第38話 文治二年(1186年9~11月) 良縁と絶縁
静の男児救出から二カ月後、新三郎が秩父の本田貞親の父・親恒の屋敷を訪ねてきた。
「静御前は母よりも女であることを選んだ。磯野禅尼の“天女”から姿を消した。置手紙には義経殿に会うまで子を預かっていて欲しい、と書いてあったそうだ」
貞親は赤子をあやしながら話を聞いている。あの後、巴御前は信濃へ向かい、新三郎は親恒の屋敷で二週間ほど療養した後、頼朝の命により京へ静と磯野禅尼を送っていった。
赤子が生きていることを新三郎は京に着いたときに話した。泣いて喜んだ静だったが、引き取るのは義経に会ってからにしてくれと頼まれたのだ。
大姫たちは、南御堂のお籠りをすると嘘を言って、鎌倉を抜け出したことがばれて政子にこっぴどく叱られたらしい。
「しばらく、うちで預かってもいい。一カ月も抱いていると愛情も湧いてきた。我が家の近くには乳をくれる女たちもいる。ただ、坂東にいればいつか御所に気づかれる。かといって京も人目が多いからなあ。巴御前に頼んで信濃に落とすか――」
あの後、二人は無意識に阿火局の話を避けていた。景清と戦って生き残る可能性は低い。
二人が話している部屋に惟宗兄弟がやってきた。
「殿や父上との話し合いは進んでいるか?」
「はい。外祖父の親恒殿が先行して、薩摩に乗り込んでいただけるようです。向こうではよそ者が乗り込んでくることに反発があるでしょうから、戦の経験が豊富な親恒殿が側にいてくれると頼りになります」
畠山重忠と貞親の姉の間にできた娘が惟宗忠久に嫁いだことによって、貞親の父・本田親恒は惟宗忠久の外祖父になった。親恒は薩摩の所領に向かう忠久を心配して、本田家として支援することに決めたのだ。
畠山家の大事な宿老だが、重忠も賛成した。一族が外に拡がることは喜ぶべきことだし、現実問題として、京出身の惟宗兄弟には家人・郎党が少ないのだ。
「叔父上はなぜいっしょに来てくれないのですか?」
忠久は貞親にも薩摩に加勢してくれるよう頼んでいた。
「うーん、この子がなあ……。いや、この子のために行ってみるか!」
「いったいこの赤子は何なのです。誰も教えてくれない」
「いずれ、教えてやる。きっと驚くぞ」
「もういいです! 叔父上も必ず薩摩について来てくださいね!」
忠久は膨れっ面で部屋から出て行った。弟の忠季も後に続いていった。
しばらくすると重忠が部屋に入って来た。重忠は赤子のことについて一切、聞いてこない。聞かないことが、貞親の忠義に応えることだと思っているようだ。
「貞親も薩摩に行くのか? 激しい戦になるかもしれんぞ」
「わかっております。わしには二刀があるからご安心を」
「そのことだが――二刀は止めたほうが良い。あれでは雑魚は倒せても、大将首は取れん。檀ノ浦で悪七兵衛景清と戦っているのを見てそう感じた」
「なぜ? あのときはわしが押していたではありませんか!」
「新三郎、貞親と立ち会ってくれぬか」
新三郎は八角棒を持ち庭に降りた。貞親も二刀を持ち降りる。
――何だ、その眼は新三郎。おぬしもそう思っているのか? いいだろう!
