第29話 文治元年(1185年10~12月) 院宣の代償
義経への刺客が京へ向かっている頃、義経も謀反に向けて動き出していた。
十月十三日――内密に後白河法皇に会い、新宮行家と自分は身を守るために、蜂起せざるを得ない、頼朝追討の院宣を出してもらえないなら、宮中で自殺すると訴える。
十月十七日――土佐房昌俊は義経の六条室町の屋敷を襲撃する。義経が粘り強く防戦している間に外から新宮行家の手勢が駆け付け、土佐房昌俊は挟み撃ちされ、返り討ちにあった。
十月十八日――院で頼朝追討の宣旨を出すどうか会議が行われる。今、京で軍を持っているのは義経しかいない。断ったところで、武力に訴えられたら結局院宣を出すことになる。それならば、この状況を取り繕うために院宣を出して、後で詳しい事情を鎌倉殿に話せば、怒らずに分かってくれるだろう、という結論で落ち着いた――。
ついに、義経と新宮行家に頼朝追討の院宣が下ったのである。
頼朝の動きは早い。十月二十二日に土佐房昌俊の襲撃失敗、義経に院宣が下りたことを告げる伝令が来ても動揺せず、二十三日に先発隊を出し、二十九日には頼朝自ら出陣。
土肥実平を先陣、千葉常胤を殿として鎌倉から軍を発した。東山道、北陸道の御家人にも動員をかけ、平家追討以上の大軍を京へ向かわせた――。
義経は京で兵を集めようとするが、わずか二百しか集まらず、新宮行家と別行動で九州へ落ちることになる。その二百も道中で鎌倉方に襲われ、九州行きの船が暴風雨で大破すると、周りの者は逃げ散り、義経の周りに残ったのは側近三名と静御前の四人だけだった。
本格的な戦いをする前に義経は、大将軍から逃亡者の地位に落ちていった――。
頼朝は義経が九州に落ちたことを知ると、計画通り大軍を駿河国へ留めたままで、院に対して大抗議を始めた。
また親しい公卿から、頼朝追討の院宣を下す合議の際に、公卿の誰が賛成し、誰が反対していたかの情報も入ってきた。有力者では左大臣藤原経宗は賛成、内大臣徳大寺実貞は意見をはっきり言わず、右大臣九条兼実が鎌倉の味方をして賛成したということがわかってきた。
院はすぐさま義経の官職を剥奪し、頼朝に言い訳の使者を送ってきた。書状にはこう書いてあった。
――行家と義経の謀反の行動を許可したのは、天魔に魅入られたからだ。もし、院宣を下さらなければ、宮中に入って自殺すると言うので、(宮中は穢れを嫌う)当面の災いを逃れるため、仕方なく院宣を出した。本心では無いので、本当の院宣を下していないのと同じことである。
頼朝は使者の前で大激怒すると、返事を書く書状を投げ捨てて、言い放った。
「天魔に魅入られた仕業ですと! 頼朝は朝廷に敵対した平家を降伏させ、年貢の徴収でも朝廷に忠実に仕えている! それなのに、この頼朝を反逆者とみなす院宣を下した! 行家と義経も捕まるまでは、諸国を荒らしまわすでしょう。ようやく国が落ち着いてきたのに、これでは民がまた苦しむ! その原因を作ったのは他でもない、日本一の大天狗、院御自身でしょう!」
院では言い訳の当てが外れたことに公卿たちが動揺する。行家・義経を追討の院宣を西国に出した後、今後の対応を話し合っているところに、頼朝から提案書が奏上された。
――行家・義経の件で世はまた混乱するでしょう。東海道は、頼朝が無事に治めることができますが、地方においては必ず反乱が起きます。これを討伐するために毎回、坂東から軍を出していたのでは、兵も、雑役に使われる農民もたまりません。費用もかかります。朝臣、頼朝は提案します。諸国の国衙(各国を統治する役所)と荘園それぞれに武士の守護、地頭を置けば、地方諸国の反乱に対し、その国の守護・地頭が対応することができ、人民は安心して暮らせるでしょう。
