第54話 建久八年(1197年8月) 大江の策・後編
檀ノ浦以来の鉄の甲冑に身を包んだ畠山重忠は、赤色の仮面をつけた“洞吹”から降りると、馬首を撫でながらうれしそうに言った。
「頑張って走ったな、赤兎馬」
ボヒヒン? 洞吹は妙な名前で呼ばれたので、不思議そうに鳴いた。
「さて」
重忠は新三郎を軽々と持ち上げると、船のほうに放り投げた。
呆気に取られた海野幸氏だったが、重忠が大姫を抱きかかえて船のほうに歩き出すと、我に返って矢を放った。
キィン!
しかし、何度、矢を放っても重忠の鎧は跳ね返すだけだった。
海野は瞑目した。
――これで諦めては、ただの弓の名人。だが、私はその上を目指す男。
「南無八幡大菩薩――」
海野が放った一矢は、重忠の体と脇のわずかな隙間を通り抜け、大姫に当たった。重忠は慌てて阿火局に大姫を渡すと、カッシャ、ガッシャと鎧を鳴らして海野に向かってきた。
重忠の足元から陽炎のようなものが上がっていた。
海野は重忠の放つ威のせいなのか、その場を動くことができなかった。重忠の拳を食らい吹っ飛ぶと、そのまま気を失ってしまった。
「忠義を知らぬ愚か者が……」
重忠は大斧を手に取ると、赤兎馬こと洞吹と共に走り去っていった。
頼朝の周辺では、激戦が続いていた。
「援軍はまだか! 何をやっている!」
梶原景時が声を枯らして叫んでいるが、大江が敷いた遊女陣が囲んでいるため、兵との連絡が上手くゆかない。また、安田義定父子の残党の一部は――景時こそ、主の仇! と迫ってくるため、采配を取るのも容易ではなかった。
――大江の策は大したものだ。これなら我が太刀は頼朝に届く。
伊藤悪七兵衛景清は、一歩、また一歩と頼朝のいる大型の輿が据えられている台座に近づいていき、飛び乗るとついに目の前に立った。景清は大きく息を整えた。
「頼朝覚悟!」
輿に垂れ下がっている御簾を左袈裟に切り落とした。
中から聞き覚えのある声がする。
「貴殿のおかけで、残党どもを一掃できた。礼を言う」
輿の中にいたのは頼朝では無く、大江と弓を構える望月だった。
「――すり変わり? 騙していたのか!」
「私が上様の命まで渡すほど、お人好しに見えたか?」
「貴様!」
景清が叫び終わる前に、望月の矢が景清を貫いていた。台座から落ちた景清に兵が襲い掛かる。混乱も徐々に収まり、景清たちは一人、また一人と倒れていった。
景清の身体もまた限界に近づいていた。
――間に合ったか。
太刀を杖にしながら、貞親は乱戦の場に戻ってきた。太ももに巻いている布を強く締めると、景清に向かって叫ぶ。
「畠山重忠が家人・本田貞親! 畠山重能の仇、平家の侍大将・伊藤景清に勝負を申し込む! 皆、わしに仇を討たせてくれ!」
景清を囲んでいる兵が下がった。景清は貞親のほうを向いて、にこりと微笑んだ。
「私を賊ではなく、平家の侍大将として挑んでくれるのだな――応えよう」
「ほう、おぬしも笑うのだな」
景清は太刀・痣丸を大きく上段に構えた。貞親も同じく上段に構える。
二人の対決に触発されるように、舞台で舞う姫宮たちの神楽も激しさを増していた。
「二刀を捨てたか、猿武者。それでいい――」
貞親は大きく踏み出した。太ももから血が噴き出す。景清は動かない。
「キィエエエ――――――――――ッ!!」
「ふん!」
両者が激突する――二人とも太刀を振り下ろした状態で制止した。二人の瞳が合う。景清の身体から血が噴き出した。景清の太刀・痣丸は折れていた。貞親に身体を預けるように倒れこんだ景清は一言、
「痣丸を頼む……」
そう言い、地面に崩れ落ちた。貞親は瞑目した。
「望月! わしはもう良い……。首はお前に譲る」
貞親は望月に言った後、その場で倒れ込んだ。
「見事」
すり替え用の輿の中にいた頼朝がつぶやいた。と、同時に隣の輿から誰かが飛び出すのが見えた。
「若君なりませぬ! まだ、危険です! 鎧も着ずに!」
護衛の梶原景時の叫ぶ声が聞こえる。
頼朝の嫡男・頼家が抜いた太刀を持って乱戦に飛び込んで行った。
「景時よ! あの戦いを見て、我慢しろというのか? 俺は武家の棟梁の嫡男だ!」
「皆、若君を守れ! 囲むように円陣を組むのだ!」
大江が輿から出て、景清の首を取っている望月に言った。
「若君に馳走せよ」
「お任せあれ」
望月は頼家と向き合っている敵が振りかぶるのに合わせて射抜いていった。すると、敵は頼家の前で動きが止まり、容易に頼家は斬ることができた。
「どうだ! どうだ! これが俺の力だ!」
頼家の姿は返り血に染まっていた。十人以上斬っても、まだ飽き足らないようだった。十五歳の貴公子の姿はそこには無く、血に酔って自分を制御できない少年がいるだけだった。周りも危なくて近寄れない。景時は未来の将軍を見て、眉をひそめていた。
やがて戦いが収束し、斬る相手がいなくなると、頼家は死体を斬り始めた。
「若君、そろそろ……」
「うるさい! 俺に命令するな! 俺を誰だと思っている」
景時が諌めるが、頼家はきかない。景時は頼朝に助けをもとめようとすると、貞親が地面に刺した太刀を支えにして立ち上がった。
「馬鹿息子が……。そんなに戦いたければ、わしが相手してやる」
「何だと? この俺に逆らうのか――おもしろい、俺の力を見せてやる」
景時は慌てて叫ぶ!
「やめろ! 若君に太刀を向けることは許さん!」
「梶原殿、心配はするな。こんな男に太刀など使わぬ」
貞親は構えたが、その両手には太刀が無かった。無刀である。
「俺を二度、侮辱したな」
頼家は太刀を構え、斬撃の態勢に入った。貞親は大きく踏み込む。
「キィエエエ――――――――――ッ!!」
その刹那、頼家は生まれて初めて殺されると思った。
貞親が両手を振り下ろす。頼家は剣を構えたまま動かなかった。
「若君!」
景時が頼家に駆け寄って見ると――頼家は気絶していた。
琵琶湖を北上する船の上では、阿火局が重傷の新三郎と胸に矢が刺さった大姫を介抱していた。
「俺より、大姫様だ。絶対、死なせるな!」
「わかっているわ!」
用意してあった薬箱を横に置くと、急いで大姫の胸をはだけさせた――阿火局は安堵の表情に変わる。大姫の他の傷を確認した後、阿火局は言った。
「兄上、大姫様の怪我は軽いわ」
「海野殿の弓だぞ。そんなわけは――」
新三郎は阿火局の手に持っている物を見て納得した。絹の子袋に矢が刺さっている。それはいつも大姫が首から掛けているのを何度も見ていた。
「雄雛の人形か――義高様が守ってくれたのだな」
水夫が阿火局に声を掛けた。
「予定通り叡山の麓に向かいますか?」
「――いいえ、若狭国の近くに行ってちょうだい」