第32話 文治二年(1186年4月) 静の舞
鶴岡八幡宮の控えの間で安達新三郎は困り果てていた。数日前から、政子の願いで舞いを奉納するように命じられていた静御前は、病気と偽って断っていた。しかし、囚われの身では拒否し続けるわけにはいかず、磯野禅尼と新三郎が何とかなだめすかして、鶴岡八幡宮まで連れてきた。
「これは義経殿の妾の私を、皆の前で辱めるためのもの。嫌です……」
白拍子の衣装を前にして、またぐずり始めた。
「それは誤りです。静御前の天下一の舞は鎌倉にも聞こえております。皆、その芸を見たいだけなのです。それにこれは御所では無く、御台所様たっての希望です」
説得している間も、表から催促の使いが次々くる。
「決して御台所様が辱めるようなことはさせません。それに、義経殿の命乞いもお手伝いしてくれかもしれません」
「命乞い?」
この言葉が静の心に火をつけた。
「命乞いする必要などありませんわ。我が夫はまだ負けてはおりません! いつか鎌倉に攻め入ります。いいでしょう。我が夫に代わり、静が先陣を務めます。未来の敗北を知らない憐れな者たちに、冥土の土産として天下一の舞いを見せてあげますわ!」
急な変化にあっけにとられる新三郎をよそに、静御前は白拍子の姿に変化していった。磯野禅尼はというと娘の気性を知っているのか、特に驚いた様子もなく静御前を手伝っていた。
「これは、これは……」
新三郎は息を飲んだ。白い直垂・赤袴・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀を身に付けた静御前は、立ち姿だけで新三郎を魅了した。
静は回廊に立った。伴奏役の工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を緊張気味に構える。白雪のような真っ白な袖をひるがえすのをきっかけに、舞いが始まった。
演目は御台所が希望した、中国の故事を題材にした黄竹の歌である。これは王が帰ってくるのを待ち焦がれる恋歌だ。皆が芸に見惚れていたとき、静は詩の内容を変えてきた。
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
静は義経のことを歌っていた――義経が京で名声を得ていた昔に戻りたい。吉野山で別れた義経を恋焦がれている、と見ている者に舞で語り掛けてくるのだ。
もともと義経襲撃に手を上げることが少なかった御家人たちだ。心のどこかで義経に同情を感じている。芸の凄さも相まって、鶴岡八幡宮は感動に包まれていた。義経を陥れた、頼朝と梶原家の者以外は――。
頼朝は怒ったが、政子になだめられると、それ以上、何も言わずに褒美を与えて静を下がらせた。
「冷や冷やしながら見ておりましたが、途中からは考えるのを忘れ、天下一の舞に引き込まれました」
新三郎は静を自分の屋敷に連れて帰った翌日に、本田貞親・惟宗忠久をともなってきた重忠と話していた。重忠も興奮気味に話す。
「名人というものは周りの芸も引き上げてくれるものだな。途中から自分が自分でないような気がした。工藤佑経もそう言って驚いていた」
「そういうものですか。それより、短い間に、弟とずいぶん親しくなりましたな」
新三郎が不思議そうに聞くと、忠久はうれしそうに応えた。
「毎日、畠山殿の御屋敷に戦のやり方を聞くためにお邪魔しております。それに――」
忠久は重忠に問いかけるように眼差しを向ける。
「うむ、娘を忠久にやることした。もうすぐ婿になる」
「重忠殿の姫様はまだ幼子ではございませんか」
「大事にすると言っている。なあ、忠久」
忠久は真剣な顔でうなずく。
「――待てよ、姫様の母は貞親の姉、ということは……」
「新三郎はわしの甥になる。これでおぬしも畠山一族だ」
貞親は後を引き取って応えた。新三郎は頭の中を整理にするのにしばらくかかった。
鶴岡八幡宮での静の評判は思わぬ余波を起こしていた。鎌倉内で梶山家の評判が悪くなったのである。静御前に同情した御家人たちは、義経と仲が悪い事で有名だった梶原景時と梶原家の息子たちを悪者にした。陥れた張本人は頼朝だが、頼朝には言う事が出来ないのも梶原家にとって不幸だった。
納得できなかったのは梶原景時の三男・景茂である。義経追い落としに加担していた父や兄と違い、事情をよく知らなかったこともあって理不尽に感じたのだろう。
収まらない梶原景茂は静御前の御機嫌伺いと称し、頼朝の寵臣の工藤祐経、藤原邦道らを語らって新三郎の屋敷に乗り込んできた。
「困ったことだ――」
こんなときに限って重忠たちは遊びに来ない。同行してきた千葉常秀と八田知重は行儀がいいほうだが、藤原邦道と工藤祐経は根がお調子者である。酒が進むと、静に舞いをせがんだ。世慣れしている磯野禅尼が代わりに踊ることで場をうまく取り持ったが、梶原景茂は引き下がらない。元々、静に絡む気できたのだ。卑猥な言葉を投げかけ言い寄ってきた。
――ここまでだな。
新三郎が彼らを追い出そうとしたとき。ぴしゃりと音が鳴った。
「義経様は御所の弟で、私はその妾です。それを御家人の身分で言い寄るとは恥を知りなさい! 本来ならば、貴方は私と同席することすらありえないのですよ!」
静は涙を浮かべ、頬をさすっている梶原景茂を睨んでいた。場が一瞬で白けた。
「皆様方、そろそろお帰りを――」
新三郎はこれが潮時と皆を帰らせた。
「義経も高慢だったが、妾はそれ以上だ!」
梶原景茂は毒づきながら帰っていった。だが、新三郎はその言葉より、彼らの視線が何度か静の腹を見ていたことのほうが気になった――。
新三郎の予想は的中した。数日後、頼朝から呼び出しがあり、静が妊娠したことを報告しなかったことを叱られた。そして、静が出産するまで屋敷で預かること、産まれた子供が男児であれば、即座に殺すことを命じられた。帰る際には、心を悟られたのか、
「新三郎は女の情に弱いからな。清水義高のようなこともあるかもしれん。検分役も何人か考えておく――我への反抗に二度目は無いぞ。忠義を示せ」
「はっ、必ずや成し遂げます!」
新三郎は心の中で誓った。必ず成し遂げる。男児が産まれたならば、今度こそ生かしてみせると――。
※参考wiki 肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%BE%A1%E5%89%8D#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shizuka-gozen_in_her_farewell_dance_to_Yoshitsune.jpg