この案だと公卿たちと荘園の間に、管理役として地頭が入ることになる。地頭は治安維持と徴税の任を負い、軍が必要な場合は兵糧を徴収できることもできる。
頼朝は地頭の役目は武士にしかできないと言ってきており、そうなると任命権は自然と武家の棟梁である頼朝に帰属する。当然、院をはじめ公卿たちは渋ったが、行家・義経の捜索を盾に頼朝は強硬な姿勢を崩さなかった。
北条時政が三千騎を引き連れ京に入り軍事的圧力を加えて奏上すると、とうとう院は屈した。諸国への守護・地頭職の設置と任命権を頼朝に認めたのだ――。
「勅許おめでとうございます」
「院は釣り針になかなか掛らぬし、義経に余りにも人が集まらず、簡単に捕まってしまうのではないかと慌てたぞ。まあ、そなたの知恵が抜群な証拠なのだが……」
「申し訳ありません。少々、手を回しすぎました」
大倉御所では頼朝と大江広元が祝杯を上げていた。
「ただ、大天狗がこのまま引き下がるとは思えん。相談相手がいなくなるのはつらいが、そなたにも一条能保と京へ行ってもらう。右大臣九条兼実を支援しろ。表立ってやっても構わん」
「兼実卿を中心に院での鎌倉派を増やします。そして――」
「将軍になり幕府を開く」
「武家の世のために――」
二人は、月に杯をささげると、そのまま飲み干した。
義経の行方はというと、静御前が吉野山付近で捕えられたので、吉野山に潜伏しているのではと噂されている。義経の舅にあたる河越重頼は所領没収の上、嫡男重房とともに誅殺された。
武蔵国の軍事統率権を握る“武蔵国留守所総検校職”は畠山重忠が引き継ぐこととなった。
「義経殿は手も足も出なかったのか? 新三郎」
「ああ、負けは分かっていたが、こうもあっけないとは。千騎ぐらいは集まるかと思ったのだが、集まったのは二百足らず。その程度の数では先行きが不安で皆が逃げ出す」
新三郎と貞親は、六条室町の元義経の屋敷の前に立っていた。今は北条時政が連れてきた兵たちの宿として使われている。
貞親は秩父に戻り、重忠とともに頼朝の上洛軍に加わっていたが、その軍も先日解散した。京も北条時政の手腕で早期に安定したので、貞親は重忠に京の様子を見て来いと言われてきたのだ。
「おぬしは吉野山には行かんのか?」
「御所は義経殿の追討は急いでないようだ。今は院と公卿を見張っている。人に話せないことが多いから、気楽に酒を飲める相手もいなかった。来てくれてうれしいぞ。今日は朝まで飲もう!」
「いいな! ただ、その前に一つだけ気になることがあってな。世話になった人の安否を確かめてから、おぬしのところに顔を出すとしよう」
そう言うと、貞親は西河のほうへ向かって歩き出した。
阿火局は遊郭“天女”の一室で、最後の一人を送り出そうとしていた。
「もう、いつまでも泣いてないで。あなたは天下の白拍子・磯野禅尼の弟子なのよ。そこらの遊女なんか、あんたに勝てるわけがないんだから。姉妹弟子の中では他の遊郭でもう一番太夫になっている子だっているわ。堂々と胸を張って芸を見せなさい。そうすれば、殿上人だって、あんたに惚れてしまうわよ。さあ行きなさい」
磯野禅尼の弟子は深々と頭を下げて出て行った。
「さあて、あたしも牧の方の元へ戻ろうかしら」
義経追討の院宣が出ると、静御前の母である磯野禅尼は店を閉めて身を隠すことにした。阿火局は弟子の白拍子たちの行く末を磯野禅尼に頼まれ、それぞれ行き先の世話をしてやり、とうとう今は入り口を閉じた遊郭に一人だけになった。
「京を去る前に少しだけのぞいてみようかな」
阿火局は惟宗広言が住む、三条通りに足を向けた――。