第37話 文治二年(1186年7月) 決着
――あのときと同じね。
伊藤悪七兵衛景清に待ち伏せ役を命じられたとき、阿火局はそう思った。二年前は貞親といっしょに義高を襲う側だったが、今は貞親が襲われる立場だ。
景清は追いかけている途中、このまま追いつけないかもしれないと考えていた。馬の数が欲しくて安い馬に手を出したため質は良くなかったからだ。
十頭いた内の五頭が早々に潰れてしまったので、途中からは馬を休ませながらきた。もっとも、そのおかげで徒歩でついてくる手勢四十名とは、それほど距離は離れていない。
――追いつくことさえできれば。
それだけを願い、阿火局の案内で秩父に向かう途中にあるという、馬の休憩場所に真っ直ぐ向かった。そのおかげで、遠くに新三郎たちを見ることができた。
道は二本あったので片方を阿火局に任して、もう一本の道に景清は回り込んだ。遠目で見ると武士が二名に騎乗の女が一名。景清と手下の三騎では取り逃がす可能性がある。徒歩で追ってきている手勢を急いで呼び寄せるために、一騎を伝令に走らせた。
しかし、思ったより早く、新三郎たちが景清のほうに向かってきた。
――やるしかあるまい。
景清は全員に太刀を抜くよう命じた。源氏の領内で目立つわけには行けないので、長物の武器は持ってきていない。
新三郎は八角棒を構えた。隣を見ると貞親が驚いた顔をしている。
「景清ではないか!」
「猿武者! 猿武者!」
景清の背につかまっていた、童武者が馬からひょいと降りた。
「ほう、お前が護衛役とは。いいだろう、屋島の借りを返してくれる――だが」
景清は馬腹を蹴ると、巴御前に向かって行った。
「お前の相手は、赤子を殺してからだ」
太刀を振り下ろす。走って追いついた貞親が下から二刀で弾く。
「ええい、面倒な。お前ら二人も加勢に来い――」
二騎のうち、一騎には新三郎が乗っていた。馬の下には手下が一人絶命していた。
「そうか、お前も強いことを忘れていた。おい、今は足止めするだけでいい」
戦いが続く、貞親と景清の手下がそれぞれ守りに徹したため、なかなか決着がつかない。景清も万が一馬を切られてはかなわぬので大胆には攻めていない。取りあえずは道の出口を背にして。赤子が乗った馬を逃がさないようにすることを考えていた。
――今はそれでいい。もうすぐ来るだろう。
新三郎の攻撃に耐えきれず、景清の手下が討たれたとき、徒歩で追ってきた景清の手勢四十名が現れた。景清はそのうちの十名に道をふさがせ、三十名に襲わせた。新三郎たちはいったん下がり、義高が休んだ大樹を背に巴御前を守った。新三郎は馬から降りている。
景清は馬の上から状況を見ている。阿火局側の道への配置が終わり次第、降りて戦いに加勢するつもりだ。あの二人は強い。景清は指示を出す。
「武士を倒すことに心を捕らわれるな、隙を見て女を狙うのだ! 怨敵・源義経の子を殺すという、我々の目的を忘れるな!」
「おう! 平家の仇!」
たくさんの声が応じる。走って追ってきた手下たちの息も整ってきたようだ。逆に新三郎たちの息は上がってきている。景清の手下が五名やられてしまったころ、ようやく巴御前に太刀が届きはじめた。巴御前が馬の後ろ側に落ちた。
「そうだ。それで良い」
満足げな顔をした景清の表情が、すぐに不可解な色に変わった。
「なぜ、人が吹き飛んでいるのだ? あれは何だ……」
馬の後ろから、手下の手首を持って鞭のように振り回す女が現れた。その女は太刀を取ると、三人の手下をすべて一撃で倒した。
「木曽義仲の妻、巴御前の太刀を受けたいものは前に来い!」
「巴御前だと! 生きておったのか!」
誰もが知っている木曽の英雄の名に手下たちが怯んだ。
「貞親! 新三郎! そなたたちに守られるほど、わらわは弱くない。攻めるのだ!」
巴御前は今まで戦いに参加してないだけあって、気力が違っていた。一振りするだけで一人殺された。手下たちは遠巻きに囲むことしかできなくなった。