貞親の連撃が新三郎を襲う。太刀筋の速さに新三郎は受けきるので精一杯だ。
「そこまで!」
重忠が立ち会いを止めた。二人が武器を下す。
「どう感じた、新三郎?」
「前の貞親のほうが怖かったです」
「!? そんなわけが無かろう。わしが圧倒的に押していたではないか」
「速さはある。しかし、まったく怖くはなかった」
「そうだ」
重忠は後を引き取って話す。
「おぬしの速さには一定の拍子がある。こういうふうに」
重忠は扇を持つと床を一定の拍子で叩いた。
「どうだ? 心地良い拍子だろう? 逆に言うとその拍子を掴めさすれば、例え嵐のような連撃でも、隙を見て強い一撃を打ち返すことができる」
貞親は腕を組んでうなると、新三郎に聞いた。
「怖くないとはどういうことだ。一撃一撃が軽くならないよう打ち込んでいるのだが――」
「重い軽いだけは無いと思う。気力が乗っているか、相手を気で飲み込むかどうかだ。最近、猿の叫び声をしなくなったな。あの一撃は怖かったぞ」
「そういうものか――少し、一人で考えてみます」
沈んだ声で言うと貞親は屋敷の裏山に行った。この山は紅葉が美しい。強風が吹いた。
紅葉が風で舞い散る中に阿火局がいた――。
「何、つまんなそうな顔しているのよ」
「おぬし――」
「あのとき以来ね」
「生きていたのか……」
「当たり前でしょ。あんたと違って要領がいいの」
「だから、あの場所を景清に教えたのか。だが、あのとき――」
「あんたの瞳を見たら弓を放てなかった。あたしを守ってくれたときと同じ目をしてた」
「しくじったな」
「そうよ。裏切者のあたしは、牧の方の元には戻れなくなった。あんたのせいで浪人よ――責任を取ってくれる?」
阿火局は真剣な眼差しで見つめてきた。貞親も見つめ返す。
「ああ、嫁にしよう。ちょうど、新三郎や弟たちも来ているところだ。祝言も上げられる」
「知ってるわ。あたしは要領がいいのよ」
二人は初めての口づけを交わした。
――文治二年十二月。惟宗兄弟は薩摩に先発した本田親恒父子を追うように、手勢を引き連れて京に入った。阿火局も磯野禅尼に会う用事があったので京まで同行した。
「貞親殿と姉上の婚姻も驚きましたが、まさか赤子までいたとは――」
「驚かしたかったと言うが、除け者にされたようでなあ」
弟・惟宗忠季が話すのを、兄・惟宗忠久は不満げに応える。
「でも、姉上が幸せになって良かったではないですか」
「同感だ。我らと三条の屋敷にいたときの姉上はお可哀そうだった」
二人が三条の惟宗屋敷の近くに来たとき、屋敷からちょうど阿火局が出てきた。
「姉上! 今、二人でちょうど姉上の話をしていたところでした。姉上も義父上にお別れの挨拶ですか」
「そんなところよ」
惟宗兄弟は阿火局を見送った後、三条の屋敷に入った。声を掛けても誰も出てこないので、二人は不審に思いながらも、勝手に屋敷に入っていった。奥の間に進むと、一番広い間に小刀で胸を一突きされた惟宗広言がいた。ヒュー、ヒューと、かろうじて息をしているが、もう助からないことは二人にも分かった。
「兄上。これは……」
「――姉上は記憶が戻られたようだな」
「医者を呼びに行きますか?」
「無駄なことだ。それよりも――」
惟宗忠久は部屋の奥に置いてあった葛籠を開けた。その中から糸で綴じられた紙の束を取り出すと。束ねている糸を小刀で切った。そして、紙の束を持って広言を見下ろした。
広言の目は見開いているが、焦点は合っていない。
「義父上、あなたは殺されて当然のことをした。幼い姉上を殴り、犯した後、泣いてる姿を見て、世の無常の歌を詠む狂人だった――だが、息子として弔いだけはさせてもらおう」
忠久は紙を広言の上にばら巻いた。広言の顔の上に乗った一枚が呼吸を塞ぐように上下する。紙には和歌が書かれている。紙の束は広言が大切にしていた歌集だった。
「義父上も歌に埋もれて死ねれば本望だろう。忠季」
「はい」
「兄上たちと同じく、我らも今日にて惟宗の名を捨てるぞ」
「何と名乗られますか」
「薩摩にもらった所領の地を名乗る。これは我々の覚悟だ」
「“島津”ですね」
「そうだ。我らはこれより島津になる――」