第53話 建久八年(1197年8月) 大江の策・前編
建久八年八月。頼朝は上洛軍を発した。先陣はいつものように畠山重忠。続くのは和田義盛、殿は千葉常胤。頼朝の周りは梶原景時父子が固める。北条義時は政子の護衛に、望月重隆と安達新三郎は大姫の護衛を務めることとなった。
頼朝の恫喝とも言える上洛に対し、朝廷はすぐに反応した。丹後局からの使者が来て、近江国の野路宿近くにて、大姫入内をお祝いする舞を用意していると、頼朝に伝えた。さらに、西国からは草薙の剣が見つかったので、ぜひ将軍家から朝廷に渡して欲しいという知らせが届くと頼朝の得意は絶頂になった。
「どうだ、大江よ。そなたが口うるさくいう天も、我を祝福しているではないか」
「まことに――草薙の剣を受けるときに神楽を舞ってもらうよう、丹後局が用意した白拍子にお願いしてみましょう」
頼朝は近江国の野路宿に着くと、頼朝が選んだ御家人三百人と梶原父子率いる護衛兵を連れて琵琶湖畔の舞台に向かった。ただ、叡山の一部に不穏な動きがあるとして、重忠と和田義盛は野路宿に残された。
舞台の近くには琵琶湖を渡ってきた千人近くの遊女たちが集まっていた。富士野の巻狩りのときに遊女別当に命じられた里見義成と、護衛の梶原景時が遊女たちを舞台に近づかないよう整理する。
すると、舞台を見る御家人とそれ以外の兵が、遊女と遊びに誘われる兵たちによって遮られ、御家人たちが包囲される形となった。大江が敷いた遊女陣である。
湖にせり出すように社殿を模した朱色の舞台とコの字型の回廊があった。舞台の左右には遊女を乗せてきた船が灯で湖面を照らしている。頼朝家族がそれぞれ乗った大きめの輿は、舞台の正面に据えられた。そこで頼朝が大姫入内を宣言し、御家人たちから祝いの言葉が沸き起こった。
しばらくすると、湖から白拍子九人と鳴り物を持った奏者が船に乗って回廊に上がり、左右の廊下を衣擦れの音をさせながら渡ってきた。中央の舞台で配置につくと、鼓が鳴り、舞が始まった。
姫宮の水干だけが金色で、後は皆、黒色の水干を被っている。曲は黄竹。鶴岡八幡宮で静御前が舞ったものだ。御家人たちもそれに気づくと騒めいた。
皆が舞台に目を向けるなか、大姫だけが輿の中で泣いていた。隣の輿の政子は心配そうにそれを見ていたが、新三郎が大姫に近づいて何かささやくと、大姫はすぐに泣き止んだ。驚いた政子は側にいる北条義時に声をかけた。
「あの子が泣きわめくと思って心配していたけど、どういうことかしら?」
「新三郎は大姫様が一番信頼を置いている武士です。上手く言って落ち着かせたのでしょう」
しかし、義時も大姫があっさり泣き止んだことを不思議に思った。
舞が終わると、あたりは感動に包まれていた。それほど姫宮の舞には力があった。他の白拍子も姫宮を際立たせるための踊りをしていた。
続いて、草薙の剣を持っているという武士団が行列を作って入ってきた。先頭は神人で次に白絹に包まれた箱を掲げる武士たちがいる。舞台では白拍子たちが神楽を舞って受領に華を添えている。
警護のため頼朝に近づいてもよい武士の数は二十名に絞られ、前に進んだ。箱に注目していた御家人たちのうち数人が後方の山の中腹に起こった異変に気付く。少しずつ炎が灯りはじめ、文字のような形になっていった。その文字が“悪”であることを御家人たちが理解する前に、白絹に包まれた箱は火を噴き、頼朝の周りにいる護衛兵に投げられた。
「朝敵頼朝! 勅命により、お前を討つ!」
先頭の神人がそう叫ぶと黒刀を抜いた。周りの武士たちも太刀を抜く。後方にいた武士たちも頼朝目がけて斬りこんできた。
