第50話 建久六年(1195年6~12月) 頼朝の変化
西河の遊郭“天女”では磯野禅尼が、島津忠久、本田貞親、阿火局が迎え、酒宴を開いていた。皆の前では禅尼の弟子たちが白拍子の舞を披露している。忠久は貞親に酌をして、頭を下げた。
「義兄上のおかげで薩摩からの年貢も安定しました。西国は平家ゆかりの武士も多いので反乱を抑えるのも大変でしたでしょう」
「結局、忠久は薩摩に来たのは、一カ月程度だけだったな。ほったらかしにしおって。わしが反乱したら薩摩は三日で落ちるぞ。あと、何かというと流人を薩摩に送ってくるのはどうにかならんのか? また当麻とかいう武士が流人として来たぞ。朝廷と親しいのなら進言しておいてくれ」
忠久は貞親の嫌みを、いちいち謝りながら聞いている。
「しばらく秩父に戻るぞ。殿に話して父上と交代することになった。忠久、きちんと父上に挨拶してこいよ。わしらはこのまま京から秩父に行く」
「獅子若たちがいませんが――」
「もう大きくなったので、薩摩に置いておく。父上の甘やかしが心配だが」
舞を見ていた阿火局が禅尼に聞いた。
「禅尼、あの顔に傷がある子、他の弟子と動きが違いますね。何者ですか」
「姫宮よ。とても筋がいいでしょ。静ほど繊細では無いけど、代わりに人の心を打つ激しさがある。二人目よ、私の持っている芸のすべてを教えたくなったのは」
禅尼は声を弾ませて言うと、阿火局に顔を近づけた。
「牧の方から頼まれたの。この子を一人立ちできるようにしてくれって」
頼朝が京での滞在で使用している六波羅の屋敷では、大江広元が源頼朝に詰め寄っていた。
「まんまと京の魔力に絡めとられましたな。だから言ったのです。東大寺の落慶供養が終わったら、すぐに鎌倉にお戻りするようにと」
「何のことだ?」
頼朝はとぼけた。
「丹後局に近づきすぎです。入内を餌に権力と財力をむしり取られて後悔しますぞ。あの方が、大天狗に寵愛されたのは美貌のせいだけはありません。謀ができるからです。上様も女天狗と化かし合うつもりでお相手をなされませ」
「そう悪く言うな。丹後局が持ってきた話は悪くはない。大姫を天皇へ入内させる。そして皇子を産めば、朝廷に対してもっと意見ができるようになろう。それでこそ、新しい世作りが前に進むではないか」
――外戚になり、朝廷を支配する。それのどこが新しい世だ? 平清盛と同じではないか! その後、清盛は後白河法皇と対立して平家は滅んだではないか!
大江はそう言いたいのを堪えて続けた。
「だからと言って月輪殿(九条兼実)をないがしろにする必要はないでしょう。どれだけ我々に理解を示し貢献されたか。御家人にも月輪殿に近づくなと命令したのはなぜです? それが丹後局の出した条件なのですか?」
「確かに月輪殿は見識もあるし、道理もわかるお方だ。大天狗の好き勝手を封じるには最適だったろう。しかし、今は朝廷の顕職に摂関家のものばかり登用して、政治の硬直化を招いておる。これはいけないと思わぬか」
「どこかで聞いた意見ですな。そう、丹後局と仲の良い土御門通親卿の意見とそっくりです。丹後局に吹き込まれましたな」
話を交わそうとする頼朝を大江は逃がさない。
「そう、怖い顔をするな。わかった、もうごまかしはせぬ。月輪殿の娘はすでに入内している。大姫が入内したときの邪魔になると思わないか」
「土御門通親卿の養女も入内しています。上様を月輪殿の排斥に利用した後は、知らん顔をする。公卿とはそういう類の人間です」
頼朝はなだめるように言った。
「そう先走るな。月輪殿の失脚させることよって、その娘も天皇から遠ざける。それが丹後局の話ではあったが、我はまだ月輪殿との縁を完全には断ち切らないし、大姫の身体の問題もある。今すぐ結論を出す必要はあるまい。ゆっくりと考えていこう。我はこの後、景時と話すことがある。今日はもう下がれ。誰か! 景時を呼んでまいれ」
話を強引に打ち切られ大江は下がった。すでに大江の頭の中は朝廷に対して、どう手を打つか考えていた――。
七月に頼朝以下、御家人が鎌倉に戻った。大江はずっと朝廷の動きを探っていたが、八月に天皇に入内している、九条兼実の娘が女児を産んだ知らせが入った。
