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源氏の子 ~源頼朝に逆らった男たち~  作者: キムラ ナオト
第二部 源義経の子
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第31話 文治元年(1185年12~1186年4月) 院と時政

 京に入ってからの北条時政の忙しさは並大抵のものではなかった。鎌倉の要求を院に飲ませ、京の治安を確保し、公卿の要求にも応え、義経・行家の捜査と、やることが次から次へと時政の前に積まれていった。それを時政は辛抱強く裁いていった。後白河法皇(ごしらかわほうおう)の要求に対しても、まずは確認させてほしい、まずは鎌倉の意向を聞いてから、と即答を避けてかわしていた。


 ようやく、鎌倉から一条能保(いちじょうよしやす)が京へ入ったので、公卿関係の仕事は引き継ぎ、治安と捜索に専念した。すると京からは盗賊が消え、平家の残党や義経・行家のことも、皆忘れてしまったかのように民も落ち着いた。


 有力な武士を見つけると、手を伸ばすのが後白河法皇の(さが)である。時政に対して、新たに七カ国の地頭職を任命した。これを受けると、一時期の甲斐源氏を遥かに超え、時政は頼朝に次ぐ勢力になる。



「危ない、危ない、ようやく逃げられた。三度目でやっと辞退させてもらえた。後白河法皇に直接会わないように避けていてもこれだ。やはりあの方は日本一の大天狗だ」


 院から下がってきた時政は江間義時にこぼした。


「地頭の任命権は御所のものだと聞いておりましたが――」


「そこよ。まだ地頭を置くと決まったばかりだから、鎌倉も誰を地頭にするか名簿ができておらぬ。希望を募って作っておる最中と聞くが、今は鎌倉の政治を預かる者のほとんどが京だ。決まるまでは時がかかるだろう。法皇はそこをついてこられた。決められないのなら、こっちで良い武士を選んでやろうと、わしを任命した」


「大江殿も、――守護・地頭案を強く推してきた割には名簿もできておらんとは、片手落ちにもほどがある。こんなことなら院でもう一度考え直そうか――と、散々嫌味を言われているようです」


「そして、勝負所と思ったら、渋らずに七カ国を出す大器量よ。どうせ後で鎌倉が決める。だから大盤振る舞いしたところで、法皇は痛くもかゆくもないのかもしれんが――」


 頼朝は御家人が勝手に任官されることを禁止している。しかし、院は頼朝より立場が上であるので、院に対して任官するなとは頼朝は言えない――昨年に起こった、御家人が勝手に任官を受けた事件にしても、後で頼朝が御家人たちに代わって辞任を届けただけで、頼朝は院に対して苦情は言っていない。


「心が揺れましたか?」


一条忠頼(いちじょうただより)の最後や義経を見ていなければ、間違いなく揺れただろう。勝手に受任するのは御所の怒りに触れるが、その代わり大軍と院の後ろ盾が得られるはずだった――しかし、もう院の威光では軍は集まらない。義経を見ただろう。それほど御所は大きくなられたのだ」


「相手が御所で無ければ?」


「……御所の挙兵は、もっと危険な賭けだった」


 時政はそこで言葉を止めた。義時の顔をじっと見る。


「天下に興味があるのか? 義時ならどうする?」


「私は柄ではありませんよ」


 時政は物足りなそうな顔したが、それ以上、何も言わなかった――。




 時政と義時に対して、頼朝からしきりに鎌倉に戻るよう催促があった。後白河法皇が地頭任命を使って離間を図っていることと、京に政務を執れる者を送りすぎて、頼朝の相談相手が鎌倉にいなくなってしまったからだ。


 もう一つは頼朝の家庭に問題だ。大倉御所に仕えていた侍女の大進局(だいしんのつぼね)に、頼朝が手を付けて男児が生まれたのだ。頼朝はすぐに長門景遠の屋敷に遠ざけたが、政子に気づかれて困っているという。


 義時はすぐに鎌倉に戻ったが、時政は法皇があれこれ理由をつけて帰るのを引き留めたため、義時から遅れること一カ月後、ようやく時政も鎌倉に帰還した。時政の代わりともいえる一条能保は、武士というよりも文官なので法皇は何も仕掛けてこなかった。これ以降、法皇は奥州藤原氏に目を向けるようになる。



