第19話 元歴元年(1184年4月) 貞親の策
阿火局は戻ってきた本田貞親に、小刀を抜いて問い詰めた。
「なぜ、戻ってきたの。私が女だから仕損じると思ったのでしょう!」
「いや、逆だ。おぬしにしか出来ないことを頼みたい。上手く行けば阿太郎に傷を負わせることなく、義高様を斬れる」
貞親は阿火局の顔を見ると首をかしげた。
「人の顔をじろじろ見ないで。何なのよ」
「亀の前の屋敷の前で会ったときと何か違うなあ」
「ああ、禿頭(おかっぱ)を止めたのよ」
「これでは遠目では気づかぬ。禿頭になってくれ。それで切れるだろう」
阿火局はぶつぶつ言いながら、小刀で髪を切っていった。
「囮に使われるのはいい。役目のためだからね。けど今後、女に対して簡単に髪を切れ、なんて言わないほうがいいわよ。今もこの小刀を投げたいのを我慢しているんだから」
貞親は阿火局を見ながら、気の強い女も悪くないな、と考えていた。
「お前が頑張ってくれたのは分かっているさ。もうすぐ、お前の主人も来る」
阿太郎はボヒヒーンと鳴く“洞吹”を優しく撫でていた。清水義高は大木に寄りかかるよう眠っている。
後、何日走り通せば信濃に着くだろう。そんなことを考えている阿太郎の眼の端に何かが止まった。禿姿の童女がこちらを見ている。間違いない、逗子で見たあの童女だ。なぜここにいる? 妖魔の仕業か? 義高はまだ目を覚まさない。
――すぐに戻れる、少しの間ならいいだろう。
阿太郎は童女に向かって駆けだした――。
義高は阿太郎が駆けだした音で目を覚ました。すると、前から先ほど阿太郎と話していた貞親と名乗る武士が歩いてきた。抜き身の太刀を持っている。目の前に立った貞親に義高は聞いた。
「畠山重忠殿が来られたのか?」
「殿は来られませぬ――御覚悟を」
貞親が太刀を振り下ろすと、義高は身体を回転させた。女房姿の衣が大きくなびく。貞親の一撃目は衣を斬っただけだった。貞親が横に薙ぎ払う。これも義高はかろうじてかわした。義高も太刀を構える。
「いいでしょう。わしも構えていない相手に斬りかかるのは乗り気ではなかった。義高様、死ぬ前に貞親の渾身の太刀をお見せしよう」
「し、重忠殿が来たのではないか? 蹄の音がするぞ」
「見苦しいですぞ。誰がここに……」
貞親の耳にも蹄の音が聞こえてきた。
――鎌倉の追手か? ならば奴らに斬らせればいいか。
貞親も進んで伏見広綱や牧宗親になりたくはない。貞親は太刀を構えたまま、何者かが近づいてくるのを待った。単騎か? 騎馬が近づいてくる。右手に太刀を持っている。なぜ、わしに向かってくる。あれは――。
「熊谷直実、参る!」
直実の太刀が貞親を襲った。貞親は受太刀で払う。直実は下馬すると、
「貞親殿、一ノ谷では世話になった」
「どういうおつもりですか」
「ものの憐れじゃ。子供が死ぬのは見とうない」
化粧をした義高の顔を、しみじみと熊谷は見る。
「平敦盛殿も薄化粧をしておった……」
「直実殿ほどの武士が何を言っておられる。御所に逆らうことになりますぞ」
「御台所様に泣きつかれてしもうてな。義高様はわしが生かして連れ帰る。それにな、わしは出家するつもりじゃ。一人の子を助ければ、敦盛殿への供養にもなろう」
「それは困る――ならば、斬って止めるしかないですな」
貞親が斬りかかる。二合、三合と斬り結ぶうちに直実の強さがわかる。鋭さこそないが、しぶとく、粘り強い。直実の顔は笑っていた。
「やはり強者相手は良いな。憐れなどと考える暇はない。殺さねば殺される。武士の血が騒ぐ。貞親よ、これでは仏の道に入れないではないか! 義高様、あの馬に乗って早く逃げなされ、しばらく隠れていれば、御台所様がきっと助けてくれましょうぞ!」
貞親は義高を気にしながら戦っているが、直実は貞親との戦いだけに集中している。義高が“洞吹”に乗って逃げて行くのを、どうすることもできなかった。
しまった! 阿太郎は深追いしたのを激しく後悔した。ぎりぎりのところで捕まえることができなかったのだ。ずいぶん義高から離れてしまった。阿太郎は禿頭の童女をあきらめると、急いで戻った。反省したせいか阿太郎の頭の中が冷静になってきた。
「さっきは貞親に無茶を言ってしまったな。重忠殿にお願いすればわかってくれると俺は言ったが、そんな無理が通るわけがないではないか……」
阿太郎は立ち止まった。
――ではなぜ、貞親は納得したのだ。なぜ、重忠殿を呼んでくるといったのだ。無理だとわかっているのに!
阿太郎は再び走り出した。頭にいくつもの予想が沸き上がる。その中には最悪の結末も浮かんでいた。
義高は走る“洞吹”の背に伏せて泣いていた。御台所様が、義母上が命乞いをしてくれていることがうれしかった。義高は十一歳で鎌倉に送られた際、両親に捨てられたと感じていた。少なくとも自分より叔父を選んだ。そう思っていた。
鎌倉でも頼朝は義高を人質としてしか見ず、政子もよそよそしかった。だけど、義高は良い子であろうと振舞った。今は無理でも時間が経てば、本当の息子のように見てもらえるかもしれない。そう願っていた。だが、義高に与えられた時間は一年も無かった。絶望した義高は、木曽義仲の息子に戻ろうと行動した。
しかし、今、政子は義高の命乞いをしてくれている――。
「生き延びることができたら、御台所に恩返ししなければ……」
義高は早く政子の顔が見たかった。息子になれた気がした。“洞吹”がいななく。
「なんだ、お前も喜んでくれるのか――ん? どうした。なぜ止まる?」
“洞吹”が止まったので、義高は顔を上げた。前には体格の良い武士がいた。
「立派な武士だな。僕もあんなふうになれれば、大姫と御台所は喜んでくれるかな……!!」
義高は胸に激しい衝撃を受けると、馬から崩れ落ちた。胸には深々と矢が刺さっていた。手は何かを掴もうと動いている。
――僕は何を掴もうとしているのだろう。太刀か? 違う。僕は謀反人じゃない。木曽義仲の息子はやめたんだ。御台所の息子。大姫の夫。僕が掴むのは家族だ……。
しばらくして義高は息を引き取った。
右手には、女雛の人形が握られていた――。