第49話 建久五年(1194年8月~1195年5月) 母と娘
京から頼朝の甥で、一条能保の子・一条高能がやってきた。高能は源氏門葉の中でも、頼朝から特に期待をかけられ、十代で高い官職を与えられている。鎌倉では頼朝の家族たちとともに、いろいろな儀式や舞楽などに参加した。
高能が呼ばれたのは、今年で十六歳になる大姫との縁談のためだ。政子が三年前から考え、何かと高能と大姫が同席する機会を作っていた。高能は見た目も悪くなく、京育ちなので品もある。頼朝の同母姉の息子なので、血統も申し分ない。頼朝も反対することは無く、政子の好きに任せていた。
一条家でもこの良縁を喜んだ。ただ、高能は政子が大姫に対しての接し方に、いちいち口を出してくるのが煩わしかった。どこで調べたのか、高能の女遊びを注意してくるのにもうんざりした。
ここまで、政子が時間をかけて念入りに仕込んだのにも関わらず、大姫からの答えは激しい拒絶だった。
「前からずっと嫌だと言ってたではありませんか! これからも、話を進めるのだったら、大姫は海にこの身を投げます」
やってられないのは高能である。政子の言うとおりに贈り物や恋文を送ったあげく、帰ってきた答えは、嫁になるぐらいなら自殺する、だ。これだけでも大恥なのに、これ以上、大姫に言い寄れるものではなかった。
「この話はもうこれ以上進めるのはよしましょう」
高能からも女官を通して断られてしまった。
政子はがっくりきてしまった。病気がちなのは清水義高の死を引きずっているせいだと政子は信じている。何とか忘れさせようと、いい相手を探し、大姫の機嫌を取りながら十年待っての縁談だった。でも、徒労に終わってしまった。頼朝に愚痴を言うと、
「大姫に気を遣いすぎたのが良くなかったのだ。気持など聞けば意地を張って断るに決まっている。こちらで決めて、無理にでも一緒にしてしまえばいい。どんな相手でも時間が経てば愛情が湧いてくるものだ――次は我が考える」
そう言って、政子をなぐさめてもくれなかった。
政子は大姫が描かせた義高の絵を見て願った。
――義高殿。頼むから大姫の心から成仏しておくれ。
義高の菩提を弔うため、政子は大姫を伴い特別に法事を行った。改めて義高はもうこの世にいないということを、大姫に分かってもらうために。
法事が終わり、大倉御所に戻った後、政子は大姫に言った。
「あなたの歳は義高殿をずいぶん越してしまったわ。あの絵とあなたを見比べてごらんなさい、姉と弟のようです。十年よ。気持ちの整理がつくのには充分な年月だわ」
大姫は黙って目だけで抗議した。
「海野も望月も立派な若武者になったわ。いつまでもあなたの側に置いておけない。そうなったら、義高殿ゆかりの者もいなくなるわ。忘れるなら早いほうがいい。法事ならいくらでもしてあげる。だから新しい幸せを――」
「忘れません! 新しい幸せなどいりません!」
ぴしゃり! 政子は大姫の顔を強くぶった。政子の顔は涙で濡れている。
「なぜ母の愛がわからないの。そうよ、きっとあなたは取り憑かれているのよ。名のある修験者にお祓いをしてもらいましょう!」
「義高様を悪霊みたいに言わないで!」
「いいえ、私にとって義高殿は悪霊よ! あなたの心をがんじがらめに縛って、病ばかり起こさせ、父母の心まで重くする」
その後、政子は体を伏せて泣き続けた。しばらくして大姫は立ち上がった。
「わかりました、お母様。忘れるよう努力いたします」
感情の無い声で言うと、大姫は義高の絵を裏返した――。
それから大姫は義高のこと口に出さなくなった。政子はそのことがうれしく、江間義時を呼んで話していた。義時は話を会わせていたが、大姫の表情が十年前に近くなっている気がして不安だった。