――気で飲まれてしまったな。挽回するには、この景清が行くしかあるまい。
景清は馬から降りると、黒刀を抜いた。
そのとき、景清の両脇を一陣の風が吹き抜けた。後ろから呻き声が聞こえる。振り返ると道をふさがせていた手下がバタバタと倒れていった。前を見ると騎乗の若武者が二人。その一人の後ろには布で顔を隠した少女が必死で若武者につかまっていた。
「海野! 望月! 早く帰らないとお母さまに感づかれるわ! 一人五本。狙うのは足だけ! いいわね!」
「御意のままに!」「お任せあれ!」
二人の若武者は次々と矢を放つと、景清の手下たちは悲鳴をあげながら、うずくまっていった。
「急いで帰るわよ! 望月、一本外したわね! 何がお任せあれよ」
「――面目ござらぬ」
風のように現れた若武者たちは、戦場で嵐を起こして去っていった。だが、その結果は景清にとって悲惨だった。立っている手勢の数は十人を切っていた。しかも戦意を失いつつある。
景清は残りの手勢を若武者たちが通った道側のほうに移動させ、片方の包囲を開けた。
「お前らは攻撃しなくて良い。その代わり絶対に逃がすな!」
ゆっくりと近づいてくる景清。息を切らせながら貞親は言った。
「巴御前、奴は危険です。馬にお乗りください」
――逃げたら阿火局に任せよう。今は殺すことだけに集中する。
景清は踏み込んで黒太刀を振り下ろす。八角棒で流し受ける新三郎。
「グハッ!」
八角棒ごと、新三郎は斬られた。
「受けることが分かっていれば、棒など無いも同じこと」
「新三郎!」
「巴御前、馬の呼吸を整えておいてください」
貞親は倒れようとする新三郎を支えた。巴御前は新三郎を片手で馬の上に引き揚げる。
“洞吹”に貞親が語りかける。
「――お前ならできるよな」
景清が大上段に構えて近づいてきた。
――受け太刀ごと弾き飛ばして、わしを斬るつもりだろう。残念だが、今の体力では捌ききる自信が無い。だから、こうさせてもらう!
貞親は二刀を地面に叩きつけると土を巻き上げた。景清の視界が一瞬塞がれ、土が舞い上がる中から太刀が二本飛び出してきた。景清は一本を叩き落とし、もう一本は身体を捻ってかわした。
――小細工を! だが、これで貞親の武器は無くなった。
「一か八かの攻撃か? だが、残念だったな」
景清は勝ち誇って言った。
「ああ、また今度な。“洞吹”、力を見せろ!」
土埃が晴れたとき、貞親の声は地上からではなく、馬上から聞こえた。
ボヒヒ―――――ン! “洞吹”が走り出した。
「!? あの馬、四人も乗せて走れるのか!」
景清は急いで馬に乗ると追いかけた。阿火局のほうに逃げたのは、景清の作戦通りだった。さすがに四人も乗せると重さで馬の足も鈍い。すぐに追いつけそうだった。
――誰か一人見捨てれば逃げ切れるものを。だが、巴御前は油断できない相手だ。
太刀の柄を強く握る。正面に騎馬に乗って短弓を構える阿火局が見えた。
――お前か、この場所を教えたのは。
馬の手綱を握りしめながら、貞親は阿火局を見ていた。
――惚れた女に殺されるのも悪くない。あいつの手柄になるのなら。
「巴御前、前の女武者が弓で狙っております。わしが射られたら、馬から落として逃げてくだされ。乗っているのが三人であれば“洞吹”は早いです。秩父まではもう近い。今は逃げることだけお考え下さい」
「倒せないの?」
「あれは新三郎の妹です。傷つけたくはない」
「――わかったわ。」
――引き付けすぎではないか?
景清は阿火局がなかなか弓を放たないことに苛ついていた。確実にしとめようとするのは良いことではあるが。しかし――。
「おい! もうぶつかってしまうぞ」
景清は声を上げたと同時に異変に気付いた。おかしい、阿火局以外の手下がいない。
“洞吹”は阿火の局の横を駆け抜けた。
「阿火局!」
景清が叫んだとき、阿火の局の弦から弓が放たれた。
馬が膝から崩れ落ちた、景清は地面に放り出された――。