第42話 文治五年(1189年11月~1190年9月) 大江の構想
奥州合戦の後、源頼朝が院に勝利を報告した。後白河法皇が戦を止めたのを無視して討伐したことについては、一切触れず、大庭景能の進言を参考に、
――首をお届けしたいのですが、京から遠くであり、我が家の御家人で、大した身分の者でもありません。わざわざお届けする必要もないでしょう。
と、あくまで主人が御家人を討っただけで、奥州合戦は院宣をもらうほどのことではなかったと、院への使者に白々しく伝えている。
勝利報告に対して法皇から書状が返って来た。
――奥州征伐について心配していたが、あっという間に勝利したので驚いている。古今に例のない話だ。褒美を考えているので、活躍した者の名を送ってくるがよい。また、追討を祝うために、公卿に恩赦を出すことにした。
「やり返してきましたな。一条能保殿からの書状では、|前大蔵卿高階泰経《さきのおおくらのきょう たかしなやすつね》、前木工頭範季の出仕を許し、前大納言朝方の復職、出雲守朝経の院への昇殿が決定されたと書いております」
「すべて、我が罪を許すのを拒んでいた連中ではないか! 義経に加担した公卿どもの罪はもう終わりか!」
大倉御所内に頼朝の怒声が響いた。大江広元が冷静に返す。
「鎌倉が勝手にやるのなら、院も勝手にやるということなのでしょう」
「活躍した者の名を送れというのも――」
「大天狗が新しい手駒を探すためのものかと」
「まったく困った御方だ」
大江広元は頼朝をまっすぐ見て言った。
「奥州征伐が終わった今、御所に対抗しうる武力はこの国には存在しません。それは天が源頼朝を選んだということです。天を裏切ってはなりません。古来、大陸では――」
頼朝が話をさえぎる。
「また皇帝の話か。言ったはずだ、日本の神である天子は殺せない。殺しても殺しても、天子の血脈は途絶えない。もう日本中に拡がっている。わしもそなたも天子の血脈なのだ。しかし、神は殺せなくても封印はできる。我が皇帝にならずとも、新しい世は作れるのだ」
政治の師弟ともいえる二人だが、この点に関してだけは考えが合わなかった。
「しかし、院の抵抗があり、遅々として進みません」
「武士たちが新しい世の仕組みを理解するのにも時間がかかる。我々だけ先に進んでしまっても事を仕損ずる。地頭制度のようにな」
大江広元は黙ってしまった。各地の地頭が横暴を働いているので、地頭制度は停滞していた。だが、大江は口にこそ出さないが、大いに横暴を働けば良いと思っていた。
この混乱を利用して旧制度のものはすべて壊してしまえと。頼朝がその気になれば、天下人の交代だけで終わるのだが、頼朝は丁寧に地頭を処分している。それが、頼朝の政治の優秀さでもあり、限界でもある、と大江は思っていた。
頼朝が奥州から戻って明くる年一月、死んだ藤原泰衡の家人である、大河兼任が出羽国で反乱を起こした。義経や木曾義仲の息子の義高の名を語り、兵を一万集めたという。頼朝は先の奥州合戦で奥州に所領を与えられた御家人たちに討伐を命じた。軍を二つ編成し、それぞれ、千葉常胤、比企能員を大将軍とした。
畠山重忠は奥州の所領が少ないため出陣することはなかった。
鎌倉軍が反乱軍に倍する兵力で向き合うと、敵は簡単に逃走、降伏した――投降してきた者には罪を減じると、奥州中に情報を流した効果かもしれない。一カ月後には決着はつき、敵の大将の大河兼任も三月には首になっていた。
伊豆の牧家別邸は、今では伊藤悪七兵衛景清の屋敷のようになっていた。
「久しぶりね。暗殺はいつになったら行うのかしら?」
夜半に牧の方が久しぶりに訪ねて、縁側で太刀の手入れをしている景清に言った。
「機が訪れぬ。密偵たちも持っていかれたからな」