義時の心配は当たった。十一月十日に大姫は急な発病で危篤に陥る。医師の見立てでは、死も覚悟しなければならない状況で、御所内は騒然となった。枕元には医師のほか、政子と義時がいた。政子は大姫の額の汗を拭いていると、大姫がうなされて声を漏らした。政子が耳を近づける。
「よしたかさま……」
政子は大姫の手を握って詫びた。病を重くしている原因が自分だと知ったからだ。
「ああ、許しておくれ。死ぬような病になるほど、苦しめていたなんて思わなかった。もう母は何も言わないから、死なないで! 生きていてくれるだけでいい! お願いよ」
そう叫ぶと政子も気を失ってしまった。義時は政子を隣の部屋に寝かせて戻ると、大姫がまたうなされながら、何か言おうとしているのに気づき、耳を寄せた。
「たすけて……、しんざぶろう……」
義時は何も言わず、政子の代わりに看病させる侍女を呼ぶために立ち上がった。
三日後、大姫の病状は回復に向かったので、御所に詰めかけていた人々も帰って行った。大姫が目を覚ますと、壁にかけられた義高の絵が表に返されていた――。
明くる建久六年二月。頼朝は上洛のための準備として、新三郎を先行して京に発たせることにした。東海道の宿駅や、川にかける舟筏の橋の用意などをするためである。命令を受けた後、御所内を歩いている新三郎に声をかける者がいた。
「今度の上洛では、本田貞親たちは来るのか?」
「ああ、義時殿。薩摩国も落ち着いているようなので、京に来て忠久や重忠殿と今後のことを話すようです」
「それは楽しみだな。大姫様も知っている人間が増えれば喜ぶだろう」
「大姫様の件ですが、一つお願いがございます。大姫が頻繁に病気になっているのが、どうも気にかかります。薬のことを調べてもらえませんか? 医師についてもお願いします。義時殿なら奥のこともわかるかと」
「わかった。それとなく姉上にも聞いてみよう」
二月十四日。東大寺の落慶供養のため、頼朝は政子と子を連れて鎌倉を出発した。先陣はいつもように畠山重忠が務める。上洛の途中、叡山近くで平家の残党と僧兵たちに襲撃を受けたが、簡単に撃退して、人々の噂にもならなかった。
三月十二日。頼朝は東大寺に入る。その日は朝から和田義盛と梶原景時が数万の兵で東大寺周辺や道の辻を警備していた。頼朝が着座した後に、天皇、摂関家をはじめとする多くの公卿たちが入ってくる。それから千人の名僧たちが入ってきて、荘厳な落慶供養が行われた。
三月十六日。頼朝は京に戻る。今度の上洛では前と違い、三カ月以上に渡って京に滞在した。もう一つ変わったことは関白・九条兼実への態度である。
この盟友に対して頼朝が行ったことは、いつもより贈り物を極端に減らし、九条兼実の政敵に有利になるよう動いた。
その政敵の名は丹後局という。後白河法皇に寵愛されたのを背景に朝廷に大きな影響力を持ち、後鳥羽天皇を天子に立てることを進言したとも言われている。
それでいて、頼朝が法皇とやりあっているときも、頼朝と贈り物を交換するなど、抜け目のない女であった。
頼朝は二回も丹後局に政子と大姫を引き合わせた。そのときには丹後局に大量の贈り物をしただけではなく、共をしてきた者たちにも品々を与えた。大盤振る舞いである。
大姫は気づいてはいないが、頼朝の目的が政子にはありありとわかった。なぜなら自身がこの前まで大姫にやっていたことだからだ。
――大姫のために止めてあげたい。
しかし簡単に口を挟める問題ではない。せいぜい引き延ばすことぐらいだろう。
政子は頼朝をよく知っている。誰が止めても頼朝は止まらないだろう。後鳥羽天皇に大姫を妃として入内させるつもりだ。政子には相手が断ることを願うしか術はなかった――。