第20話 元歴元年(1184年4~6月) 義高始末
阿太郎が元に居た場所に戻ったとき、そこには清水義高はいなかった。本田貞親とひざまずいて念仏を唱えている武士。そして馬に乗った畠山重忠とその家人たちがいた。その中の一人、榛澤成清が“洞吹”に乗っているのを見て、阿太郎は義高の死を悟った。
「熊谷直実殿の“権太栗毛”は、いつ見ても良い姿をしておりますな。うらやましい」
ひとしきり直実の乗馬を褒めた後、重忠は改まって言った。
「直実殿にお願いしたいことがございます。ここ来る道中で小袖の切れ端を拾ったのですが、これも何かの縁、供養してはもらえませぬか」
直実は受け取った小袖の切れ端をじっと見た後、大きくため息をついた。
「――何だか、急に法然様に会いたくなったわい」
湿った声でそうつぶやくと、直実は“権太栗毛”に乗って去っていった。
「貞親、ご苦労だった。残念ながら義高様はここへはこなかった。阿太郎が“洞吹”をわしに届けに来ただけだ。義高様は秩父では見つかることはないだろう」
重忠は貞親をねぎらうと、茫然と膝をついている阿太郎に厳しい声で命じた。
「阿太郎、わしとの約束を破った罪により、謹慎を命ずる!」
「承知……、いたしました……」
「貞親を恨むなよ。わしとおぬしを救おうとしたのだ」
成清と家人たちが阿太郎を連れて行くと、重忠と貞親の二人になった。
「よく阿太郎と義高様を引き離してくれた。阿太郎を殺さずにすんだ」
「なぜ、殿は義高様を見つけることができたのです」
「そのための“洞吹”だ」
貞親は合点がいった。
「馬の声を聞き分けるのは殿の得意技ですからな。それに“洞吹”は殿のことが大好きだ。見つけたら喜んで近づいていく」
「直実殿の“権太栗毛”のいななきが聞こえたときは、何が起こったのかと慌てたがな」
重忠と貞親は笑いあった。
「ところで、おぬしの馬はどこにおる? 待っているから乗って来い」
貞親が馬を繋いでいる場所に行くと、馬がいなかった。地面に文字が書いてある。
(髪の代金也)
「高すぎるわ!」
貞親は木を蹴ったが、その顔は笑っていた――。
義高を追っていた堀親家たちが、義高を見つけたのは追跡して二日目の昼だった。郎党の一人、藤内光澄が入間河原の岸に流れついた死体を見つけ、手柄を奪われてはかなわぬと、さっさと首を斬ってしまった。死体を郎党に調べさせながら。堀親家はほっと胸を撫でおろした。
あまりにも手がかりが少ないため、捕まえる自信が持てなかったのだ。それほど、大倉御所の奥は堀親家を敵視していた。侍女の誰一人として何も語らず、海野幸氏と望月重高には、政子と大姫が決して合わせようとしなかった。
牧の方だけが周りの目を気にしながら、義高は武蔵へ向かっかもしれないと話してくれた。たった一人の証言では心ともなかったが、手がかりがそれしかない以上、堀親家は行くしかなかった。
義高の死体には無数の矢が刺さっていた。顔にも何本か刺さっていた。小さな矢なのでなかなか死ななかったのだろう。惨たらしい死体である。だが、胸には大きな矢で射られた跡があった。小さな矢は刺さったままだが、この矢一本だけ抜かれている。
堀親家は疑問を持ったが、すぐに違うことに目が行った。右手に握りしめた雛人形である。取ろうとしたが、手が固まってしまっていて指を切らないと取ることは難しい。
――まあいい。御所が見たいのは義高の首だ。
堀親家は首桶を持ってくるよう郎党に命じた。
その後、大倉御所では大姫に義高の死が伏せられていたが、牧の方が大姫に義高の最期を話してしまった。義高が多くの矢でむごたらしく殺され、雛人形を握って死んだことを聞いた大姫は泣くこともできず、気絶した。
政子は牧の方を責めたが、大姫はむしろ義高の死を隠していた政子を責めた。そして、食を絶ち、男雛の人形を胸に抱いたまま、日に日に痩せていった。
政子は連日、源頼朝を責めた。大姫の衰弱している姿を見ている侍女たちも、頼朝への非難こそないが、堀親家とその郎党への憎悪を隠さなかった。侍女たちは外でも堀親家たちを罵って回った。
はじめは「ままごと夫婦だ、しばらくすれば忘れる」と言っていた頼朝も、一カ月以上経っても回復しない大姫の様子を見て心配しはじめた。
とうとう堀親家が頼朝に泣きついた。恩賞はありがたいが、奥の侍女たちに悪口を言いふらされるのはたまらない。侍女たちを黙らせてくれ、と。
頼朝の答えは、政子がいない隙を見て、堀親家を大姫の部屋に連れて行くことだった。今にも死にそうな大姫の姿を見て、堀親家は何も言えなくなった。そればかりか、藤内光澄の首を出さなければ、堀家が無くなると思った。すでに堀家は義高を討伐した御家人ではなく、大姫を殺そうとする御家人として見られていた。
数日後、藤内光澄の首が頼朝に届けられた。政子の怒りは収まったが、大姫の心はわずかばかりも癒されなかった。この事件以降、頼朝夫妻は大姫の心を何とかしようと、いろいろなことを試みるが上手くいかず、苦労することになる。
大倉御所の奥が悲しみに暮れているときも、頼朝の動きは止まらなかった。義高追討を名目に考えていた策を、木曽義仲と義高の残党狩りに名目を変えた。数日後、足利義兼、小笠原長清を大将に鎌倉から信濃へ向け軍を出す。坂東に残っている御家人を総動員し、残党狩りには不必要なほどの大軍で進んだ。
甲斐源氏はあまりの大軍が領内を通過する姿を見て、何かあるのではと動揺した。頼朝としては、これで甲斐源氏の一部が暴発でもしたら、一戦して討ってしまえという腹づもりだった。しかし、甲斐では何も起こらなかった。信濃では鎌倉の大軍を見て、義仲の残党が次々に頼朝に臣従を誓った。
さらに一か月後の六月には一条忠頼を鎌倉に呼び、御家人たちが並ぶ祝賀の儀式の中、数名で取り囲んで誅殺した。これにより甲斐源氏の中で一番の実力者が消えた。