第48話 建久四年(1193年8~12月) 欠ける門葉
伊藤悪七兵衛景清が三河に潜入して一カ月も経つと、鎌倉では源範頼の謀反の噂が真しやかに流れていた。三河で己に敵対しそうなものを次々、殺しているという。
範頼にとっても寝耳に水だった。しかし鎌倉にいるため三河の状況がわからない。慌てて、これからも永遠に頼朝とその子孫に忠義を尽くすという内容の起請文を書いて渡したのだが、これが頼朝の勘に障った。
――名前に“源”の字を書くあたり、傲慢さが透けて見える。お前ごときが一族のつもりか? 笑わせてくれる。
頼朝の言葉を大江広元から伝えられた範頼は戸惑った。今までも“源”の字を入れており、また、まぎれもない弟なのに一族ではないとはどういうことなのだ。それを聞いても、大江からは何も答えは返ってこなかった。
範頼が曽我兄弟の事件の際に政子に言った言葉は、大きな衝撃を頼朝と大江に与えた。盲点に気づかされたと言ってもいい。二人とも四十代の働き盛りなので、未来しかみておらず、“死”について考えたことなどなかったからだ。
もし、頼朝が死んだ場合、嫡子・頼家はまだ幼く、成人するまでは、後見人が政治を見ることになるだろう。外戚の北条時政は能力こそあるが、まだ無位無官で、御家人の人望も厚いとはいえない。
そうなると、人は源氏の嫡流という血の元に集まるだろう。また、範頼は元・平家追討軍の総大将という経歴も持っている。
――あの、凡庸な男に新しい世を作れるか? 朝廷と渡り合えるか? 御家人たちを抑えきれるか? 儀式のときの門葉の席順は平賀義信を上にしてはいるが、範頼の馬鹿はそのことを深く考えているようではなかった。
頼朝と大江は仮定の想像を話し合い、悲観させざるをえなかった。そして、頼朝は範頼が弟というだけで自分に近い地位にいることに、“源”を称することに、我慢できなくなったのだ。大江も不安になったのか、まず頼朝の護衛を増やす差配をした。
一方、範頼の脳裏に浮かんだのは、義経が追い込まれていった姿だった。弁明を無視され、反逆者に追い込まれる経緯を生半可に知っているだけに、恐怖しかなかった。範頼はどうすればいいかわからず、おろおろするだけだった。
そんな範頼を見て、家人の当麻太郎が暴走する。起請文を出してから八日後に頼朝の寝所の下に忍び込んだのだ。しかし、怪しい気配を感じた頼朝は護衛を静かに呼ぶと当麻太郎を捕まえさせた。この男は勇士で有名であったので範頼の家人だとすぐにばれた。頼朝は御家人に尋問させると、当麻太郎は答えた。
「我が殿は起請文を差し出した後、上様からの御沙汰が無く悩んでおります。そこで私は上様のご意向を知ることができないかと、隠れていただけです。陰謀などとんでもない」
当麻太郎は必死に詫びたが、そんな理由で一々、寝所に忍び込まれていては頼朝もたまらない。範頼の運命はこれで決まった。
七日後の八月十七日には、当麻太郎は薩摩国へ流刑となった。範頼も伊豆国へ送られる。帰りの日が決まっていないので実質、流刑と同じである。残った範頼の家人たちによる襲撃も梶原景時らによって未然に防がれた。三河国で多発していた殺傷事件も自然と収まり、人々はやっぱり範頼の謀反であったかと、と勝手に納得していた。
大倉御所では新三郎が大姫と望月重隆と笑い合っていた。大姫の病気が治ったと聞いて、新三郎が挨拶に訪れていた。
「海野殿は今日も流鏑馬ですか?」
海野幸氏は由比ガ浜で扇の的を打ち落として以来、弓の名手として評判になった。今では頼朝のお気に入りで、流鏑馬があるときは必ず声をかけられていた。
「流鏑馬ばかりやっているから、曽我なんぞにやられてしまうのだ!」
「望月殿は手厳しい。闇夜の襲撃には弓は不向きだから、仕方あるまい」
大姫は望月をからかうように言う。
