ」
「前からって、いつから?」
「内緒。新三郎、お願い。私をもらってくれる? 今すぐ」
「どういうことです?」
大姫の瞳から涙が静かに流れている。
「新三郎と生きたかったけど、少し遅かったみたい」
にこりと微笑むと、大姫は血を吐いた。大量に――。
「大姫様!」
「……新三郎は、義高様が逃げるのを命がけで手伝ってくれた」
「大姫様!」
新三郎は倒れる大姫を抱きとめる。
「静御前のときも……」
「大姫様! 無理に話さないで!」
「そして私のときも……。いつも新三郎は私のことを考えてくれた――お願い、私のことを思うのなら、お嫁にして」
「わかりました! だから生きてください!」
新三郎が涙を流しながら叫ぶと、苦しそうにしていた大姫が笑顔になった。
「良かった……。今度は好きな人を見送らずにすむわ……」
大姫はゆっくりと目を閉じた。その表情は幸せで満ち足りていた――。