第12話 寿永三年(1184年1月) 嘆願書
神速。怒涛。神がかり。木曽義仲の進撃を人は様々に例えられた。信濃での源頼朝との会談が三月。嫡子、義高の鎌倉入りが四月、倶利伽羅峠で平家の大軍を撃破したが五月、それから北陸道を駆け上り、七月には京に入っている。
朝日将軍とはよく言ったものだ。旭日の勢いの義仲は、源頼朝を超えようとしていた。頼朝と連携していた甲斐源氏の安田義定も、このときは義仲と行動を共にしていた。このまま平家を倒せば義仲の名声は高まり、頼朝は衰退していったであろう。
しかし、落日はあまりにも早く訪れる。平家が戦わずに都落ちしたことが義仲の命運を決めた。義仲が入京したとき、京には何も残って無かった。平家は後白河法皇も引き連れて落ちる予定だったので、財産はできるだけ持ち去っていった。結果、焦土作戦となった。
京中から義仲は怨嗟の声を浴びることになった。褒美を貰えない武士たち、武士に略奪される民衆、治安に対する院の不満。すべてが平家の統治下より悪化した。
そこからは旭日の勢いがそのまま逆流するかのように、平家の反撃、叔父新宮行家の離反、後白河法皇との対立と衰運が続いた。そして、最後には上洛した頼朝軍に追い詰められ、義仲は北陸に逃げる途中で命を落とした――。
畠山重忠も、搦手軍の大将である源義経らと共に義仲追討軍に加わっていた。今は|後白河院に勝利の報告をして、宿割りされた屋敷に戻ってきたところだ。
「どうでした、後白河法皇は?」
「御簾越しで顔は見えなかったが、円熟味のあるいい声をしておられた。怖れながら今様(流行)の歌の達人だけのことはある」
「また、今様の話ですか。ここは戦場ですぞ」
呆れた調子で本田貞親が重忠に言った。
「戦で名を上げた。郎党も皆喜んでおる。どうせなら弓馬で名を高めたかったが……」
重忠が口惜しそうした。
「怪力無双と評判ですな。わしも殿の側で溺れればよかった。そうすれば徒立ちの先陣だった」
重忠が宇治川合戦で渡河をするとき、いっしょに川を渡っていた大串重親という武者が溺れそうになった。助けて、というので、重忠は大串を持ち上げて敵側の岸に放り投げた。
岸に転がった大串は起き上がると、徒歩立ちの先陣・一番乗りを大声で宣言した。周りは皆、大串が放り投げられたのを見ていたので、敵味方から笑い声が起こった。その話を貞親は冗談めかして言ったのである。
「後は巴御前の袖を引きちぎったことと、馬の鳴き声を当てたことか? 敵の首も取っておるのにのう。とかく世間は面白い話のほうを言いたがる」
「もし、義仲と会っていたらどうしました? わしは会わなくてホッとしました」
「もちろん斬った。幼子のときに父上が助けた男でもな。それにしても、源氏の子は大したものだ。御所も義仲も大軍の大将に育つ」
義仲の父・源義賢と、頼朝の兄・源義平は昔に戦をし、義平が勝った。義平は義賢の二歳の息子の殺害を命じるが、重忠の父・畠山重能は憐れんで信濃に逃がしたのだ。
「その源氏の子のことだ――」
重忠は貞親を屋敷の中に促した。
「阿太郎から、助命嘆願の書状が来ましたか?」
阿太郎は上洛軍には加わっておらず、御所に残っている。
「ああ。ご丁寧に義仲が北陸に逃げたとき用と、義仲が討たれたとき用の二通来ておる」
「やはり。それで、どうされますか?」
「助命嘆願はする。髪を下して高野山に入れると言えば、御所も……」
「殿、わしは反対です。短い間ですが御所を近くで見てきた。御所の家族の問題に立ち入れば、思わぬところから矢が飛んでくる。義仲の子は、すでにあの家族に深く関わっています」
「まだ、一年も経っておらぬぞ」
「源氏の子は侮れませぬ。それを一番よく知っているのが御所だ」
「だがな、貞親。わしが助命嘆願をする理由はもう一つある」
重忠は箱からもう一通の手紙を出した。
「阿太郎の手紙だ。これのみ、読んだら焼いてくれと書いてある。おぬしが読んだら焼くつもりだ」
貞親は手紙を受け取ると読み上げた。
「助命嘆願が叶わぬ場合は義高を逃がします。その場合は重忠殿に疑いが及ばぬよう、私に追手を差し向けてください――ううむ、これは……」
「そうだ。阿太郎は知恵者だが、これは間違っている。おとなしくしていれば、わしでなくとも誰かが助けてくれる道もある。だが、逃げれば必ず死ぬ。今の坂東は完全の御所のものだ。逃げ切ることなどできぬ。それにしても――義高とは阿太郎が命を懸けてまで守りたい者なのか?」
貞親は黙った。阿太郎が動くのは義高のためではない。大姫のためだろう。
「だが、すぐに阿太郎の力にはなれぬ。わしにも大事なことがある」
「それは……?」
「平家との戦だ。わしにとって一番大事なものだ。おぬしもわかるだろう?」
貞親は厳しい顔で頷いた。貞親も重能の仇・伊藤景清を討たねばならぬ。
「戦が終わり坂東に戻るまで、御所が義高を斬らずにいるか――天運に委ねるしかあるまい」
重忠は貞親から書状を受け取ると、燭台の火にかざした。
頼朝はというと、義高という籠の中の小鳥を気に掛けている余裕はなかった。義仲が京で旭日の勢いを示しているとき、頼朝は軍こそ動かさないでいたが、外と内の問題に全力を注いでいた。
外交では大江広元と中原親能、内には梶原景時と北条時政を当てた。そして目的の八割方は達成した。
まず後白河法皇にそれまで非公認だった坂東の政治権利(人事・所領の配分)を認めさせた。これで坂東武者は頼朝にさらに従うようになった。
源氏の嫡流として勲功が義仲の上であることも朝廷に公言させた。頼朝の院との交渉は鎌倉と京という距離にも関わらず、義仲よりも密に出来ていた。
内へは景時を使い、謀反の科で上洛に反対していた坂東独立派の首領格である上総広常を誅殺させた。頼朝は広常の一族がどう動くか見ていたが、冤罪だと抗議するだけで、反乱は無かった。これを見てようやく頼朝は安心して上洛軍を起こしたのだ。
頼朝は平家を倒す前にやっておくべき交渉を、広元・親能と考えている。景時は頼朝に何かを命じられて京に立ち、時政は内なる脅威へ対処を急いでいた。
状況は刻々と変わっていく。源氏同士で戦っているうちに平家軍は息を吹き返し、摂津国まで軍を上げてきた。義仲を倒してから六日後、後白河法皇は頼朝に平家追討と三種の神器奪還の院宣を出した。
義仲攻めと同じく、大手口の総大将は源範頼、搦手口の総大将は源義経。
この戦では重忠は義経ではなく、範頼の軍に加わることとなった――。