口々に「三河守範頼の家人、何某!」「安田遠江守の仇!」などと叫んでいる。その中には薩摩に流されていた、当麻太郎もいた。
梶原景時が「将軍家を死守せよ!」と叫ぶ。御家人たちも太刀を抜くと、祝いの場がたちまち死闘の場に変わった。
混乱の中にも関わらず、姫宮ら白拍子たちは陶酔しているように舞いを止めなかった。まるで目の前の殺戮を神に捧げようとしているように――。
新三郎は大姫を輿の中から降ろした。それを見ていた政子は叫んだ。
「大姫、戻りなさい!」
新三郎と大姫の前に義時が立ちふさがる。大姫が政子に言う。
「母様! 私にもう一度命をください! 私は――生きたい!」
義時は政子を見た。政子の目からは涙が溢れていた。
「――身体に気をつけるのよ」
そう言って政子が御簾を下した。
義時も道を開けた。
新三郎と大姫は湖に向けて駆け出した。知らぬ間に覆面の貞親が二人を守るように寄り添っていた――。
御家人たちは頼朝を守るのに必死で、新三郎たちを追いかける者は少なかった。貞親は数人の御家人をさばきながら安心した。
――やるではないか、大江殿。これはすんなりいきそうだ。
しかし、そうでないことを貞親は肩に刺さった矢の痛みで知らされた。
目の前に海野幸氏が弓を構えていた。新三郎の腕にも矢が刺さっていた。貞親は二人の間にかばうように立つ。
海野が叫んだ。
「大姫様戻られよ! 逃げる先には死しかありません!」
新三郎も叫び返す。
「海野殿、大姫様のためだ。見逃せ!」
「大姫様は皇子を産んで国母になる。この国で一番大切にされる女です。その立場を捨てるのであれば、大姫様の命はこの幸氏の手でいただく。お二方も私の腕はご存じでしょう。逃げるのは無駄です」
「そうかな」
貞親は言った。
「矢の真向かいにわしがおれば、大姫には当たらぬ。走れ、新三郎! わしが盾になる」
貞親は海野に向かって走り出した。
「愚かなことを。一撃で壊れる盾など意味は無い」
海野は狙いを定めると矢を放った。貞親は太刀で盾にして突進してきた。
矢の一撃目は太刀に当たって弾かれた。
「どうだ、起用だろう。距離を詰めれば矢の方向は大体わかる」
「くっ! だが、こちらも動けば良いだけ!」
海野は横に飛びのきながら、次の矢を貞親の脚に放った。
貞親が刺さった矢で転ぶのも見ずに、海野は新三郎たちを追う。
――まずい、この距離では届かぬ。旗が立っている船がある。あれに乗って逃げるのか? 時がない。どうすれば大姫様の脚を止められる?
海野は大姫に向かって、叫んだ。
「大姫様! 義高様を殺した男を知りたくはないですか!」
果たして大姫の足は止まった。
「あれは、海野の策です。聞いてはなりませぬ!」
振り向いている大姫に新三郎が言った。
「義高様を殺したのはこの幸氏です。信濃に逃げられては、信濃にいる私や望月の一族も皆殺しにされる。それが理由です」
「海野の言う事は偽りです!」
大姫の身体は固まってしまった。海野は充分すぎるほど、矢の届く位置まで来た。
「大姫様、お別れです」
海野はまず新三郎を射抜いた。新三郎はかろうじて致命傷を避けたが、動揺して動けなくなっている大姫を抱えながら、逃げ切るのは絶望的だった。
――ならば、死ぬまで矢を受け続けるだけ。
新三郎は大姫の目の前に立ちはだかると、両手を広げた。
「いいでしょう、新三郎殿。私も矢を放ち続けます」
望月は心臓を狙って矢を放った。
――キィン!
横から何かが飛びこんできて、矢を跳ね返した。
海野には何が起こったかわからなかった。そして目の前にいる騎乗の男が何者かも。その男は馬から降りると新三郎の前に立った。
「我が名は関羽!」
全身、鋼色の男は名乗りをあげた――。