「あら、そんなこと言っているけど、海野が富士野で怪我をしたという知らせが来たときは、望月が一番心配していたのよ」
「――そうでしたかね」
望月は横を向いてとぼけた。
「望月も上手いのだから、海野と練習すればいいのに。前は一緒にやっていたじゃない」
「神に捧げるだの、天が見定めるだの、このごろのあいつはおかしい。神に仕える神人のようで、いっしょにやると肩が凝る。私はもっと弓を楽しみたいのです」
大姫は困った表情で新三郎を見る。
「海野も望月も信濃の名族の出なのよ。御家人にもなって所領ももらっているのに、いつまでも私のお守りをしていては駄目。もう二人とも二十歳なんだから――新三郎からも言ってあげて」
望月は笑いながら言う。
「私はいつまでもお守りで構いませんよ。気楽ですから」
「もう! 真面目に聞きなさい――あれは?」
大姫は御所側の廊下を歩いている老人たちを見た。一人は足を引きずって歩いている。
「あれは確か――」
「岡崎義実殿と大庭景能殿ですな」
「お二人とも頭を丸めているわ!」
「もう年を取りすぎたということで、出家なされるそうです」
「どこか悲しそうに見えるけど、気のせいかしら――こら、望月!」
他を見ている隙に、望月は大姫の説教から逃げていった。
伊豆国のとある寺の御堂。武士の悲鳴で範頼は目を覚ました。
「誰だ! 上様の差し金なのか! 私は謀反などせぬ。だから許してくれ」
小袖一枚の姿で立ち上がる範頼。扉が蹴破られると一人の武士と、赤地に金で“悪”の文字を染め抜いた、旗指物を持った少年がたっていた。
「許せぬな。滅ぼされた平家の恨み晴らさせてもらう。我が名は伊藤悪七兵衛景清。平家の侍大将である。最後に言い残すことあるか」
「助けて――」
景清の足もとにすがろうとした範頼だが、首はもう無くなっていた。景清の後ろから、牧の方が手を叩きながら現れた。
「仇討ち、おめでとう」
床に転がっている範頼の頭を見ながら言う。
「最後の言葉ぐらい聞いてあげればいいのに」
「命乞いは――言葉ではない。義経は幾人か平家の命乞いをしたが、こいつは平家の誰も助けようとはしなかった」
「坊やは、何をぼーっと見ているの?」
牧の方は御堂の中で仏像を見ている、痣丸に声をかけた。
「痣丸、行くぞ」
痣丸は駆け足で、二人を追いかけていった――。
十一月二十八日、安田義資が女のことで首を切られた。前日、永福寺薬師堂供養でお経を、頼朝以下の御家人・女官たちが厳粛に聴いているときに、恋文を女官へ投げ込んだからだ。
それを目ざとく見つけた者から梶原景時に伝わると、信心深い頼朝が嫌う行為を知っている景時は、ここぞとばかりに報告した。そして即座に処刑されたのである。また、その父の安田義定も頼朝に嫌われてしまい、十二月五日には所領を取り上げられた。
これで甲斐源氏の最後の有力者も失脚した。空いた三つ守護職と所領は御家人たちに分配されることになる。
「ちと、頑張りすぎでは無いのか、梶原殿。忠義も度が過ぎれば恨みを買いますぞ」
北条時政は御所内の廊下で梶原景時に声を掛けた。
「忠義などという陳腐な言葉で、上様とわしの関係を語らないでいただきたい。心が繋がっているのだ。北条殿にはわしが先走っているように見えるかもしれぬ。しかし、わしは上様の心の奥の命令を受けているのだ」
「それは、上様の決断前に動いていることにはなるまいか?」
景時はそれには答えず、別のことを話した。
「それはそうと、曽我兄弟に工藤佑経が討たれた後、伊豆国を掌握されたようですな。駿河国も含めれば二カ国だ。外戚の威を振りかざすこともなく、慎み深い北条殿がどうしたことかと、この景時、少々驚いております」
「これは、これは。ご心配いただき感謝する」
去っていく景時の後姿を見ながら、やはり警戒すべき敵だと時政は思った。