第45話 建久三年(1192年) 征夷大将軍
建久三年三月十三日寅の刻(午前四時)。この国に大きな転機が訪れた。前年の暮れから病に伏していた後白河法皇が大腹水により崩御されたのだ。
後鳥羽天皇がまだ十歳ということもあって、院と鎌倉の関係は軟化していく。頼朝がずっと願い続けていた、征夷大将軍への任免も七月十二日に朝廷ですんなりと決定される。
元々、反対していたのは後白河法皇周辺だけで、その理由も頼朝が欲しがる官位を手札として持っておきたい、というものだったからだ。
七月二十六日。鎌倉は新大倉御所で征夷大将軍の任命式が行われた。まず、朝廷からの使者が鶴岡八幡宮に入り、任命書を三浦義澄が十名の御家人を引き連れて受け取りに行った。頼朝は衣冠束帯して西の廊下で待つ。周りは御家人たちで埋め尽くされていた。皆の注目の中を三浦義澄が任命書を捧げ持ち、膝のみで前に進み出た。
誰もがうらやむ名誉が三浦義澄に与えられた理由を頼朝はこう語った。
――三浦義澄の亡父である三浦義明が衣笠城の戦いで頼朝に命を捧げたからだ。三浦義明の代わりに、息子に名誉を与えよう、と。
義澄の晴れ姿を、義明を討った張本人である畠山重忠や、衣笠城を攻めた秩父党の御家人たちも、良かった、良かったと、まるで手柄の手助けをしたかのように喜んでいた。
坂東武士のさわやかさであり、深く考えないところでもある。
頼朝はうやうやしく任命書を受け取った。周りの御家人たちの祝賀の言葉はしばらく止みそうになかった――。
頼朝の慶事は続く。八月九日には二十以上もの寺院の安産祈祷の中、政子が無事、二人目の男児を産んだ。千万と名付けられ、乳母は頼朝の義弟・阿野全成の妻で政子の妹の阿波局に決められた。
九月二十四日。政子の弟である江間義時に、比企朝宗の娘・姫の前が嫁いだ。御所内でも美しいと評判の女官だった。義時がずっと恋文を送り続けたのだが、全然相手にされず、それを見かねた頼朝が、絶対離縁しないと誓紙にかかせ、間を取り持ったのだ。
「――何だか話が出来すぎていませんか?」
大倉御所の奥で政子が義時を疑いの目で見て言った。
「姫の前もあなたも大倉御所内でよく見かけているのに、全然気づきませんでしたよ」
「恋文を人前で渡す者はおりません。それにずっと相手にされていませんでしたから――」
「あなたらしくないわ。一途な恋なんて。比企家と繋がりを持つために嫁にしたと言われたほうが、よほど納得がいきます。それに姫の前は比企家の後ろ盾があるから、御所内でも力を振るっています。あんな権高い女が好みだったの?」
「そうかもしれません。私は姉上のことも好きですから」
「憎まれ口をきかないの!」
政子は持っていた扇子で床を叩いた。
「いったい、何が言いたいのです」
「殿のご命令ではないの? 丹後内侍のように」
丹後内侍とは、頼朝の初恋の人で今は安達盛長の妻になっている女である。
「あなたと姫の前よりも、殿と姫の前のほうがおかしいと感じていたわ。私が子供を身籠ると、決まって浮気をなさるのが殿です。それも年々巧妙に――」
政子は嫉妬を隠そうともしない。政子が愛されていないのであれば、まだ諦めもつくのだろうが、千万で第四子であり、頼朝は決して政子を放っておいてはいない。それでいて、しょっちゅう他の女に手を出す。だから余計に腹が立つのだ。
「姫の前で無いとしたら、殿が手をつけていた女は誰なのよ!」
「そう決めつけては、おかわいそうですよ。御所も将軍家と呼ばれるようになりました。お変わりになることもあるでしょう。これ以上、問われましても私の答えは同じですよ。他に用が無いのであれば、これにて失礼」
話を打ち切って立ち上がろうとする義時を見て、政子は言った。
「胸元に大きなひっかき傷があるけど、どうしたの?」
「可愛い猫にやられました。――いや、化け猫か?」
義時は笑いながら立ち去っていった――。
十月三十日。牧宗親の家が燃えていた。別の場所にいた牧宗親は慌てて戻ると、秘蔵の琴を何とか持ち出すことができたが、屋敷は全焼してしまった。
「風が強いと思ったけど、この程度では駄目ね」
「少数で大火を起こすのは難しい。天候を読める物がおらねば――」
牧の方が燃え落ちていく屋敷を見ながら、布で顔を隠している伊藤悪七兵衛景清と話していた。
「まさか……」
牧宗親は燃えてしまった頬髯のあたりをさすりながら近づいた。
「お前がやったのか!」
「ええ、最近とても嫌なことがあったの。これで少しはすっきりしたわ。ありがとう、兄上」
「許さんぞ!」
牧の方の胸倉をつかもうとする牧宗親を景清が引き剥がした。牧宗親は離された勢いで尻もちをつく。
「ちょうどいいじゃない。これで、兄上も駿河に戻りやすくなったでしょ。遊郭が兄上を待っているわ」
見下ろしてそう言うと、牧の方は景清を連れて帰っていった――。
永福寺の一番大きな庭石を畠山重忠が持ち上げると、どよめきが起こった。佐貫廣綱、大井実春とともに、大力自慢の御家人が呼ばれて庭石の配置を変えているのだ。
以前、他の多くの御家人たちと庭を造ったのだが、頼朝が気に入らなかった。そこで静玄という僧に命じて、造り直させているのである。
「相変わらずの大力だな。皆が噂している」
寺の縁側で汗を拭いている重忠に義時が話しかけた。
「義時こそ、大層な美人を嫁にしたと噂になっているぞ。三十前にしてようやく正室を決めたな。これからは、やる気を出していくのか?」
「いつも出しているさ。重忠と違って分かりづらいだけだ」
「そういうことではない。おぬしが本気を出せば、もっと手柄を取れると言っているのだ。おぬしほど冷静に周りが見える者はいないと思っている。もう、戦も小競り合い程度のものしか起こるまい。これからの手柄は武芸では取れぬ。おぬしのように頭が良い奴が取っていくのだ」
「言ったはずだ。後ろにいるからこそ周りが見えると、先頭になれば、後ろで何が起こっているか見えなくなる。それに私には理想がない――」
「ふっ、頑張ってそそのかしてみたが、上手くは行かぬな。まあ、わしに乗せられる程度の頭では出世は難しいか」
重忠と義時は笑いあった。
「では、歌で名を上げてみんか? 来週、今様(流行歌)の歌会をやる予定なのだが――」
「……嫁をもらったばかりでな。そろそろ大倉御所に戻らねば」
「嫁も連れてくればいいではないか――おーい、義時」
義時は聞こえないふりをして、永福寺を後にした――。