――皇子ではなかったか……。月輪殿もこれで終わったな。上様は月輪殿を捨てて、入内へ向けて進むだろう。だが、そうなってもらっては困る。
大江は家人を呼ぶと、大姫と親しい人物を調べ上げ、名簿を作るよう命じた――。
新三郎は薬の名簿を見ながら、納得のいかない顔で阿火局に聞いた。
「確かに毒は無かったのだな……」
「兄上から送られた書状に記してあった薬の中にはないと言われました。病については実際に見てみないことにはわからないと」
「宋の名医がそう言うのだったら、素人の我々としては、どうしようもない……」
「――兄上、こだわっている理由は何ですか?」
「義時殿に調べてもらったのだが、医者を紹介したのが牧の方というのが引っかかる。大姫様も幾度も病にかかっているが、医者を変えようとしない。これも気になるのだ。お前なら私の気持ちがわかるだろう?」
そう言われると、阿火局も考え込むしかない。牧の方が頼朝の一族にたいして悪意を持っていることは、側にいた阿火局が良く知っている。そして、常に何か企まずにはいられない気性だということも。
「医者を見張って見ますか?」
「止めておこう。知識の無い我々にとっては、何か見つけたところで証拠かどうかがわからぬ――それに牧の方にとってお前は裏切り者だ。近づかないほうがいい」
十月に鎌倉で話題になったことがあった。頼朝の叔父である護念上人が越後からやってきて、大姫の病気を治したのだ。
争乱に加わることもなく、権力の外で修行していたこの叔父は、頼朝にも危険視されていないばかりか、聖者として尊敬を受けている。護念上人に頼朝は大姫の病気治癒の加持祈祷をお願いした。すると、一日で大姫は回復した。
頼朝は大いに喜び、褒美と所領を寄付しようとしたが――思うところがある、と断って護念上人は越後に帰っていった。
この話を聞いた新三郎は、すぐに護念上人を追い掛けた。鎌倉を出たあたりで追いつくと、目の前で膝まずいた。
「上人様、道で声をお掛けする無礼を許してください。なぜ、大姫様は一日で治ったのですか? 本当に邪気のせいなのでしょうか? 大姫様が飲んでいた薬が間違っていたのではないのでしょうか?」
上人は何も答えず、ただ新三郎を見下ろしていた。
弟子の僧が新三郎を引っ張ってどかそうとしたが、座り込んで頭を地につけたまま上人の袈裟の裾を離さなかった。
「お願いします! 大姫様のお身体を何とか治したいのです! そのためにはどんな小さなことでも知りたい。何卒! 何卒!」
上人は弟子を制すると、静かに言った。
「あなたの問いには答えられぬ。私は医者ではないから、病気のことも薬のこともわからぬ。私が言えることは、加持祈祷をする前に、お香で大姫様を眠らせ、誰も近寄らせなかった。数日かけて祈祷するはずだったが、一日で大姫様は回復なされた。だから私が治したわけではない。それだけだ」
「――ありがとうございます!」
「私も礼をいう。良い魂に出会えた」
十二月。土御門通親の養女が天皇の皇子を産んだ。これを機に朝廷内では九条派から土御門派に鞍替えする公卿たちが続出した。鎌倉からも距離を置かれている九条に、もはや求心力は無くなっていた。
別の意味で安心したのは大江だった。これで頼朝が天皇の外戚になることを諦めると思ったし、実際、頼朝も諦めかけた。しかし、丹後局からの使者が来ることで変わる。
「土御門卿は皇子の立太子はしばらく行わないそうだ。大姫入内に遠慮してくれている」
「好意だと思っているのですか?」
「それ以外に何がある。自身が外戚になるのを我慢してくれているのだぞ」
「違います。月輪殿をまだ完全に追い落としてないからです。ここは月輪殿と手を結び直したほうが、大姫入内の駆け引きも有利になります」
「ふふふ、大江が心にも無い事を言う。その手には乗らんぞ。丹後局と土御門卿とはもうしばらく手を結んだままでいる。わかったな」
――あれだけ聡明な上様が、大姫入内に関してはまったく先が見えていない。
大江は屋敷に帰ると、家人に指示して作らせた大姫の親しい者たちの名簿を見なおした。