振り向きもせずに景清は言う。
「することが無いのなら、この子たちを鍛えてちょうだい。あなたたち、入ってきなさい」
牧の方は玄関に声をかけると、三人の少年少女が入ってきた。
「だれだ。こいつらは?」
「平家軍で戦った伊東祐親の孫の曽我祐成とその弟の曽我時致よ。仇討ちできる力が欲しいそうよ」
「ほう、伊藤祐親殿の――」
“平家軍”という言葉に景清は反応した。
「仇は頼朝の寵臣、工藤祐経。二年前に一度、襲ったのよね」
曽我時致は唇をきゅっと閉じて、赤木柄の短刀を腰から抜いて景清に見せた。
「でも子供だったから、逆にこの短刀を渡されて説得されたの。それがくやしいのよね」
涙を浮かべてうなずく曽我時致の肩を曽我祐成が抱いている。
次に牧の方は、頬に傷がある少女を紹介した。
「この子は姫宮。琴が上手だわ」
「姫宮だと!? なぜそのようなお方がここに来る」
「姫宮だった。というほうが正しいわね。後白河法皇のご落胤と言われて育ち、とある事情で奥州に下ったそうよ。そこで藤原秀衡に可愛がられていたのだけど――」
「藤原家は滅んだ」
「そう。それで鎌倉にそのこと訴えたの。鎌倉でも扱いかねて京に送られたのだけど。姫宮、後は自分で話なさい」
少女は目に涙を浮かべて言った。
「院からは、そんな姫宮はいない。お前は狂人で、嘘を語る罪人だと決めつけられ、顔に傷をつけられました」
「この三人は相手も違えば、目的も違うけど、復讐したいという気持ちは同じ。そのためには力が必要だわ。だから景清の武術を教えてあげて欲しいの」
「――いいだろう。匿ってもらっている恩には応えなければな」
景清は承諾した。
「ところで、あの子に武術は教えないの?」
庭で木槌を使って何かをしている童武者を指して言った。
「武術が嫌いみたいでな。痣丸には好きなことをさせている」
「ああ、そう」
牧の方はすぐに興味を無くした。その後、鎌倉の状況を景清と話した後、三人の少年少女を残して別邸を後にした。
「今まで京に近づかなかったことが、御所の権威を高めてきたのです」
大倉御所内では、上洛の考えを話す頼朝に大江は真っ向から反対してきた。
「御所が軍を擁して上洛するというのは、院に対しての切り札です。以前は地頭制度の承認を得る際に使いました。今回は何の目的もございません。ただの凱旋です」
――ただの凱旋とは、嫌な言い方をする。
頼朝は渋い顔をした。
――十三歳で伊豆へ流罪になってから三十年、京に帰っていないのだ。凱旋もしたい。それでいいではないか。
しかし、頼朝は言わない。そんな個人的な理由では大江に軽蔑されるだけだからだ。大江の考えでは君主の行動には私情があってはならず、常に政治的意図を持っていなければならない。
「圧倒的な軍事力を京の者どもに見せて、新しい世の到来を告げるのだ」
頼朝は別の言い方をした。
「京は大天狗の土俵です。近づけば、否が応でも振り回されてしまいます。木曽義仲も弟君も、あの平清盛公でさえそうでした。みな最後には疲れ果て、追い込まれ、朝敵となって滅んでいったのです」
「心配するな。今、我を討てる敵はおらん。梶原景時が一つ一つ、脅威を取り除いている」
ようやく大江は折れた。
「――わかりました。では、お願いがございます。京に長居はしないでください。おそらく大天狗は御所を京に留めようと、手を打ってくるでしょう。京で御所に政治をさせることで院と同化させ、御所の勢力基盤である坂東武士との切り離しを狙ってきます」
「約束する」
頼朝は大江に逆らわなかった――先が見えるこの謀臣は何者にも代えがたい。その思いをますます深めたからだ。
大倉御所は上洛のための準備に追われ、大江も受け入れのために先立って京へ向かった――。