 この月、甲斐源氏の武田信義が病で息を引き取った。これで、残る甲斐源氏の有力者は安田義定のみとなった。




「貞親のおかげで助かった。静御前と磯野禅尼(いそのぜんに)を預かれと命令されたときは、嘆き悲しむ声を毎日聞きながら過ごさねばならないかと憂鬱(ゆううつ)だったが、楽しげに過ごしておられる。どう言い聞かせたのだ?」


 新三郎は鎌倉の自邸で貞親に礼を言っていた


「ありのままを言っただけだ。御所は女子には異常なまでにお優しい。木曽義仲の妹が昨年、京で問題を起こしたときも、御所は鎌倉で少し叱った後、地元の信濃に返すだけで処罰を下していない。誅殺された義高どのが可哀そうなぐらい、大事にされていると」


 貞親は頭を掻きながら続けた。


「だが、一つ問題がある。静御前は隠しているが、いずれ御所にばれるだろう――義経殿の子を宿している」


「まずいな――取り調べが早く済めば、気付かれずに帰されるかもしれん。静御前は義経殿のことは何も知らないのだろう?」


「磯野禅尼にも聞いてみたが、吉野山で別れてその後、義経殿から知らせが来た様子は無い。調べてみたところで何も出ないだろう。だが、静御前は義経殿の想われ人であることに誇りを持っているし、隠しもせぬ。これが御所の怒りに触れるかもしれん」


「ううむ、ただ我々が心配したところでどうにもなるまい――ところで妹にはもう会ったのか?」


「まだ何も知らせはない。落ち着いたら会いに来るとは言っていたが……」


 屋敷の外から人の話し声が近づいてくることに気づき話を止めた。


「新三郎! いるか!」


 畠山重忠の声である。門のほうに出迎えに行くと、久しぶりに見る顔があった。


「新三郎も水臭い。鎌倉に戻ったのなら、比企(ひき)殿のところにいる弟に会えば良いものを」


 重忠の後ろから若々しい声がした。


「兄上、重忠殿に聞いて、兄上が鎌倉にいるのを知りました。生きていたのなら、なぜ知らせてくれなかったのですか?」


「俺は惟宗(これむね)の家を出たからな。兄貴面して会いに行くほど、図々しくはないつもりだ」


 重忠が連れてきたのは、惟宗忠久(これむねただひさ)惟宗忠季(これむねただすえ)。まだ少年らしさを残した惟宗広言(これむねひろこと)の息子たちである。


「私たちも家を出て、母上の実家である比企家に世話になっております。遠慮する必要などないではありませんか。兄上も比企家に身を寄せてはどうですか」


「馬鹿を言え、お前たちと違い、家を飛び出した俺が行ったところで向こうも困るだけだ」


 惟宗の家は複雑だ。新三郎と阿火局は先妻の子で惟宗忠久と忠季は後妻の連れ子だ。実の父親は惟宗広言の弟・惟宗忠康(これむねただやす)になる。


 二人とも黙ってしまったので、重忠が話を変えた。


「師匠の息子が鎌倉にいるというので会いに行ったら、見ての通り実に良い武者振りではないか。平家との戦でも活躍して所領ももらえたという。新三郎は立派な弟を持てて、うらやましい」


 惟宗兄弟は恐縮した。忠久が新三郎に言う。


「我々兄弟は母上のおかげで引き立てられただけです。戦のことなど何もわかりません。此度、重忠どのとはご縁が出来ましたので、いろいろ相談させていただこうと思っております」


 惟宗兄弟の母は丹後内侍(たんごのないし)と呼ばれている。頼朝の乳母・比企尼の長女だ。頼朝が姉のように慕っており、初恋の相手とも噂されている。嫉妬深い政子が黙っているのは、それが政子と頼朝が出会う前のことだからである。


 丹後内侍は歌の上手さが京に届き、坂東から京に呼ばれた。京の二条院では“歌の無双”と呼ばれ、京武者である惟宗忠康と恋仲になり嫁になったが死別。その後、惟宗広言に再嫁したが離縁し、今は安達盛長の妻になっている。


「ところで兄上。姉上は――」


「生きている。いずれお前たちにも会いに行くだろう」


 新三郎は重忠の前で改まると、手をついた。


「弟たちのことよろしくお願いします」


 重忠は満足そうな顔でうなずいた。


 その後、酒宴が開かれた。静と磯野禅尼も加わり、賑やかなひと夜であった――。

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